37_不調
次の日になっても、エドガルドの様子は以前と違っていた。
ふとした拍子に毒が増すのだ。
「もしかして一昨日の『弱体化の薬』の副作用……!?」
「違う」
彼はすぐに否定するが、リナは気が気でない。
「だって、身体の中の魔力を消耗させるための薬なんだもの。不調が出てもおかしくないわよ……」
「いや、薬のせいではない。だが、毒が溢れているのは事実だ。君はどうか離れていてくれ」
「防御魔法で平気だってば」
リナは彼をとにかく休ませることにした。屋敷の使用人たちにも「エドに休養を」と伝えたところ、みんな協力してくれた。
彼が執務室へ行こうとすれば止めに入り、「さすがに部屋から一歩も出ないのは不健康だろう……? 書類も溜まるぞ」と困惑する彼に真っ当なことを言われれば、リナは彼がいつ倒れそうになっても気づけるよう、ぴったりくっついて移動した。
そうしてほぼ一日彼にくっついていたところ、彼はリナが近いと毒体質が弱まり、少しの用でも離れると強まる、という変化を起こした。以前から感じていたことではあるが、何かしらの因果関係がありそうだ。
「もう子犬セラピーでも何でもいいわ……!」
「…………」
夜になり、あとはもう寝るだけ、という時間まで彼にくっついていたリナは、そう叫んだ。リナが目を離せば仕事をしそうな彼を寝室のベッドに押し込み、「寝るまで見張ってるわよ」とベッドサイドに椅子を持ってきて座れば、「俺は子どもか?」と不服そうな顔をされた。
「多分だけれど、体調不良なのよ。そして身体が弱っている時って人恋しいのよね」
魔法は心の影響を受ける。すなわち、変化させようと意識していないのに魔法が変化するなら、心の方が変化しているのだ。リナが近くにいれば彼の心の安寧に貢献するというのなら、なるべく隣にいたいと思う。
「どう? 今はわりと落ち着いているわよね」
寝台に仰向けになっている彼を覗きこむと、病人扱いされている彼は「……まずいな」と呟いた。
「……君がそばにいることに慣れてしまえば、この先もずっと望んでしまいそうだ」
「ずっといるわよ?」
平然と答えれば、彼はどこか拗ねたような顔をする。
「……本当に永遠にだぞ? 悪い感覚を覚えそうだ。君をこの屋敷に閉じ込めてしまう」
「例の『囲い込み作戦』? 今は演技はいいのよ」
「演技ではなく――いや、伝えない方がいいか」
彼は一人で何かに納得して、また黙ってしまった。
それから彼はしばらく静かにしていたが、なにか思いついたのか、ふいに言った。
「リナ、シルビオ殿と再婚の話を進めているということは――彼との夫婦生活は幸せだったのか?」
「え?」
意外なことを訊かれて驚いた。リナの半年だけの結婚生活について彼が興味を持つとは思わなかった。
「そうね……毎日一緒に食事をして、お話もしたし……防御魔法のことで気まずいことはあったけれど……でも、なんだかんだ魔法以外は、つらいこととか合わないことはなかった気がするわ。緊張しすぎて――というか、弾き続けるのが申し訳なさ過ぎて、夫婦生活というものが楽しいかどうかを味わう余裕はなかったけれど、シルビオ様は私のことをたくさん知ろうとしてくださっていたし、いつも私の心を気にかけていてくださったわ。私もそんなシルビオ様のことをたくさん知ろうとしたし、シルビオ様のためならどんなことでもしようって思っていたし……防御魔法のことが無ければ、穏やかで良い夫婦になれていたんじゃないかしら」
リナがそう話し終えると、エドガルドは「そうか」とだけ言い――
(毒が増えてる!)
