47_ひどい人②
絶対にこの人を傷つけるとわかっているのに言ってしまうなんて、どうかしている。きっと頭がうまく回らないせいだ。申し訳なさで、また涙が出た。
「ごめんなさい、シルビオ様……」
シルビオはそっと涙をすくいとる。
「うん、知ってるよ。ずっと君を見ていたから。『猛毒公爵』のことが好きなんでしょう?」
彼の笑顔は変わらなかった。
「はい、ごめんなさい……」
「大丈夫だよ」
彼は優しい声で言う。
「次第に僕のことを好きになってくれればいいんだ。……君と離婚したことを後悔したよ。だから隣にさえいてくれれば、待つ時間は問題じゃないんだ。いくらでも待てるよ。君は応えてくれるって信じているから」
そう言ってリナの髪を撫でる。
「いつか僕を好きになってくれる?」
胸が苦しくなった。
この人は、怒らずに、未来を信じようとしてくれるのだ。
「私にも、わからないんです……この恋を、諦めようと頑張ったけど、やっぱりまだ駄目で……」
涙がまた零れ落ちる。それをいたわるようにシルビオは目を細めた。
「うん。大丈夫。待てるよ。だって、僕のことは嫌いじゃないんだよね? それに、もう弾かれていない。だったら夫婦になれるよ。結婚してから愛を重ねていく夫婦もあるよね?」
貴族では昔から政略結婚をしていた。リナだって、燃えるような恋から始まる夫婦でなくたっていい。穏やかに積み重ねていけたらそれでいい。――けれど、未来の自分が本当に初恋の未練を断ち切れているかはわからない。
「私、すごく、不誠実でした。やっぱり、エドへの未練が断ち切れてから、シルビオ様との縁談を進めるべきだったのに」
リナが俯くと、「それは困るよ」とシルビオが苦笑する。
「僕が無理やり約束を取り付けたんだよ? 君をどうしても他の誰かに取られたくないから。……だから君が僕と約束さえしてくれるのなら、いつまででも待つよ。君が僕を好きになってくれるまで、いくらでも待つ。だから、どうか、結婚だけは、今してしまおう?」
彼は立ち上がり、部屋の奥のサイドテーブルの引き出しから、分厚そうな紙を一枚取り出した。すぐにリナの隣にまた座り、それを嬉しそうに見せてくれた。
魔法契約書だとわかった。
なにやら条項が既に書いてあり、署名欄は三人分のうち二人分が埋まっていて、あともう一人署名できそうな形式だ。
「君と、君の父上が約束をしていたそうだね。君と猛毒公爵がキスができて、猛毒公爵が結婚の延長を望んだら、そのときは二人の結婚の延長を認める――って。だから僕も真似をしようと思って……僕に結婚の意思があって、君とキスができたなら、結婚するって約束してくれる?」
「え……」
よく見れば、その既に書かれた署名は父とシルビオのサインだった。
「だめかな? リナ、僕のことが嫌い?」
「き、嫌いじゃない、です」
(でも――)
その先が言えない。まだキスができそうにないのに結婚に応じてしまったら――最初の結婚の時にも苦しめたのに、その繰り返しになってしまうのでは意味がない。
「ご、ごめんなさい。やっぱりまた弾いてしまうかもしれないし」
「あれ? 弾いてしまうかどうかは、もう心配しなくていいんだよ?」
「え?」
目を丸くすると、「そういう顔も可愛いね」と微笑んだ。
「弱体化の薬がもうあるんだから、君はいつでもS級の防御魔法を使えないようにできるんだよ。S級さえ使えなければ、無意識に弾いたりしないでしょう? もう君が頑張ったり、苦しんだり、僕に謝る必要はないんだよ?」
「あ……」
そうだった。もう自分の無意識なんて考えなくていいのだった。
薬さえ飲めば、S級魔法は勝手に発動したりしない。
「リナ。ときどき僕とキスをするために、薬を飲んでくれる?」
そういう夫婦で十分だよ、とシルビオは儚げに微笑んだ。
(――それは、本当に正しいの?)
