42_さよなら
翌朝、リナはこの屋敷を去る準備を終えて、玄関ホールに立った。
ラミラたち使用人たちには、昨日のうちに挨拶をして回ってある。
寂しくなりますね、とみんなに言われた。こころなしかガスマスク着用率が増えている気がしたので訊ねてみると、「閣下がどんよりしているので……」という返答ばかりだった。
(エドがどんより……)
確かに昨日また毒が増えているのを感じた。もしかして具合が悪いのだろうかと心配していると、ラミラに「寂しいんですよ、リナミリヤ様がいなくなるから」と言われた。やはりリナの滞在には子犬セラピーと同等の効果があったのだろうか。
「本当に、大丈夫……? 具合が悪いなら無理しないで」
見送りのために玄関ホールに立つエドガルドにそう言うと、
「気にするな。体調不良ではない。……ただ寂しいだけだ」
と、苦笑された。
途端に彼から漏れる毒が、すっと退いていくのを感じた。
(あれ?)
まじまじと彼を見つめてしまうが、彼は自覚がないようでリナの様子を不思議がっている。
「どうした?」
「なんだか、また毒が弱くなっているから」
「ああ、さっき弱体化の薬を飲んできた。そのせいだろう」
「飲んだの? どうして?」
今日はどこかへ出かける用事もないのに、と驚いていると、
「実験用にもらってある。……接触実験は今日で最後だろう?」
と、言われた。
実は昨晩リナは「実験のためって名目で結婚したのに! 報告書どうしよう!」とラミラにこぼしながら寝る準備をしていたのだが――それを知って、何か協力してくれようとしているのだろうか。
「実験の一番の目的は、エドの毒魔法の侵蝕で、私の暴走した防御魔法を壊せるか、って確かめることだったんだけど……」
暴走は嘘だし、エドガルドは侵蝕をリナに向けたがらないし、無意識に出る毒魔法だって、『弱体化の薬』で抑えられているだけだ。薬のことはまだ隠さなければいけないので魔法研究所への報告書には書けない。嘘から始まった結婚は、最後まで嘘だらけだ。
「エドがせっかく接触実験に協力してくれるっていうなら、とりあえず……」
リナは手を差し伸べてみた。彼は当然のように、手を握ってくれる。
――この実験的結婚を始めるまでは、手も握ったことが無かったのに。やっぱりここへ来て良かったなぁ、とリナは思った。
「ええと、あとは……もうちょっと接触面積を増やしてみる……?」
「面積を増やす……」
リナはそっと彼に身体を寄せた。
彼は一瞬緊張したように息を呑んだが、それからゆっくりと、リナを包み込むように抱きしめてくれた。
(……!)
嬉しくて、どきどきする。
そっと顔を上げれば、すぐ近くに彼の顔がある。あと少しだけ背伸びさえすれば、その唇に触れられそうだ。
「……やっぱり、キスは、だめ?」
上目遣いで、願うように彼を見つめる。
「……リナ」
苦しそうに彼が名前を呼ぶ。
「君はきっと後悔する」
リナはゆっくりと首を横に振った。
「後悔なんてしないわ。……ううん、後悔してもいいの。エドとの思い出なら、全部欲しいから。苦しくても、間違ってても、全部欲しいの」
「リナ……」
彼の手が、リナの頬に添えられる。
「……駄目だとわかっているのに、俺は――」
惹かれ合うように、彼の顔が近づいてきて――
そして、あと少しで触れ合う、というところで、何か騒がしい音が聞こえた気がして、二人とも動きを止めた。
「……?」
玄関扉を見つめていれば、屋敷の外にいた使用人が慌てて入ってきた。
「何があった?」
エドガルドの問いに、「お客様が」と使用人が委縮したように言う。急な来客のようだ。しかも使用人たちの様子からして、かなり大物の相手らしい。
二人で外に出てみれば――
「シルビオ様!?」
「ごめんね、侯爵家に訊いたら今日引っ越すっていうから、つい迎えに来てしまったんだ」
そこにいたのはシルビオだった。
豪奢な公爵家の馬車で訪れたようだ。彼は今日も溢れそうな大きな花束を持って、リナに歩み寄って来る。
そして、悪戯がバレた子どものような顔で、
「ごめんね、せっかちで。……嫌いになった?」
