31_兄妹の争い②
「エドを飼い殺しにしようって言うのね……」
怒りで睨みつけると、兄は涼しい顔で言う。
「お前もそのつもりでここへ来たんだろう」
「違うわよ! エドが一人でも外出できるようにしたいのよ!」
「お前なしでもいいのか?」
「当たり前でしょう。なんでそんなこと訊くのよ」
兄はリナを馬鹿にするような顔をする。
「お前が父上と交わした魔法契約書を見たぞ。〝エドガルド・イラディエルが結婚継続に同意し、なおかつ魔法的に問題なくキスができた場合は、結婚の延長を認めること〟と――父上に約束させたそうだな? で、一つでも達成できたのか?」
「ぐ……」
彼が結婚継続を望み、なおかつキス――夫婦としての接触ができるのなら、結婚を認めていいと父は言った。魔法の契約書で交わした約束は絶対だ。リナが条件を叶えたら、必ず父は『結婚を認める』を実行しないといけない。
結婚継続の同意なんて、もらえるわけがないとわかっていた。せめてキスだけでも、という決意のつもりだった。
「……大体、エドは、私や誰かに迷惑をかけるくらいなら一生外出できなくてもいいって思ってるような人よ。うちの顧客になんかならないわ」
リナは話を本題に戻した。
「お前がどのように予想しようが、意味は無い。薬を飲まなければ、イラディエル公爵は、一生閉じ籠って命が終わる日を待つだけだ。お前はそれで構わないのか?」
「……っ」
リナが彼のコーティングを遠距離で維持できるようになれば、弱体化の薬には頼らなくて済む。だが、その距離はどれほど伸ばせるだろうか。何年かかるだろうか。もし屋敷の端から端までの距離を保つのさえ、十年かかるようだったらどうすればいい。無理に実験した時は、防御魔法は解けてしまった。リナは強度特化であって、操作性などは器用な方ではない。
リナの苦悩する顔を、兄は静かに見ていた。
「よく考えろ。丸薬をイラディエル公爵に提供する。ただしお前の口からは、この『秘策』について、一切話すな。すべて俺から説明する。丸薬の出所についても、光の公爵家と俺の共同開発であることは隠す。さすがに光属性が込められた薬であることは、話さなければ飲まないだろうが――真の思惑は隠し通す。薬と併せて俺とお前の二人がかりのコーティングによる社交場への出席を重ね、次第に俺一人が『補佐役』となり、我が侯爵家に頼るよう築き上げる」
「ク、クソ兄貴……」
やはり少しでも『兄がいてくれてよかった』などと思ったのが間違いだった。
「そんなクズみたいな計画、見逃せるわけないでしょ」
「それならば、丸薬の存在はイラディエル公爵には知らせない」
「……っ」
兄に頼らない方法は本当に無いのだろうか。丸薬をリナが作ろうにも、一年で独学で修行して、出来るようになるだろうか。丸薬の中に入れる光属性の魔力も――S級の協力者も必要だ。エドガルドの魔力に対抗するとなると、並大抵の者では意味がない。光の公爵家が一番に決まっている。
(どうしよう……)
黙り込んでしまったリナの前で、兄は魔法契約書を懐から取り出した。
「お前が話さないことを誓えば、イラディエル公爵に『弱体化の薬』を提供し続けると誓おう」
「……準備がいいのね」
リナはじっとその契約書をみつめる。
「……エドに不利益を与えないって条件を足して。たとえ侯爵家を頼らないで外出するようになったとしても、薬を渡し渋ったり、薬の効き目について嘘を言わないって約束して。薬だけで十分な時にも防御魔法士が必要なんて嘘をつかないで」
「お前が条件を出せる立場か?」
「これくらい、いいでしょう」
リナは兄を睨みつけた。
「……一年だけ、エドに我慢してもらうわ。でも、絶対に、私も薬を作れるようになる。光属性の魔力の提供者も、どうにかみつけてみせる。あなたたちに邪魔されても、絶対に」
