30_兄妹の争い①
異変に気づかなかったカタリナ嬢は、今日訪れた本題について話した。
「婚約披露パーティーをするので、お二人にも――大切な妹夫婦であるお二人にもいらしていただきたいのです」
「妹夫婦……」
その貴重な言葉に、普段なら心ときめかせただろうが――
(いや、エドからしたら初恋相手の婚約パーティーにお呼ばれするのよ!? 今この瞬間もきっとつらいに決まっているわ!)
ちらりと横を盗み見る。
しかしエドガルドの表情をいくら窺っていても――彼は平然としたままだった。
(え、ここで落ち込んだりしないの!?)
念のため、研究所から借りている魔力計測器も、そっと彼に向けてみるが、魔力はとても安定していた。それどころか、エドガルドにしては低い数値で、先ほどの一瞬の強い毒霧は何だったのかと思うほどだ。
(なんで平常時より低いの!? 安らぎを感じているってこと!?)
毒魔法が漏れていないのは喜ばしいことなのだが、理解ができない。
そこでふと、正面にいるガスマスク姿のままのカタリナ嬢のことを思い出す。
(ああ、そっか……)
彼女のためなんじゃないか、と。
腑に落ちて、頭が冷静になる。
彼は無意識に抑えているんじゃないだろうか。彼女を傷つけないために。
そう思い至った途端、胸がぎゅっと苦しくなった。
(いいな……好きな人のためなら、無意識に頑張れるんだ)
やっぱり彼にはカタリナ嬢が必要だ。
ただ問題は、カタリナ嬢は兄に惚れているようなので、別れてもらうのは心苦しい。
(でも絶対うちのクソ兄貴より、エドの方がいいはずよ!)
「ぜひこれから仲良くさせていただきたいわ。わたくしとエド――イラディエル公爵様との結婚はあくまで実験のためだけれど、イラディエル公爵とカタリナ様には今後も仲良くしていただきたいし、婚約披露パーティーにも二人揃って出席させていただくわ。ね、エド」
「……出席しないぞ。君だけ行くといい」
エドガルドはやはり否定する。
「私と兄がしっかりコーティングするから! 二重の防御魔法ならいいでしょう?」
「俺の毒が上回った場合、どれほど重ねても意味はないのだが……」
「そ、そういう場合もあるかもしれないけど……」
仮にS級防御壁で防げないほどの猛毒が出てしまったら、S級のリナが負けた時点で、次の層の兄の魔法だって当然負けるのだ。
ぐ、と押し黙ったリナを見ながら、正面の兄が口を開いた。
「イラディエル公爵様。それについては、策がございます。必ずや、イラディエル公爵様を、安全に社交場にお呼びする方法がございます」
(え、そんな秘策があるの!?)
驚いているリナとエドをちらりと見て、
「少し、別室で妹と話をしてきても構いませんか?」
と兄が言う。
「ああ、構わないが……」
防御魔法士が席を外すとなると、カタリナ嬢が心配だろう。
その間カタリナ嬢には庭を案内することになり、エドガルドは応接室で待つことになった。
(くっ、ここでカタリナ嬢がエドとお庭デートできれば完璧なのに……!)
