51_夢のような
幸福な夢を見た。
学園の裏庭で、彼とサンドウィッチを食べていた。
隣に彼がいて、ただ微笑み合えるだけで、幸せだった。
――誰かが頬に触れている、その感覚で意識が浮上した。
ゆっくりと瞼を開けていけば、すぐ近くにエドガルドが座っているのが見えた。見知らぬ部屋の寝台で、リナは眠っていたようだった。
「リナ……」
なによりも大切なものに覗き込むかのように、彼はリナを見つめていた。
そして慈しむようにリナの頬を撫でる。彼は手袋をしていなかった。素肌の手で、リナに触れている。
ああ、前にもこんなことがあったな、と思った。
「リナ、大丈夫か? どこか痛むところや、つらいところはないか?」
「平気……」
熱っぽくて、身体が重たいが、痛むところは無かった。
その返事に、エドガルドは安堵の息を吐く。
「今は解毒をしている最中だ。……前にも話したが、覚えていないかもしれないから説明する。俺が直接触れることで毒を送り込み、君の身体を苦しめている毒と、俺の毒を拮抗させているんだ」
「……夢で見たことあるわ……」
「夢か……」
彼は複雑そうな顔だった。
リナは次第に思考がはっきりと鮮明になっていき、訊くべきことを思い出す。
「みんな、どうなったの? ……エドの毒、おさまった? みんな無事?」
目の前にいるエドガルドは、もう毒を出していないように見える。リナを案じているせいで不安気ではあるが、自分自身の魔法を持て余している様子はなかった。
「ああ、もう何も心配しなくていい。招待客もシルビオ殿も、連れてきた毒魔法士たちが解毒している。命に別状はない」
「そう……」
リナはほっと息を吐いた。
「君を危険に晒した。すまなかった」
「平気よ、エドのせいじゃないし……私は、天才防御魔法士だもの」
ふふ、と笑ってみせれば、彼もちいさく微笑みを返す。
それにしても、彼の魔力は本当に落ち着いていた。
「どうして、毒魔法の暴走は治まったのかしら」
リナの呟きに、彼は悩むような顔をした。
「……古い言い伝えを思い出した。あまり有名な話ではないが、絵本もあった。貴族の子ども向けに作られたものだったが」
「どんな言い伝え?」
彼は少し言いにくそうにした。
「化け物の話だ。嘘つきの化け物は、嘘を吐くたびに、ますます化け物の様相となる。最期に魔法がとけるのは、泣きながら詫びたときだ」
「……ふうん?」
知らない絵本の話だった。あまり庶民向けの本は出回っていないのかもしれない。
「……君が屋敷にいた時も、なぜか魔力が弱まる時があった。……思い返せば、学生時代、もともと経年で強まっていた俺の魔力が顕著に強くなり、手に負えなくなっていったのは――君との別れを意識しはじめた頃からだった」
「え……?」
彼はリナをまっすぐに見る。
「本当は君にそばにいてほしかったのに、その心を押し殺してきた。……自分の心に嘘を吐く者は、自分の魔法に裏切られるようだな。そして覚悟さえ決まり、心を偽らなくなれば、その者の強大な魔力は持ち主に従う。――つまり、俺がようやく本心を認めたから、俺の毒魔法は本来の力を得て、体内で悪さをする光属性に打ち勝ち、自分の毒魔法を完全に支配下に置けるようになった。……まあ、それでも毒体質ではあるから、三年前の自分に戻ったくらいで、普段から耐魔布の手袋をして暮らすことには変わりはないだろうが……」
そう言って、今はリナの治療のためにサイドテーブルに置いている手袋をちらりと見て、彼は話を終えた。
「……エドが、毒魔法を制御できなくなったのは――三年前から、毒が漏れる量が、外を出歩けないくらいになったのは――」
「ああ」
「……私が原因なの?」
慎重に、ゆっくりと問えば、「そうだな」と彼は答える。
「君と離れたくなかった。だが、君は才能を開花させ、駆け上がっていく最中だった。それを、俺のような落ちぶれていく人間が邪魔してはいけないと思った」
「落ちぶれるなんてこと、ないわ」
成長と共に魔法が強くなっていくのは彼の落ち度ではない。
それに――
「……あの、さっきから、私と離れたくなかったって言っているみたいに聞こえるけど……」
勘違いだろうか、と思って訊いてみると、「そのとおりだ」と返ってくる。
「おそらく、この三年あまりにも毒がひどかったのは、君が王女の護衛として留学に行ってしまい、君の顔をまったく見られなかったからだ」
