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掌編置場

向日葵と常夜灯

作者: 須藤鵜鷺

 蝉の大合唱が収まると、青色の闇に包まれる。夏の夜というのは私にとってはそういうものだ。この季節はどんなに夜闇が濃くなろうと、なぜか薄ぼんやりと青く照らされているような感じがする。描くとするならば、黒の絵の具はあまり使わず、群青などの濃い青を幾重にも塗り重ねて表現するような。

 それはもしかすると、過去の光景の残像を無意識に重ねているからかもしれない。

 今はもうない田舎道の、その道沿いにあった一軒の家。その軒先には、夏になると必ず一輪の大きな向日葵が咲いていた。派手な花であるはずなのに、生垣や他の花に紛れるせいかあまり目立ってはいなかった。昼の光の中で見る限りには。

 その花が真に輝くのは夜のことだった。

 偶然なのか、意図的なのかはわからない。夜の訪れを感知して点る常夜灯が、ちょうどその向日葵の花を照らし出すのだ。

 まるで夏の象徴のような華やかさを持つ花が、静かな青い夜闇の中に輝きを放つがごとく咲いている。夜空に瞬く星が一つこぼれ落ちてきたのかと思う。その周りは闇が薄れ、ぼんやりと明るい。常夜灯に照らされているのだから当然といえば当然だ。だがきっとあの光景を見た者は一度は惑わされるだろう。その向日葵こそが光源なのではないかと。

 雲のない晴れた空であっても、真夏の夜は蒸し暑い。じっとりと重い空気が風に流されることなく留まっていて、うまく寝られない日が続く。そんな夜のあわいにふと、あの向日葵を思い出す。夜の向日葵というのはなんとなくちぐはぐしたイメージで、捉えどころがない。あるときはそれを艶やかなものと感じ、またあるときは妖しげなものとも感じる。不思議なものだ。花はただ凛と咲き誇っているだけだというのに。だからそれは、見る者の感傷にすぎない。

 感傷に浸ってしまうのは、その花が思い出と結びついているせいだろう。その花を夜に見るのは、決まって夏祭りの帰りだったから。

 子どもが夜に田舎道を歩く機会など限られている。大人たちに連れられて夜に出かけることがあっても、そういうときはだいたい車に乗せられているからだ。あの大きな向日葵を見上げながら田舎道を歩くのは、近くの社で開かれる夏祭りへみんなで向かい、また帰ってくるときぐらいだった。夏は日が長いから、向かう時分はまだ明るい。近所に住む顔なじみしかいない、小さな祭り。露店は少なくて子どもはすぐに飽きてしまう。幼馴染の子らと社の周りを走り回ってくたくたになったころ、酔い気味の大人たちに連れられて帰路につく。そのころには日もとっぷりと暮れていて、あの田舎道で常夜灯に照らされた向日葵に迎えられるのだ。夏の象徴であるはずの花は、だから私の中では、夏の終わりを告げるものになっていた。

 向日葵を過ぎると、じきに家に着く。祭りではしゃぎ疲れて、それは安らげることのはずなのに、どうしても寂しさのようなものを感じてしまう。その思い出があの向日葵の印象に大きく影響しているのだ。

 田舎道が通っていた辺りは土地開発が入り、今は大きな量販店が建っている。あの向日葵を育てていた家の人たちが今どこでどう暮らしているのかは知らない。

 それでも、今はもう存在していなくても、私は時折思い出す。夜の闇を照らすように咲いていた、あの向日葵を。

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