この機会にエドガルドと二人きりで話してほしいところだが、彼の猛毒体質をなるべく警戒するならば、エドガルドから離して、換気の利いた場所にいるのが一番安全だ。
異母兄は、リナについていこうとしたラミラすら追い返し、応接室からなるべく遠い部屋を選んで、リナと二人きりになった。
「で、話ってなに? 秘策について、私に先に教えてくれるの?」
問えば、兄はそれには答えず、冷えた目でリナを見る。
「先ほどの急な毒――いつもそうなのか?」
「……いえ、いつもと言うわけではないけれど」
リナは少し考えながら答える。
「時々強くなることはあるわ」
「……平常時は想定より弱いが、瞬発的に上がる量は、桁違いだな」
それはリナも思っていたことだ。
「研究所の人に言われて、どういうタイミングで安定しているか、上がるのか、測定はしているわ」
リナの滞在が子犬セラピーみたいな効果をもたらしているだの、ストレスがどうだのと言われ、一応毎日記録は取っている。
「平常時は、ガスマスクさえしておけば無暗に怖がるほどの毒じゃないわ。屋敷のA級毒魔法士だってガスマスク無しで歩けるほどだし……B級の毒魔法士だとたまにガスマスクに頼ってるけど……まあ、私がS級防御魔法でしっかりエドをコーティングしておけば選定公会議にだって行けたほどだわ。私さえそばにいるなら、今すぐ社交場への復帰だって無理ではないくらいよ」
兄は静かな顔で、腕を組む。
「具体的には平常時というのはどういう状況を指す?」
「言葉の通り、普通に過ごしている時よ。書類仕事をしている時とか、食事中とか。あとは――私が触れ合えそうなほどすぐ近くにいて、普通に喋っている時は、もっとあきらかに数値が低くなるわ」
「……」
「べ、べつに思い上がりとかじゃなくて、事実よ!」
「何も言っていないだろうが。急に感情を表すと、より一層凡骨に見えるぞ。愚か者め」
「そっちこそ、いちいち愚か者って言わなきゃ喋れないのかしら!?」
一年ぶりに会った兄だが、屋敷にいた時と変わらない。何度「愚か者め」だの「この程度のこともわからんのか」だのと罵倒され続けたかわからない。むきになって叫んだ後で、リナは兄に言いたかったことを思い出す。
「そういえば、この一年、傷心旅行で失踪していたお兄様が、どうして急に戻ってきたのよ。私を倒す算段でもついたのかしら?」
「傷心旅行?」
兄は怪訝そうにする。
「私がS級になって、妹に抜かされたから傷ついたんでしょう?」
「凡人の発想だな」
少しも笑いもせずに言われた。
「魔法の鍛練のためだ。S級になったので戻ってきた。正式な認定は後日だが、お前と同格だ」
「……ん?」
つまりこの一年の不在は、傷心旅行ではなく、修行の旅だったらしい。
「いや、『探さないでくれ』とか紛らわしい書き置きを残していなくなったんでしょう? 普通、傷心旅行だと思うじゃない」
「? 探さないでくれなどと書いた覚えはない。父上がそう言ったのか? 書き置きがあったとしたら、連れて行った侍従のものだろう」
「……」
あの父であれば、息子の筆跡の見分けがつかないのも納得だ。名前を添え忘れたであろう侍従も悪いが。
「まあ修行でも何でもいいけど、せめて兄として、貴族として、妹の帰国と結婚式には立ち合っておくべきだったんじゃない?」
リナが光の公爵家次男を花婿に迎えた時、兄は旅に出たばかりでいなかった。主筋の公爵家から婿を迎えようという時に、嫡男がその場にいないなど、ありえない所業である。
「俺の旅の都合がついて出かけた後に、お前が帰国して勝手に結婚しただけだ」
父は、嫡男が失踪したと思ったから、慌てて手を回し、リナを帰国翌日には結婚させて家の地位を守ろうとしたのだが――……。
なんだか父が哀れに思えて顔を顰めていると、兄も不満そうに目を細める。
「そもそも、俺はきちんと光の公爵家には列席できない非礼を書状で詫びているし、あのスケジュールは公爵様も承知の上だぞ。式の日取りが決まった時には、俺は海の向こうだった。船で戻っていては間に合わないほど急な縁談だった。光の公爵様も『魔法の研究を優先するように』とおっしゃっていた」
「お父様には伝わってないんだけど……というか、船? どこまで遠くに行っているのよ」
そして海の向こうに行くのに父に言わずに出かけたとは。
もし小心者の父に、遠方へ修行に行きたいなどと告げれば、「危ないからやめなさい!」と言うだろうし、兄はそれを平気で無視するだろう。そもそも父の許可を得ようなどという思考は、兄の中には無いかもしれない。父を軽視しているので。
