05_来客①
リナは部屋に戻った。荷物は事前に運び込んでもらってあるし、明日の選定公会議に着ていく服装も決めてある。
(選定公会議、私なんかが同席するのは場違いよね……)
王の次に権威を持つ五つの公爵。
エドガルドの家は建国以来、その席を守っている。
国と王家への忠義は厚く、それゆえに次の王を選ぶ一票も託されている。王も、彼らに反対された施策は通せない。それほどまでに大切な役職だ。
そしてその権力欲しさに、五席のうちの一席を守る彼の滅亡を願っている貴族は多いのだ。
彼を問題なく参城できるようにし、彼の『消えゆくのを願われている状態』をどうにかしたい。
初恋の相手が、そんな目に遭っていて放っておけるわけがない。
(とりあえず、コーティングしておけば参加はできそうだから……あとはやっぱり接触実験よね)
彼が誰かと触れ合えるようになれば、きっと彼は好きな人と結婚できる。学生時代からずっと想っている伯爵令嬢がいるのを知っている。リナが付け入る隙などない。
(でも、あわよくば、一回で良いから私にもキスをしてほしい)
一回でも思い出があれば、この恋を終わらせられるはずだから。
◇◇◇
リナは屋敷内を散策することにした。
ガスマスクを着けた侍女が一人ついてくる。
リナ付きの専属侍女となった紺色の髪の女性だ。年齢はリナと同じくらいだろうか。昨日エドガルドが慌てている中でも冷静に手配していた。少し無口というか表情がわかりづらいのは、ガスマスクで顔の下半分が隠れているからだろうか。
てくてくと屋敷内を歩きまわる。リナが裏庭へ出て、温室の近くまで行くと、侍女はじっと物言いたげな視線を送ってきた。
「大丈夫、入らないわよ」
温室には入るなと彼に言われたので、約束は守るつもりだ。
さて、敷地内を大体は把握したので自分の部屋にでも戻ろうかと思った時、誰かが玄関先で騒いでいるのが聞こえた。
「あら、どうしたのかしら」
様子を見に行けば、身なりはいいが、随分と脂肪を腹に貯めていそうな中年男性が来ていた。応対している使用人たちが慌てている。
「なんだこの屋敷は!? いつからガスマスクなんかつけるほどおぞましい屋敷になったんだ!?」
もはや悲鳴のような声である。
そして手近なメイドから「貸せ! 俺を殺す気か!?」とガスマスクを剥ぎ取ろうとしているではないか。
リナはとっさに駆け寄って、その二人の間に入る。
「なんだ!?」
「失礼。防御魔法をかけさせていただきますね」
男性に向かって手をかざす。真っ白な光が相手を包み始めた。
魔力を持つ相手が拒んだり警戒していると、相手の魔力が格上の場合は、一方的に魔法は掛けられないものだが――特に問題なく、魔法が掛かった。
「名乗り遅れて申し訳ございません。わたくしはリナミリヤ・カレスティア。巷では鉄壁令嬢などと呼ばれておりますように、防御魔法に関してはS級と認定されております。もう安心なさってくださいませ」
男性はぽかん、と目を丸くしていたが、
「リ、リナミリヤ・カレスティア!」
まるで探していた仇敵でも見つけたように大声で叫んだ。
(初対面のはずだけど……何かしら)
正直、何が起こっているのかよくわからないが、これでも貴族としての矜持はある。穏やかに微笑んでみせた。
「はい、リナミリヤ・カレスティアでございます。――ああ、今は一時的にですが、こちらのエドガルド・イラディエルの妻ですので――リナミリヤ・イラディエルですわね」
うふふ、と好きな人の家名を名乗りながら、心の中では「言っちゃった! リナミリヤ・イラディエルって言っちゃった!」と恥ずかしいやら傲慢な気がするやらで騒がしかった。
男性はぐっと悔しげな顔をして、
「本当に結婚したのか!」
と、なじるように言う。
「はい、昨日正式に」
「なんということだ! そこまでして選定公の席が欲しいのか!?」
(あら……)
この人も選定公の席を狙っている一人だろうか。
ついまじまじと顔を見ていると、
「……私はモンドラゴン侯爵だ」
と名乗った。
「モンドラゴン様、お初にお目にかかります。どうか以後お見知りおきを」
「いつまで玄関先で立たせておくつもりだ」
「あら、そうですわね。これは失礼いたしました」
リナが「では応接室へ」と促すと、隅に並んで待機しているガスマスクの使用人たちを気味悪そうに見て、
「安全なのか?」
と、しりごみした。
(自分で『いつまで玄関先で立たせておくつもりだ?』って言ったのに……)
中に入りたいのか、入りたくないのかどっちだろう。
「……モンドラゴン様、わたくしの防御魔法で守っておりますわ。ご心配なら、ガスマスクもご用意しましょう。両方合わせれば安心でしょう?」
「どちらも信じられるか!」
ひどい言いようである。
「あら、王女殿下にご信頼いただき、二年にわたる隣国留学の護衛まで任せていただいたわたくしの防御魔法も、実際にこの屋敷の者たちがつけて問題なく暮らしているガスマスクも、どちらも信用なさいませんの?」
「……」
近くの使用人たちが予備のマスクを差し出した。
しかしモンドラゴン侯爵は、ぐっと押し黙った後、「貸せ!」と、なぜか使用人がつけている方を奪おうとした。
「あっ!」
「用意されたものなど、安全かどうかわからん! 実際に着けているものならば安心だ!」
「……」