「お前に才能が無かったらどうする?」
「――私は天才よ」
決意を込めて、リナは自称する。
その強がりを、兄は見透かした。
「お前が一番に望むものは何だ? 『猛毒公爵』を問題なく外出させ、選定公として揺るぎなく――そして、三年前の頃のように、いや、それ以前よりも沈静化させ、毒体質に苛まれることなく、他者と過ごせるようにしたいのではなかったのか?」
「……そうよ」
弱体化の薬で彼の毒体質が減少すれば、防御魔法士のリナ以外とも触れ合えるようになる。――そう、カタリナ嬢とも、手袋無しで、手を取り合えるようになるだろう。一年も待たせたら、カタリナ嬢は兄と結婚してしまう。一年でリナが丸薬を作れるようになるかさえ、今はまだわからない。
「最も優先すべき望みのためでさえ、わずかな悪事も許容できないとは。それはお前のような者に選べる道ではない。一切の穢れなき道こそ、本当の強者にのみ許される。お前が俺よりも弱いから、お前の要求は通らないのだ。早く理解しろ」
「……っ」
悔しくて涙が出そうだ。
大嫌いだ、この兄が。
「さあ、署名しろ」
兄は魔法契約書をリナの前に突き出す。
これにサインしてしまったら、リナはエドに兄の思惑を伝えられなくなってしまう。
(……でも、契約書にサインをする前なら、エドに話しに行ける)
今なら、まだ何の制約も受けていない。
――それなら。
リナは部屋を飛び出そうとした。
だが、当然、兄が立ち塞がる。
「……愚か者め」
ばちんと互いの防御壁が正面からぶつかり合った。
「退きなさいよ」
「まだ俺に勝っているつもりか」
真白に輝く最高峰の魔法壁が、正面で激しくぶつかりあう。
暴風のような迫力に、リナは息が詰まりそうになる。兄がS級になったというのは嘘ではないようだ。修行の結果は丸薬だけではないらしい。リナが硬度特化ならば、兄の性質は『威圧感』とも言うべきか、丸薬の凝縮にも貢献しただろう、強烈に押し出す力だ。
「本当に、大嫌い――あなたを弾き飛ばしてやるために、私はずっと鍛練していたのよ!」
クソ兄貴、と歯を食いしばる。
絶対に負けるわけにはいかない。
熾烈な衝突は命すら削りそうなほど、膨大な魔力を消費し続けた。この世で最も高位で、最も似通った血縁同士の防御壁のせめぎ合いは、一瞬でも先に気を抜いたほうが負ける。
めまぐるしく壁が壊されそうになり、再構築され、暴風を巻き込むかのように、リナの魔力を吸い続けた。
「……っ!」
眩暈がする。魔力の残量のせいだけではない。急激な消耗に身体が耐えられない。
あと少しで意識が飛びそうだと思った時――
ばちんと同時に両者の魔法壁がはじけ飛んだ。そのせいで、強い衝撃が兄の頬を切った。
「……っ」
声を出しそうになったのはリナの方だった。
兄は垂れる血を、物ともせず、冷淡な目で見下ろしてくる。
「――話したら、俺が薬を渡さないとは考えないのか」
リナは固まる。
卑怯だ、と叫びたくなる。
それでは、エドガルドが後で薬の存在を知った時も、彼らは『渡さない』という選択肢を取ることができる。
「言っただろう。薬の協力者は光の公爵家。このイラディエル公爵家とは、敵対派閥。この家が潰れて得をする側だ。俺が間に入らないのなら、光の公爵家こそ本気で薬を盾にしてこの家を脅すだろう。突きつける条件は見当もつかない」
「……どいつもこいつも、最低だわ」
光の公爵家が、そこまで非道な真似をする人たちだとはリナは思っていなかった。一時的に結婚した元夫は優しい人で、その父親も、決して恐ろしい人ではなかった。――だが、兄がここまで断言するからには、リナが思うよりも、公爵同士の争いは残酷なのだろう。
睨み続けるリナに、兄はちいさく息を吐く。
