1.この世でいちばん、遠い乾杯
この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。
私たちの万華鏡が、一度だけ映し出した、儚い紋様です。
この物語は、甘いカクテルのように始まり、
やがてあなたの心に、消えないほろ苦い染みを残すかもしれません。
それでも、もしあなたが、
誰かの孤独の隣に、そっと寄り添ってくれるなら。
最初のページを、めくってみてください。
人々の声が、飽和していた。
意味を失った音の波が、安いスピーカーから溢れる四つ打ちのビートと混ざり合い、湿った熱となって肌にまとわりつく。テーブルを叩くグラスの音、誰かの甲高い笑い声、空になった唐揚げの皿に残る油の匂い。その全てが、分厚い水槽の底から見上げる水面のように、ぐにゃりと歪んで、遠く、現実感を失っていた。
グラスの縁をなぞる、冷たい指先の感触だけが、かろうじて、私がまだここにいることを証明していた。
視線の先で、サークルの男子たちが掲げたジョッキが、鈍い音を立ててぶつかり合う。獣の咆哮のような歓声。グラスから溢れ出す、黄金色の泡。その、一瞬で弾けて消える無数の白い粒が、彼らの生命そのもののように見えた。隣の席では、女子たちが少し背伸びして頼んだグラスワインを傾けている。ボルドーだかブルゴーニュだか、そんな言葉の響きだけで、彼女たちはもう「大人」の仲間入りを果たしているように見えた。
私の手元には、氷が溶けて水滴をまとった、ウーロン茶のグラス。その、何も映さない退屈な茶色が、世界の中心から最も遠い、私の座標を無言で示していた。
「水希も飲めばいいのにー」
向けられた、純度100%の善意。その光が、私の皮膚をちりちりと焼いていく。
「ううん、私、お酒弱いから」
顔の筋肉を総動員して、完璧な笑顔のレプリカを貼り付けた。何万回も再生した、台詞と表情。本当は、喉の奥が、砂漠のように乾ききっていた。けれど、彼らが飲む黄金の液体はあまりに苦く、彼女たちが嗜む深紅の液体はあまりに遠い。彼らの日常は、私の非日常。その断絶は、決して越えられない。
コートのポケットの中で、指先がごそりと動く。冷たく、硬質な感触。そして、ざらついた革の手触り。そこに静かに収まっている、私の愛用のフィルムカメラ、ASAHI PENTAX SP。私は、その存在を確かめることで、かろうじて正気を保っていた。ファインダーは覗かない。シャッターも切らない。ただ、この光景を一枚の写真に焼き付けるとしたら、と頭の中だけで構想する。
ISO感度を最大まで上げて、シャッタースピードを遅くする。被写体は、ジョッキを掲げて叫ぶ、口を大きく開けた男子学生。彼の顔だけが、ストロボを浴びたように白く飛び、その周りの全てのものが、暗いノイズの粒子となって溶けていく。きっと、誰にも理解されない、ひどく寂しい写真になるだろう。歓喜の瞬間を撮っているはずなのに、その中心には、ぽっかりと黒い穴が空いているような。
どうして、私は普通にできないんだろう。
自己嫌悪が、薄まったウーロン茶よりずっと苦い味になって、喉の奥からせり上がってくる。もう、限界だった。
「ごめん、ちょっと、気分が……」
誰に言うでもなく呟き、私は椅子を引いた。誰も、私のことなど見ていない。私は、この騒がしい世界から、そっと自分の存在を間引くように、音もなく店を出た。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『カルアミルク』、最初の一杯です。
飲み会の隅で、世界から切り離されたような孤独。
きっと誰にでもあるはずなのに、その渦中にいる時は、世界でたった一人ぼっちだと感じてしまう。
そんな夜に、もし、あなたのための「扉」が、ひっそりと開くのを待っているとしたら。
彼女がその扉の先で見つけるのは、救済か、それとも――
もっと甘くて残酷な、地獄の始まりか。
「一本の髪」、「ソーダ水、弾けた。」、「瑕疵ある心音の聞かせ方」の三部作は短編小説でしたが、この作品は100話程の長編作品になります。
今日から三ヶ月ほど毎日投稿していきます。ぜひ最後までお付き合い下さい。
次回、第二話「路地裏は、神様の盲点」もお楽しみに。
この物語の心臓の音は、私たちの楽曲「カルアミルク」の中にあります。
音楽と物語、二つの世界が交錯する瞬間を、ぜひ楽しみにお待ちください。
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明日も、同じ時間に、次のグラスをご用意してお待ちしております。