「……」
あまりの寂しがりや発言に、リナはぽかんとする。
よくよく思い返してみれば、リナが倒れる前も「愛している」と言ってくれたような気がする。……いや、あれは兄から庇うための優しさだろうが。
けれど、今、彼がリナを見つめる目は、本当にリナを大切に思ってくれているのだと信じられる、まっすぐな誠意が込められていた。
(……本当に、お人好し、なんだから)
学生時代に少し昼食を共にしていただけの友人に、ここまでしてくれるなんて、やはり彼はお人好しすぎる。
そういう言葉は本当に好きな人にとっておくべきだ。
(でも……嬉しい)
学生時代のことは、彼にとっても失いがたい思い出なのだとわかったから。リナの一方的な親愛だけではなかったから。
……一生の宝ものにしよう、と思った。
これをお守りとして、この先も生きていけると思った。
「ありがとう、エド。……今回のこと、私のせいで巻き込んでごめんなさい。シルビオ様がエドを狙ったのって、家同士の権力争いだけじゃなくて、やきもちもあったらしいから……」
リナの謝罪に、彼は「君が謝ることではない」とすぐに返す。
「俺は元々、光の公爵家に疎まれていた。敵は多い。君のせいではない。しかし――」
やきもちか、と彼は苦笑する。
「俺こそシルビオ殿が羨ましい。俺との結婚は実験のためだ。――リナ、君はいつも本当に頑張りすぎているな。努力する君は美しいが、今回だって無茶をしていた。もっと自分を大切にしてくれ。そもそも実験のためだけに結婚するというのが――」
何度目かわからない注意を言い始めたので、リナはそっと目を逸らす。
(実験のためだけじゃないんだけど……)
彼がまた自由に出歩けるようになってほしい、と。力になりたくて押しかけたようなものだが、もちろん、あわよくば彼のそばにいたい、そしてキスをしたい、という恋心もかなりあった。
彼の片手は、リナの頬に触れているままだ。
熱っぽいリナの身体にとっても、彼の熱は心地よい。そのふわふわとした多幸感から――それに、嘘はもうやめようと思ったから。本当のことを言いたくなった。
だから、リナは彼の手に、自分の手をそっと重ねて、彼を見上げた。
「私、あなたとキスをしたくて、結婚したのよ」
彼の目が見開かれる。
そしてまじまじとリナを見つめていた。
「……何を……ああ、そうか、また媚薬が効いているのか……」
「もう。何度言っても信じてくれないんだから」
拗ねてみせれば、彼は困ったような顔をする。
「君を信じていないわけではない。だが君自身が本気だと思い込んでいるだけで、実際は違うかもしれない」
「嘘だと思うなら――……そうね、もう実験的結婚は終わったから言ってしまうけれど、王女殿下は、私の気持ちをご存知だわ。私があなたと結婚できるように、『一つ屋根の下で暮らすなら一時的にでも結婚するべき』って周りに言って後押しをしてくださったし」
「なんだと……?」
初めて聞く話に、彼が瞬きをする。
「その相談、あなたと再会する前だから、あなたから出るかもしれない媚薬成分の毒なんて浴びてないでしょう? 結婚のために屋敷に押しかけた日まで、三年近くあなたと会ってなかったのに、ずっと好きでキスしたかったってことは――媚薬のせいではないでしょう?」
エドガルドの目が、これ以上ないほど見開かれた。
「ああ、あと、お父様との魔法契約書もあるわね。『もしエドとキスができて、エドに結婚延長の意思があれば結婚を認める』って約束をしてもらってたの。お父様はかなり渋ってたけど、ちゃんとサインしてくださったのよ。私、あわよくばエドとずっと結婚していたかったから……日付もちゃんと書いてあるのよ? これもやっぱり再会する前の日付だから……媚薬なんて関係ないって証明になる?」
「……」
エドガルドは絶句している。
「……そんなにびっくり?」
なにかまずかっただろうか、とリナが彼を見上げていると、
「……リナ」
彼はリナの名前を呼び、そこからさらに言葉を選ぶように黙っていた後――
「本当に、俺のことが好きなのか」
と、押し殺すような声で訊いてきた。
「ええ、大好きよ」
即答するリナを、彼は真剣な顔で見つめ――そして言った。
「……リナ、キスをしてもいいか?」
「え」
今度はリナが目を丸くする番だった。
「ほ、ほんとうに? 嘘じゃなくて?」