急に毒が強くなってリナは驚く。
「つらいの!? どこか苦しいの!?」
「いや……気にしないでくれ。すまない、心配ばかりかけて。身体は本当になんともないんだ」
身体ではなく心の方だとしたら――もしや惚気話のせいだろうか。他人の惚気話を聞くと苦しむ人も世の中にはいるというし。
(そうよ、エドは失恋したばかりなのに! 大好きなカタリナ嬢の婚約が決まって傷心中なのに……そんな時に幸せな夫婦の話なんて、生傷をえぐってしまうわ!)
でも訊いてきたのは自分なのに、とも思った。訊かれなければリナが話すこともなかったのだが。
(いえ、きっと、エドは優しいから、政略結婚で私が苦しんでいないか心配してくれたんだわ。私のことは妹か友人くらいには……たぶん思ってくれてるはずだし)
学生時代の楽しかった日々。それなりに親愛を向けてもらっていたと信じたい。
「あのね、もしエドが何か心配をしているなら言っておくけれど、シルビオ様はとても優しい人よ。彼の方から『諦めよう』と言ってお別れになったけれど、私がどれだけ防御魔法で迷惑をかけても、一度も怒ったりしなかったの。怒るどころか私を気にかけてくれるような人よ」
結婚式で、大勢の参列者の目の前で弾き飛ばされたのに、「よくも恥をかかせてくれたな」なんて態度も一度も無かった。
「……俺だったら、君と一度でも結婚したら、絶対に別れない」
エドガルドが、暗い声で言った。
「何を言ってるのよ。三ヶ月を待たずに追い出そうとしている人が」
「本物の結婚だったら、という意味だ」
「……慰めてくれてありがとう」
「いや、慰めで言ったわけではないが」
気を遣ってくれたのだろう。それでも嬉しくて頬が熱くなる。
彼がリナを見つめる目も――こころなしか、熱が込められているように見える。
具合が悪いと、やはり人恋しいのだろう。
そこでふと、悪いことを考えてしまった。
……今なら、どさくさで、キスできるのでは、と
(いえそれはさすがに! 人として駄目! 具合が悪い人につけこむなんて!)
夜に大人の男女が二人きりになれば、良い雰囲気になる――それが理想であり、リナの想定する『まぐれの一回』の状況ではあったが――
「……何か、欲しいものない? してほしいこととか、何でもするわよ?」
病人である彼からの要望ならセーフだが、リナから迫るのは駄目だろう。そう思って訊ねてみた。
「………………」
エドガルドは、ものすごく長い沈黙のあと、
「……君がこうしてそばにいてくれるだけで、俺には身に余るほどの幸福だと思っている」
と言った。
毒は出ていないので、嘘を吐いたり心が乱れたりはしていないようだ。特に欲しいものや、してほしいこともないということだろう。
(というか、かなり嬉しいことを言ってくれたような……)
リナがそばにいることを、彼が『幸福』だと感じてくれていることを嬉しく思った。
頬がゆるみそうになり、両手で押さえていると、「……リナ」と彼が話しかけてくる。
「先ほどのようなことは、あまり言わないほうがいい」
「? どういうこと?」
「俺が無制限に君に何かを要求したらどうする」
彼は少し怒っているようだった。
「叶えられることは全部頑張るわよ。無理なものは無理って言うけれど」
「そうか……まあ、きちんと断れるならいいが」
それから彼は少し目を逸らしながら訊いてきた。
「シルビオ殿とは……その……彼は常に弾かれていたのか? 防御魔法で……結婚式で誓いのキスを弾いたと聞いたが、その後もか?」
「ええ、そうね。手を握ったこともないわ」
リナは苦い顔で肯定したあとに、「あ、でも一昨日のパーティーで手は握ったんだった」と思い返す。
そう思うと離婚後にようやく初めて手を握った、というのも奇妙なことだ。
……それ以上に、そんな奇妙な人生に巻き込んでしまったシルビオに対して、ひどく申し訳ないと思う。当時は原因を自覚していなかったとはいえ、リナが償うべき罪だ。
(……でも、無意識でも手を弾かなかったってことは、前よりは私も改善できているってことよね?)