「……俺たち侯爵家は、光の公爵家に従う枝葉の一つだ。……だが俺は、『猛毒公爵』もこの国に在るべきだと考えている。このまま自滅していくのも、ましてや毒体質が手に負えなくなり、処刑されても困るのだ。薬で調整できるのが一番良い。だから真っ先にこの薬をあの方にと思った。俺が進言したから光の公爵家の『容認』がある。たとえ敵を生き返らせるような真似だとしてもな。俺とお前だけでは、高位の光属性を込めた丸薬など作れない」
聞き分けのない子どもに説明するように、ひどく静かな声だった。
「貴族社会は打算で回る。耐えられないのなら、お前が去れ」
リナも、覚悟を決めなければならないのだろうか。
「……署名するわ。でも、やっぱり条件を足させて」
リナは契約書に目を落とす。
「うちの侯爵家が絶対に同行しなきゃいけないなんて、エド本人を騙すようなことは言わないで。丸薬の量も、エドの健康を損なわないようにして。不必要に飲ませたり、わざと減らして、エドが毒を撒いてしまうような真似はさせないで。――あなたじゃなくても、もし別の誰かがエドにそういうことをしていると知ったら、看過せず、絶対にエドを助けると誓って」
「……」
兄は黙ってリナを見ていたが、リナがそれ以上退かないとわかったのか、リナの言ったことをすべて条項に盛り込んだ。
リナが署名すると、魔法契約書は光を放つ。これでリナと兄の間で、契約が成立したことが示された。
(……選ぶのは、エドだわ)
今日ここでリナができることは、ここまでだ。
兄はこれから、『秘策』についてエドガルドに話すだろう。
薬の存在を隠して防御魔法が毒魔法に勝ったことにするのは、あくまでも周りの貴族に対してのみ。自分で薬を飲むことになるエドガルドには、絶対に兄は薬の説明をしなければならない。そしてエドガルドならば、彼のための弱体化の薬が、高位の光属性の魔力を含んでいるという説明だけでも、光の公爵に頼る未来を理解するだろう。彼はリナよりもずっと貴族の思惑に聡い人だ。
彼は、弱体化の薬に頼らずに、今の暮らしを望み続けるかもしれない。
あるいは、兄の侯爵家や、光の公爵家との関係を持ちつつ、互いの利害を踏まえた上で、また貴族社会に戻るかもしれない。
ただ、エドガルドが望んだ時に薬を手に入れられない、などという選択肢すら潰すのだけは避けたかった。
(……だから、私は、制約通り、黙っているしかない)
「さあ、戻るぞ」
そう言って兄が応接室に戻る前に、
「ねえ、あと一つだけ訊きたいんだけど」
と、リナは暗い声で言う。
「なんだ?」
「カタリナ嬢とは……恋愛結婚なの?」
こんな時にそんなことが気になるのか、と言いたげに兄は目を丸くした。
「向こうは俺のことを好きだと言っていた。縁談としては悪くないから結婚を決めた」
「……ふうん」
今日会ってから察してはいたが、カタリナ嬢の方が、兄に惚れているらしい。どうして世の中はこうも上手くいかないのだろう。エドガルドが一体何をしたというのだ。
「……カタリナ嬢は、お兄様のクソみたいな性格を知っているの? すぐに『愚か者』とか罵詈雑言を浴びせてくるところを。……まさかカタリナ嬢にまで言ってないでしょうね」
兄はリナを小馬鹿にするような顔になる。
「俺の性格は知っている。むしろ、伯爵家を出ようとしている最中に俺と出会ったくせに、俺と結婚するためにやっぱり伯爵家に戻ると言うから、一度強く言ったことがある。……お前が何を心配しているのか知らんが、俺はカタリナを騙して結婚したところで何の利益もない」
「あっそ」
カタリナ嬢のことを騙しているわけでも、利用しようとしているわけでもなさそうだ。兄が性悪だと知っていても好きだというなら、このまま兄と結婚するのがカタリナ嬢の幸せかもしれない。だが、どうかエドガルドのことを好きになってほしいと思った。――彼とだって、絶対に幸せになれるから、と。