「もう嘘は言わない」
リナはうまく言葉を選べなくなった。
「だって、ずっと……夢みたい……こんなことってあるの?」
ふわふわと胸が弾んで、浮足立つ感覚とはまさにこのことか、とリナは落ち着いていられなくなる。
彼は静かな瞳で、リナを見つめていた。
「リナ、君も知っているだろうが、俺と素肌で触れ合うことは危険だ。三年前と同じほど毒は落ち着いたとはいえ、元々の体質もあって、普通の人間であれば素肌で触れ合うことはまず無理だ。……君は防御魔法があるから、こうして素肌同士で触れても侵蝕を受けないが――さすがに、キスとなると平常心ではいられずに魔力が乱れてしまうかもしれない。君は今、防御魔法はどれくらい使える?」
彼の長い前置きが終わり次第、リナは食らいつくような勢いで主張した。
「も、もう使える! 絶対に大丈夫! 弱体化の薬の効果、切れてるから……! S級も出せる!」
「S級の防御魔法だと俺が弾かれてしまう」
「あ、そうよね、A級にする! それなら弾かれないし、エドが暴走しても毒魔法に負けないから! ね、いいでしょう?」
今を逃がしたら、もう二度とキスのチャンスは巡ってこない。彼の服の胸元をきゅっと掴んで、一心に彼を見つめる。「そう慌てなくとも逃げたりしない」と苦笑された。
「むしろ、逃げるなら君こそ今が最後のチャンスだ」
「逃げないわよ!」
負けじとリナは彼を見つめ返した。この本気が伝わってもらわねば困る。
どきどきと待っていれば、
「本当にいいんだな、リナ?」
間近で熱く見つめられて、恥ずかしくて堪らないけれど、早く彼が欲しいから頷いた。
「……どこまで可愛いんだ、君は」
そう言って彼の顔が近づいて――やわらかく、口づけられた。
「――リナ、愛している」
優しい顔で、彼が言う。
それをリナは見上げることしかできなくて――キスの余韻で、うまく思考がまとまらない。
(キス、してくれた……)
胸いっぱいに幸せが広がった。
彼がキスしてくれて、しかも愛を囁いてくれる。
幸せすぎて、現実感がない。ここまでしてもらっていいのか、とそわそわした。
「い、いくらなんでも、おひとよし、すぎ……」
「何の話だ?」
「エドが優しすぎるから、心配だわ……」
リナが照れながらも彼の将来を案じていると、エドは怪訝そうにする。
「キスをした直後に、おひとよしと言われる意味がよくわからないのだが……」
「だって、まるで本当に私のことが好きみたいな……」
彼が目を丸くした。
「本当に君を愛している。…………伝わっていなかったのか?」
あまりにリナが驚いているので、彼まで困惑し始めた。
「俺は両想いだと思ったからキスをしたんだが……だめだったのか?」
「え、両想いって……エドも私のことが好きだったの……? 私が本気でキスしたがってるって伝わったからキスしてくれたんじゃないの……?」
彼はしばらくリナを見つめていたが、やがて難題に取り組むかのように額に手をやっていた。
「愛していると昨晩も君が気を失う前に言ったはずだが……意識朦朧としていたせいか? いや、先ほども学生時代から君と離れたくなかったと言ったのだが」
彼があまりに悩んでいるので申し訳なくなる。
「ええと、サービスで、倒れる前のはあの兄から庇うための優しい演技かなって……学生時代のは、たぶん、妹みたいな扱いの友愛かなって……」
「……今まで恋心を隠してきた俺が悪かった」
彼が苦しそうに言う。
「今度こそ、はっきり言おう。――君が好きだ。愛している」
まっすぐにリナを見つめていた。嘘偽りのない、言葉だと伝わった。それでもうまく受け止めきれずに、「本当に……?」と呟いてしまう。
「……なるほど、証明が難しいな。君が媚薬を否定していた時の苦労がわかる」
「私の気持ち、わかった?」
「ああ、今まですまなかった」
彼はしっかりと謝った後に、どこか熱っぽい瞳でリナを見た。
「俺が、演技や同情で君に愛を囁いたわけではないと……俺が、君と出逢った日から、どれだけ君と離れがたく、君に触れたいと思っていたか――これから少しずつ伝えていってもいいか?」
「え」
両手で頬を包み込まれ、覆いかぶさるように顔が近づく。まるで狼に狙いを定められた獲物の気分だ。このまま食べられてしまいそうだと思った。
「もう一度、キスをしてもいいか?」
「は、はい……」
そのままリナは、深く唇を奪われた。