(私は絶対に、素敵な家族を築くのよ……)
父と兄のことを考えるたびに、リナの決意は強まるのだった。
「で、また私をいびって暮らすつもり? 私は当主になるつもりだけど」
兄は呆れたような顔をする。
「お前のように愚鈍な者に当主を任せるわけにはいかないだろうが」
「そっちこそ、冷酷傲慢なクソお兄様に治められる領民が可哀想だわ。私のなけなしの良心が、絶対に阻止しろと騒ぐのよ」
「愚かな良心だ……」
哀れみの目を向けられた。
「まあ、それについては今後話していくとして――もしかしてなんだけど、その修行とやらが、秘策だったりするの?」
「ほう、お前にしては察しが良い」
兄とリナの現状の防御魔法では、せいぜいエドガルドのコーティングくらいしか対策ができない。そして強度を上げたいだけなら、兄は遠方にまで修行になど出かけない。
「元々、光の公爵様が気にしていた新しい技術でな。海の向こうではここ数年、魔力を凝縮し、特殊な丸薬を作ることを試行していた」
「丸薬……?」
初めて聞く話に、リナは目を瞬かせる。
「大昔から、魔法を持ち歩こうとすれば希少な魔石に刻んでおくしかなかった。だが、自身の魔力を取り出して圧縮し、それを高位の――俺のようなS級の防御魔法で、破裂しないよう囲い込めば、丸薬に仕上がり、このように持ち歩いて適宜使うことができる」
そう言って兄はポケットから白い丸薬を取り出した。小指の爪ほどの小ささで、細やかな光を放っている。見たこともない、美しい球体だった。
「すごい……本当にそんな……魔法の圧縮なんてできるようになったの……?」
あまりにも未知の話に、リナはただ球体を見つめるしかない。
魔法というのはその都度使える個々の体質のようなもので、取り出して『物』とすることはできないと習っていた。
「二種類の高位魔法士がいてこそだ。それこそS級が揃わねばならない。外壁は俺のS級防御魔法で囲い、中に濃縮されているのは光属性の純粋な魔力。今回のこれは『光の公爵家』との共同制作だ。――これを闇属性の魔法士が飲めばどうなると思う?」
兄の問いかけにリナは目を丸くする。
「――もしかして、エドに飲ませるの?」
「ああ」
兄は静かに頷いた。
「毒魔法になる前の、源泉とも言うべき闇属性の魔力を消耗させ続ける。昔から魔力を無理やり滅する研究はあったが、どれも上手くいくものではなくてな――とうとう一つの正解に達したと思うぞ」
「それって……」
つまり、エドガルドの毒体質を、漏れないよう囲い込むのではなく、そもそも原因物質を減らしてしまおうということだ。
リナが辿り着いた思考を察し、「わかったようだな」と兄は頷く。
「闇属性の者に飲ませれば『弱体化の薬』となる。俺が離れていてもこの丸薬の外壁の防御魔法は持続し、ただし緩やかに崩壊していく。持続性の高い薬だ。あれほど高位の毒魔法であれば、人よりもかなり崩壊は早くなるだろうが――それでもかなりの量を飲めば、半日くらいは出かけることができるだろう」
まるで夢のような解決方法だ。
リナの防御魔法だと、対象から離れてしまえばすぐに消えてしまうが、完全に切り離されても持続する薬なら――
(私が一番、やりたかったことだわ……!)
まさにリナの理想が叶う。エドガルドが何も気にせず出かけることが可能になる。
「そ、それの作り方を教えてください……!」
思わず必死に頼めば、意外にも兄は馬鹿にすることはなかった。
「教えても構わんが、すぐには習得できんだろうな。感覚の問題だ。一年ほど修行がいる。いや、お前はもっとかかるかもしれん」
一年もエドガルドを待たせることはできない。
「じゃ、じゃあ、並行して私も練習するので……その薬を、どうかエドに」
「最初からそのつもりで話しているだろうが」
お前に頼まれなくとも飲ませる、と兄は言った。
「俺と光の公爵家で作れる『弱体化の薬』を飲んでいれば、常に体内の魔力が低い状態になる。無意識で漏れる程度の毒魔法の量も、突発的な上昇も、俺とお前のコーティングで余裕で守れると魔力測定器で周囲に安全性を示せるほどになるだろう。薬の量の調節も慣れてくれば、選定公会議でも舞踏会でも晩餐会でも、好きなだけ出かけられる」
「すごい……!」
感動しながら拍手をすれば、「貴族がそう簡単に感情を示すな。愚か者め」といつもどおりの罵倒が飛んでくるが、リナはもう気にならなかった。
兄は性悪だが、実力は本物だ。