薬で魔法を抑え込めば――本来のリナだったら、エドガルド以外を弾いてしまうけれど、心の奥底の無意識を封じてしまえば、魔法のことなど考えなくていい。リナはたまたま無意識に防御魔法が出るようになってしまっただけで、本来なら顔も初めて見たような人と結婚式でキスをして、その日から夫婦生活が始まっていたのだ。
リナが薬さえ飲めば、弾いてシルビオを悲しませることはない。
――今、キスができないのは、ただ、リナが言葉で彼を拒んでいるからだ。
(そっか。もう防御魔法で悩まなくていいんだ)
無意識に弾くことはない。――エドガルドと、キスをしないまま、次の段階に進もうと思えば、進めるのだ。リナさえ、嘘がつければ。「キスをしていい?」という問いに、「はい」と言えさえすれば。
(エドを追いかける理由、なくなっちゃった)
胸が痛くて息がしづらい。
「……泣かないで、リナ」
頬に触れる手の温かさで、また自分が涙を流していることに気が付いた。
シルビオは間近でリナを見つめていた。
「君の考えていること、わかるよ。……猛毒公爵はひどい男だね。在学中からずっと君を見ていたから知っているよ。君が一緒にプロムナードに参加したがってるって猛毒公爵は知っていた。それなのに君を振った。今年になって、やっぱり君が頑張って追いかけていったのに、結局また君になびかなかった。僕ならそんなひどいことをしないのに。……でも、おかげで僕も君を見習って、たとえ触れられなくても追いかけようと思ったんだ」
彼はリナの頬を優しく撫でる。
「僕は君を大切にするよ。君のことがずっと好きだよ」
優しい声に、泣きそうになる。
光がやわらかく二人を包んでいるような心地がした。幸福な夫婦になれそうな気がする。
けれど――リナはまだ、その気持ちに応えることができずにいる。
「僕に触れられるのは嫌? 素直な気持ちを言っていいんだよ」
嫌なわけではない。
この人は優しい。きっと痛いこともしないだろう。でも――
「あの、まだ気持ちが追いつかなくて」
「そうだよね。僕が君を好きだって告げたのはここ数日のことだし。まだ切り替えられないよね。ごめんね。急がせてしまって」
「いえ」
わかってもらえてほっとする。
「できれば、シルビオ様には他の方にも目を向けていただいて――私が初恋の未練を断ち切れた時に、まだ御縁があればお願いします」
「え? 他の人なんて探さないよ」
彼は困ったように微笑んだ。
そして魔法契約書を掲げてみせる。キスができたら結婚する、という内容の契約書だ。
「防御魔法のことは解決したし、君が僕のことを嫌いじゃないなら、他の縁談なんて探す必要ないよね?」
「でも、あの……」
そこまできっぱり言われると、リナも困る。
「大丈夫、君の気持ちが落ち着くまでは、触れたりしないよ。でも、約束は今してほしいんだ。……ごめんね、せっかちで。でも不安なんだ。本当にもう、君を誰にも取られたくないんだ。だから約束してくれる?」
約束してしまったら、守らなくてはいけなくなる。約束を守らない人は最低だ。愛人だった母にその気にさせるようなその場限りの愛を囁いておきながら、何も実行しなかった父は最低だと思って生きてきた。そんな不誠実なことを誰かにしてはならない。
「ごめんなさい。お約束できません……」
「つらそうな顔をしないで、リナ。それは、初恋の未練がまだ断ち切れてないから? 断ち切れてからじゃないと、僕と結婚するのは難しい?」
「はい……」
そっか、とシルビオは悩むような顔をして――やがて言った。
「じゃあ、本当はとてもつらいけど、初めてのキスは猛毒公爵としておいで」
「え」
「そうしたら諦めがつきそう? 見込みのない恋を、終わらせられそう?」
その言葉に、リナは困惑する。
「なにを、おっしゃっているのですか……?」
「だって、リナも諦めたいんだよね?」