なんて自由奔放な侯爵だろうか。どう考えたって公爵家より格下だろうに、先ほどからやりたい放題だし、使用人たちがあまりにも可哀想だ。
結局侯爵は使用人から奪ったガスマスクを着けた。奪われた使用人は特に焦る様子もなく黙々と予備のマスクを着け直した。
(一瞬、マスク無しで過ごしたことになるけれど、大丈夫だったのかしら……)
侯爵を応接室へと促しながら、リナは自分の専属侍女に囁いた。
「……エドを呼んできて。お茶だけ用意したら、あなたたちは下がっていていいわ。さっきのマスクを取られた子、具合が悪くならないか気を付けてあげて」
専属侍女は「……かしこまりました」と言ったが、応接室に入ったリナと侯爵に紅茶を出すと、静かに壁際に控えた。エドガルドは別の使用人が呼びに行ったので、もうすぐ来るだろう。
「下がれ」
応接室に残る彼女を、場違いだとばかりに侯爵が睨みつけた。だが、
「……主人から、決して奥様を一人にするなと申しつかっております。もし毒魔法で倒れられた場合に、すぐ処置できるようにと」
表情の見えない顔で、ガスマスク越しのくぐもった声で言った。
「ぐっ」
侯爵はまた怯えたような顔をした。
毒魔法が怖いのなら帰った方が良いのに、と思ったが、よほどエドガルドに大事な用事があるのだろう。
侯爵は紅茶を口にしなかった。まるで毒が入っていると確信しているかのように睨みつけている。それから顔を上げて、リナに向かって目を細めた。
「……ふん、ぽっと出の、硬度だけが取り柄のS級が、調子に乗りおって。……このような、残っていることこそ生き恥のような公爵家の妻になっていることが、お前が選定公の一席が目当てであることの証左ではないか」
「……あら」
あまりにも酷い言葉で彼を悪く言われて、ついつい怒りで立ちあがりそうになったが――なんとか抑え込んでにっこりと笑顔を作る。そして努めてゆっくりと言葉を選んだ。
「わたくしは、素晴らしい方の妻になれて、とても幸せですのに」
「はっ。嘘くさい」
すぐに鼻で笑われた。
「どこが素晴らしいと言うのだ。代々続く選定公の家とはいえ、もう後がないのだぞ。選定公の入れ替えなど滅多にできるものではない。今下ろすべきだ。当主が選定公であれば三十年は栄華が続く。次の三十年がない家に、一席を取られていてはかなわん。皆の総意だ」
「あら。選定公については陛下と現選定公の方々がお決めになることですわ。『皆の総意』? それが何か意味を持ちますの?」
「……っ」
侯爵は悔しげに押し黙った。
「それに、選定公の肩書きだけが我が夫の価値ではございませんのよ。選定公でなくなったとしても、この家の生み出す薬は多くの者を救っておりますし、希少な植物の保全活動も率先しております。夫はかなり若い頃に公爵位を継いでおりますけれど、ずっと昔からとても大局的にこの国を守っておりますのよ。『次の三十年の栄華』などというものは、行いが素晴らしければ勝手についてくるものです。我が夫は、自分が為すべきことを堅実に積み上げ、忠義を尽くしている、とても素晴らしい方ですわ」
リナの言葉に、侯爵は目を細める。
「だが実際、城にも来られないくせに、選定公の席を譲らないではないか。まるで聖人のように言っているが、中身はどうせ私欲の塊だ」
「いいえ、必ず理由があるはずです。選定公の一席を守っているのも、まだ王太子がどちらの王子殿下になるか決まらない現在、我が夫が退けばその一席を巡って派閥争いが起こり、国が混乱してしまうから……きっと国を想ってのことでしょう」
「……はっ」
リナの真剣な訴えも、目の前の侯爵は「話にならん」という顔で受け取らなかった。
だが――
「……驚いたな」
部屋の入口に、エドガルドが立っていた。
「エド!」
咄嗟に叫んでしまい、一気に恥ずかしくなる。
今まさに彼について熱弁していたのを、どこから聞いていただろうか――。
つい、顔が見られずに俯いてしまう。
彼がすぐ隣に来て、リナのすぐそばに座ったのも、さらに心臓に悪い。
「さて、もてなしが遅くなって申し訳ない。モンドラゴン侯爵。今日この時間に来ると事前におっしゃっていただければ、このような無礼をすることもなく待っていたのだが」
(え、この人やっぱり前触れなしで来たの!?)
連絡も無しにいきなり屋敷に乗り込むなど、無礼以外の何物でもない。
その自覚があるのか、侯爵はふんと鼻を鳴らす。
「……お二人の結婚を知ったのが昨日の夜のことで、突然の訪問となってしまい申し訳ない。……しかし、婚姻を事前に通達しないなど、あまりにも不誠実な話ではあるまいか?」
「ああ、ご心配召されるな。最初から誰も招待していない。そもそも式を挙げていないからな。あなただけに知らせなかったのではない。すべての貴族に対してそうだ」
「そういう問題ではない!」
侯爵は声を荒げた。
「一体何のための結婚だ! 夫婦どちらかが選定公の一席を取れればいいと画策しているのではあるまいな」
「画策? まるで悪巧みを計画する者への糾弾のようだな。俺は元から選定公であるし、彼女だって陛下の信頼の証である選定公を目指し、能力を磨くことは何よりも国防に尽くす、陛下への忠心だと思うが」
侯爵は、エドガルドに庇われたリナを睨みつける。先ほどからずっと辛辣な態度を向けられているが、エドガルドが隣にいて堂々としているので、リナはもう安心して座っていることができた。