途中からは緊張で弾いてしまっていたが、シルビオの手をしばらく握っていられたのは大きな変化だ。
以前とリナが違うのならば――やはり、この屋敷に来て、エドガルドと触れ合ったことが原因だろうか。きっと誰かとの接触に対しての緊張や警戒が下がったのだろう。
(……やっぱり、先にエドとキスをしないと、駄目な気がする)
最初の一回、ファーストキスさえエドガルドとすることができたのなら、シルビオの手を握れたように、エドガルド以外の誰とでも平気になるのではないだろうか、と思えてくる。――もし一回だけでは駄目なら、『キスなんて手を握るのと同じくらい』と思えるほどにエドガルドとキスする必要があるかもしれないが――ともかく、エドガルドとの経験があるかどうかが、やはり肝だ。
「あの、エド、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「私……その……男性に免疫がないというか……緊張で防御魔法が勝手に出て、弾いちゃう時があるみたいで」
嘘は言っていない。嘘は言っていないが、「男性に免疫がない」などと色恋の話を彼とするのは、いけないことをするようで緊張した。
エドガルドは驚いたような顔で、リナの言葉の続きを待っている。
「エドとは触れ合えるでしょう? だから、その、私が再婚するまでの間に……ええと……エドで慣れさせてくれない?」
「…………」
「つまり、その、なるべく、触ってほしいというか……」
自分でもとんでもないことを言っているのはわかっている。ほぼ痴女である。
どんどんと胸が苦しく、熱くなっていく。まともに彼の顔が見れなかった。
エドガルドはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「……君は、シルビオ殿との再婚のために、そこまでするのか」
「え? いえ、まあ、シルビオ様に限らないんだけど」
再婚相手が誰になろうと同じことだ。
というかエドとの未来が無いので、誰かと添い遂げたいリナは、別の誰かと結婚できるようにしなければいけないのだ。だが初恋の未練のせいで相手を弾いてしまうので、エドに先に触れてもらわねばならないという――もはや、ややこしく内部で複雑骨折したような、エドへの片思いである。
再婚相手のためというよりは、ただリナ自身のためでしかない。
エドへの片思いに殉死することができない自分の浅ましさが少し嫌になる時もある。
――だが、彼の手に触れ、抱きしめられる幸福を知ってしまった。
好きな人と触れ合えるのは、こんなにも幸福なのだと知ってしまった。だから――
「この先、好きな人に抱きしめてもらえる人生があるなら、やっぱり頑張ってみたいなって……諦めきれなくて」
「…………」
リナの呟きに、彼は苦しそうに目を閉じた。
いつまでも別の誰かの背を見ているエドガルドを見続けるのはつらい。
だから隣にいてくれる人がほしい
「……しかし、だからといって俺相手で男に慣れようというのはどうなんだ……そんな手段は選ぶべきじゃない」
彼はリナの顔をしっかりと見て言った。
「もっと自分を大切にするべきだ」
「大切にしてるわよ。だから全部エドが初めてがいいの。手を握ってくれたのもエドが初めてだし、だから――」
キスも、とはさすがに言えなかった。
だが、リナの願うような想いは、きっと彼を見つめる瞳から伝わったのだろう。彼は目を丸くする。
「……俺は先ほどから……何か都合のいい……夢か……?」
彼は何度も瞬きをし、リナに手を伸ばしかけ――
「……いや、そうか、媚薬だな……媚薬効果のある毒が俺から漏れて……すまない、リナ、俺は君にどれほどひどいことを……」
また落ち込み始めてしまった。
「違うってば! 媚薬成分なんてあったことないわよ!」
そんな否定を聞いてはくれない彼は、冷静を取り戻したのか、神妙な顔を作ってリナに語り掛けてくる。
「いいか、リナ、冷静になるんだ。俺と触れ合ってどうするんだ。本当に好きな人としか、そんなことはしてはいけない。接触実験で普段から手を握ることだって本当は――」
「エドの馬鹿!!」
もう知らない、と部屋を飛び出した。