確かに、諦めるために、彼の屋敷まで押しかけた。
だけど――
「でも、エドとはキス、できません」
「どうして? ああ、そっか、猛毒公爵とは素肌同士で触れ合えないんだっけ? 侵蝕が強いもんね。でも弱体化の薬を飲んで彼の魔力を弱めれば、何の問題もないよ?」
「そうじゃなくて……エドは、私とキスしたいなんて思ってないし」
「触れられさえすれば、猛毒公爵の気持ちなんて気にしなくていいんじゃない? 胸倉を掴んで無理やりにでもしてくればいいよ」
意外にも豪快なことを言った。そんなことを言う人だったっけ、と見つめてしまうと、
「だって、君を泣かせるひどい人だから、つい」
と、柔らかく微笑んだ。
「君が正面から頑張って頼んでも、君の気持ちに応えてくれないんでしょう? そういう相手とは、普通にキスなんてできないよ」
正しかった。あまりにも現実を良く知っていた。
何も言えずにリナは俯く。
「だから頼まずに、さっさと奪ってしまった方がいいんじゃないかな。断られるたびにつらいでしょう? 本当なら無理やり唇を奪うのは悪いことだけど、君の願いに応えないひどい人なんだから、一回くらい勝手に奪われてもいいと思うんだ。早く済ませて僕との恋を始めてほしいから、少し心が痛むかもしれないけれど頑張ってほしいな。いくらでも協力するよ」
シルビオは平然とそう言った。
リナがエドガルドと望み合って幸せなキスをすることなど、もう絶対に叶わないのだと改めて現実を突きつけられる。
「ああ、そうだ。魔法契約書の内容は、やっぱり変えよう。君が猛毒公爵とキスができたら僕と結婚する、という約束にしようか」
「え……?」
なにか妙な提案をされた気がする。
リナがうまく理解できずに困惑している間に、彼はもう一枚の魔法契約書をサイドテーブルの引き出しから持ってきて、今言ったとおりの内容をさらさらと書いた。
「サインしてくれる?」
ぽかんとリナは彼を見つめる。
そんな契約書、何の意味があるのだろう、と思った。
「いえ、あの……」
「ああ、こっちでもいいよ」
彼がもう片方の手で掲げるのは、先ほどの『シルビオとキスができたらシルビオと結婚する』という内容の魔法契約書だ。
「どっちにする?」
「……ごめんなさい。どちらにもサインできません」
「じゃあ、リナが好きに文面を考えていいよ。どういう内容にする?」
「ええと……」
何かしらの約束はしないといけないようだ。
シルビオは期待した目で、リナの答えを待っている。
「ご、ごめんなさい……」
「困ってる? 大丈夫だよ、ゆっくり考えていいよ。夜はまだ長いから」
このまま朝まで待ちそうだ。
「僕としては、こっちの『猛毒公爵とキスができたら』って方がいいと思うよ。初恋の未練を断ち切れそうだから」
「……あの、本当に私がエドとキスしてもいいんですか……?」
普通、好きな人が他の誰かとキスをするのはつらいと思うのだが。
シルビオは困ったように眉を下げた。
「うん、悔しいけど、君に未練があるまま僕とキスをしたら、君の心が傷ついてしまうでしょう? 僕が一回我慢して、猛毒公爵とのキスで次の恋に向かってくれるなら――君がこれからの長い人生、僕のそばにいてくれるためなら、一回くらい我慢するよ」
シルビオは本気でリナと添い遂げようとしてくれているのだ。そしてリナの心を気遣って、リナの気持ちがシルビオに向くまではキスをしないと言ってくれている。
シルビオは寂しそうに微笑んだ。
「僕のこと、嫌いじゃないなら、僕と結婚してほしいな。君を望まない猛毒公爵よりも、ずっと君のことを大切にするよ。ずっと君のことが好きで、ずっと君を見ていた。君にいくらでも花束をあげたいし、君が望むなら君以外の女性とは口も利かない。それくらい、君を大切にするよ」
それは、リナが欲しい言葉だった。
隣にいるリナじゃなくて、話したこともない令嬢を心に住まわせ続けたエドガルドに、いつも「どうして」と思っていた。