と、訊ねてきた。
「まさか! 会いに来てくださってありがとうございます」
手を差し伸べられ、シルビオの手を取った。……エドガルドの前で、そうするのは浮気のような罪悪感があったが、シルビオの手を無視するという選択肢は無い。そもそも浮気どころか、エドガルドとは何もないのだが。
「イラディエル公爵。僕の妻がお世話になりました」
「……ああ」
シルビオの微笑みに、エドガルドは短く返す。
光を放つ、春の日差しのようなシルビオと、夜の深い闇を集めたようなエドガルドは対照的だった。
「……じゃあね、エド。今までお世話になりました。……また様子を見に来るわ。弱体化の薬のこととか私が担当できるようになりたいから」
シルビオも薬の開発元の者なので、堂々と彼の前で薬の話をしてもいいのだが、なんとなく小声でエドガルドに話しかけた。シルビオの前では猫を被っているので、いつもの令嬢らしからぬ勝気な口調を聞かれるのが恥ずかしいという理由もある。
けれど、これだけは決意も込めてしっかりとした声で宣言した。
「そのうち私は兄を追い越すわ。そうなったらまたどんどん会うようになると思うけど、それまでちょっと時間はかかるから、どうか待っていて。――それまで元気でね」
「……君はそろそろ俺を放ってもいいんだぞ。薬のことは兄君に任せればいい」
「はいはい、じゃあね、また来るわよ!」
エドガルドと使用人たちに見守られながら馬車に乗り込む。
ラミラには昨晩「手紙を書くわね」と言ったら、「ぜひ初恋の行く末を教えてくださいね」と返されている。目が合うと、深いお辞儀をしてくれた。
(……寂しくなるなぁ)
もうこの屋敷のみんなと他人になってしまう。ここへは理由が無ければ来られなくなるのだ。エドガルドの妻ではない、学生時代に少しだけ隣にいた、ただの後輩に戻ってしまう。
シルビオと共に馬車に乗り、進み出すとシルビオが言った。
「このまま僕の屋敷へ行こうか。生活に必要な荷物もちょうど揃っていることだし」
「もう公爵邸に……? ご迷惑じゃありませんか?」
もともとリナは実家に戻り、二日後のパーティーの時だけ公爵邸に行けばいいと思っていたのだが、シルビオが今日迎えに来たときから、公爵邸に向かいそうな予感はしていた。
(こ、心の準備が……)
胸を抑えていると、「ああ、違うよ」とシルビオが言う。
「郊外にある、僕がもらった屋敷だよ。ちいさいけれど、気に入ってもらえるといいな」
公爵家となると次男でも屋敷を持っていたりするんだなぁとリナは感心した。爵位だってもう一つ余らせているくらいだから、そういうこともあるのだろう。
「あ……あの、もしかして、二人暮らしになりますか?」
「使用人もいるよ?」
きょとんとされる。使用人はもちろんいるだろうが、家族として暮らすのはシルビオだけということだろう。姻戚上の義親になる公爵夫妻と暮らすのも緊張するが、シルビオと二人で夫婦生活を始めるのも、かなり覚悟がいる。
最初の結婚のときはリナは実家にそのまま居られたから、ほとんど生活を変えなくて済んでいたのだ。
(婿に来たシルビオ様も頑張ってくださったんだもの、今度は私が挑む番よね……!)
リナが強めに拳を握っていると、「……心配? 僕と暮らすのは嫌かな?」と彼が不安そうにする。
「嫌だなんてまさか! 滅相もございません!」
「それならよかった」
嬉しそうに微笑んだ。
「あ、あのでも私、まだ侯爵家を継ぐことを諦めてはおりませんので……」
「うん、わかってるよ。僕が侯爵邸に婿に入るのでも構わないよ。でも、今、少しだけ二人だけの日々を味わってみたいんだ。……駄目かな?」
ここで一生のことを決めるのでなければ、断る理由もない。
リナとしても、彼と二人だけなら侯爵家や公爵家と切り離し、普通の家庭っぽい暮らしも味わえるかもしれないと思えば――それは確かに魅力的かもしれない。
「では、シルビオ様のお屋敷に、数日お世話になります」
「ありがとう」
――この時は、まだ、わかっていなかった。
これからどんな出来事が待ち受けているのか。