「弱体化の薬、エド以外の人も助かりそうね」
「そうだな。昔から検討されては失敗してきたものだ。弱点となる属性を――闇属性には光属性、火属性には水属性、というように中身を考えて作れば、誰に対しても弱体化の薬を提供できる」
「素晴らしいわ!」
リナが正面からエドガルドの毒魔法に対抗しようと強度や距離を試行錯誤している間に、兄はどれだけ小さく圧縮できるか、という方面に励んでいたのだ。
「お兄様がいてくれてよかった……いえ、私に兄がいることではなくて、そんな丸薬の外壁を作れるほどの、お兄様のような高位の防御魔法士が私以外にもいてよかった、という意味よ」
リナが手離しで褒めていれば、お気楽なやつめ、と溜息をつきながら兄が言う。
「まったく同じ言葉を返すぞ」
「?」
「理論上は圧縮を維持さえできれば、と昔から言われていたが、実現不可能とも言われていた技術だ。……お前がS級魔法士になったことで、防御魔法の進化の天井がまだ先にあるとわかった。ならば、俺は現状で止まるわけにはいかん、と思ったまでだ」
つまりリナがいなければ、兄は海の向こうまで行かなかった、という意味だろうか。
「それはそれとして、俺は、心底、お前が、嫌いだ」
ものすごく区切って言われた。
「まあ、私も同じ気持ちだからいいけれど」
いつもなら喧嘩に応じるところだが、今は喜ばしい光明が見えたばかりなので微笑んでおいた。
それをじっと見て、兄は、ぽつりと言った。
「……光の公爵家とお前の縁談は、防御魔法が目当てだった」
「へえ、そうなの」
「まあ俺が成功したので、光の公爵家からすれば、お前は用済みだが」
「いちいちうるさいわね」
べつに、器量だので縁談が決まったとも思っていない。
そして兄はそういうところがある。リナが前を歩いていると「邪魔だ」と突き飛ばして退かすようなところが。
「私は名誉とか要らないからいいんだけど……なに? お兄様は丸薬の発明に寄与した功労者みたいに表彰されるの? 良かったわね」
「丸薬についてはまだ公表されない。光の公爵家との約束でな」
「ああ、画期的な新しい発明って、騒ぎになりそうよね。色々と周辺の整備が終わるまでは内緒にしたいのね」
「まあ、そんなところだ」
リナには難しいことはわからないが、良い方向に進んでいることはわかる。にこにこと頬を緩めていると、兄がとんでもないことを言い出した。
「そういうわけで、我が侯爵家が、猛毒公爵の『補佐役』を独占する絶好の機会になった」
「? ……どういう意味?」
なにやら不穏な気配がする。
「俺とカタリナの婚約披露より先に、近々光の公爵家で夜会があるのを知っているか?」
「ああ、招待状ならここにも来てたけど……」
「そこへ俺とお前、S級防御魔法士が両側からイラディエル公爵をエスコートする。魔力測定器で安全であると数値を示し、丸薬のことは隠し、俺たちが防御魔法で完封できたことにする。つまり、お前たちがやっていた『最強の毒魔法と最強の防御魔法、どちらが強いか』などという試みは、防御魔法が勝ったことにする」
「?」
どういう意図なのか、まったく意味が分からない。
「いえ、弱体化の丸薬があるなら、私たちがエドの両側にいる必要なんて、ないんじゃない?」
兄は冷えた目でリナを見下ろしてくる。
「頭の回らないやつだな。実態と他者からの評価は異なるものだ。丸薬のことなど、言わなければ周囲の者にはわからない。そもそも『弱体化の薬』の存在など、そう簡単に表舞台に出すものではない」
「は……?」
リナは混乱しながら、なんとか兄の言葉の意味を捉えようとする。
「ええと、ああ、そうよね、弱体化の薬なんて悪用されそうだから、公表は慎重に――」
「知っている者だけが使えるという優位性にこそ価値が付く」
「はあ!?」
とんでもなく、クズな発言を聞いているような気がする。
「ば、馬鹿じゃないの……!? 何を言ってるのよ、クソ兄貴」
兄は目を細めた。
「わからないのか? 『猛毒公爵』の沈静化を、薬ではなく防御魔法による功績とする。『猛毒公爵』には当家が必須だと印象づける絶好の機会だろうが。今後は常にセット扱い――イラディエル公爵が望もうと望むまいと、当家の付き添い無しでの社交場への参加は周囲が認めぬほど――後戻りできないように外堀を埋める。薬の量の調整で、いくらでも演出が可能だ。そうすれば『猛毒公爵家』は一生、当家の『顧客』になる」
「さ、最低……!」
エドガルドが、防御魔法士に頼らないと社会的に生きられないようにするつもりらしい。