――エドガルドに、その言葉を言ってほしかった。
そしてシルビオに片思いをし続けてもらうほど、リナは立派な人間じゃない。
「……契約書なんてなくても、シルビオ様が望んでくださるなら、シルビオ様と結婚します。でも、まだ、心の準備ができていなくて、だから今日みたいに――」
キスをできずに泣いてしまうかも、とは言葉にできなかった。それでもシルビオには伝わったらしい。
「うん。キスはお預けでもいいよ。だけど、書いてくれたら嬉しい」
そう言って魔法契約書をリナに渡す。
きっとこの人も不安なのだろう。この人を傷付けたくない。何度も苦しませた。一年前にリナの屋敷に婿に来て――好きな相手に弾かれ続ける孤独を味わわせてしまった。それなのに、恨みもせず、今もリナを好きだと言ってくれている。
この人を幸せにできるなら、それだけでもこの結婚には意味がある。
リナは一時間ほど悩んだ末に、『シルビオとキスができたら結婚する』という魔法契約書にサインすることに決めた。
だが、いざサインしようとすると、「本当にこっちでいいの?」とシルビオが確かめてくる。
「どちらでも構いません。シルビオ様が安心できるなら」
「じゃあこっちにしよう」
「え?」
シルビオはもう一方の契約書をリナの前に置き直した。
「こっちにサインしてくれる?」
「……?」
疑問に思いつつも、望まれるままに『リナミリヤ・カレスティアは、エドガルド・イラディエルとキスができたら、シルビオ・レアルと結婚する』という条件の方にサインした。
どうせエドガルドとキスはできないだろうから契約書としての意味は無いし、こちらの方が当初のリナの目標でもあったから、リナとしてはそれでもいいのだが――
(成立しない契約書なんて、シルビオ様からしたら、ただの紙切れよね……?)
だが、シルビオは、リナのサインを見て嬉しそうにした。
他の男とキスをする前提の契約書なのに、それでも結婚を約束したから嬉しいのだろうか。リナがシルビオのためにサインする、という行動そのものが欲しかっただけなのだろうか。
(エドとのキスはもう狙わないけれど……シルビオ様をお待たせする間、少しでも安心できるなら、この契約書にも意味はあるかしら)
ついさっき、シルビオにキスを望まれて、他に好きな人がいますと泣いて拒んだのに、それでもシルビオはリナを責めたりしない。
早くシルビオの気持ちに応えられるようになりたい。片思いがつらいのは、リナだってよく知っている。
リナが自分で弱体化の薬を飲み、そして泣かずに『エド以外の人』とキスができるようになる日が来るまで、あと少しだけ、時間が欲しい。
シルビオは嬉しそうに契約書をまだ眺めている。「これで結婚できるね」と微笑んだ。
(本当に、嬉しいのね)
彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだったので、喜んでもらえることがようやくできてほっとした。
なんとなく、肩の荷が下りたような心地になって、目をつぶる。弱体化の薬のせいで、ずっと身体の不調がつらかった。「眠たいの?」と言われ、シルビオにもたれるように導かれて抱きしめられた。そのままうとうとと眠りそうになったが――
「キスを狙うなら、明後日の夜会が良いと思うよ。君の初めてのキスだから、ロマンチックで、一番おしゃれをした日が似合うと思う。酔わせて暗がりに連れ込んだらどうかな? 睡眠薬とか用意しようか?」
「だ、だめです!」
さらりと物騒なことを言われて、かっと目を見開いた。
かつてリナが「わたくしが睡眠薬を飲みますからその隙に触ってください!」とシルビオとの初夜を強行しようとした時は、「そんなことしちゃだめだよ」と止めてくれた人なのに――やはり光の公爵家と猛毒公爵家は敵対派閥だから仲が悪いのだろうか。




