03_手を握る
「さあ、早く署名してちょうだい」
玄関ホールで睨みあいながら、リナは言った。
正式な結婚のために必要な署名を、彼は渋った。
リナや、リナの当主である父もサインしたので、あとは彼のサインだけなのに。
「天才の君ならば焦らずとも良いのではないか? 誰も君に触れられないからといって俺の毒で侵蝕できるか試そうなどと、命知らずにもほどがある。天才の君ならば、一年もあれば自在に扱えるようになるだろう」
「私の天才っぷりは強度であって操作能力じゃないのよ」
ふん、とリナは威張ってみせる。……彼より弱いと思われたら、そもそも『最強の矛と盾』どころではなくなってしまうので、『天才で最強の防御魔法士』という姿勢だけは崩してはならない。
「……学生時代の俺とは違うんだぞ。以前は君が隣にいようが腕を掴まれようが素肌にさえ触れなければ爛れることはなかった。だが今はもう、常人であれば近くで息をするだけでも命に関わる」
漆黒ガスマスク集団の使用人たちが、無言でこちらを見つめてくる。
中々に異様な屋敷である。
背後の父がまた怯えたような声を出す。
「リナミリヤ! やはり帰ろう!」
「うるさいですわよ、お父様。さっきから公爵閣下に失礼じゃございませんの」
「俺は気にしないぞ。聡明なお父君じゃないか。家族は大切にするべきだ」
「ちっ」
愛人だった母を大切にしなかった父への恨みごとを在学中に彼にこぼしたことが何度かある。リナが父を嫌っていると知っているだろうに。……わざともう一回「ちっ!」と盛大に舌打ちをしておいた。
「舌打ちはやめなさい! 侯爵令嬢ともあろうものが!」
父が悲劇だとばかりに叫ぶ。
「あら、ごめんなさい、お父様。幼少は侯爵家とは無縁で野山を駆けていたものですから、粗暴さが抜けきれていませんの、誰かさんのせいで」
「当てこすりを言うのもやめなさい!」
リナは視線を彼に戻す。
「さあ、御託は結構。私は帰る気なんて無いわ」
「……最長で三ヶ月滞在だったか」
「最長とはなによ。きっちり三ヶ月滞在させていただくわ」
彼はリナが諦めないと悟ったのか、署名をした。
正式に婚姻できて、ほっとする。
リナは父を振り返った。
「お父様、あの約束守ってくださいますわよね?」
「……も、もしできたら、の話だ。……何もなくとも必ずこまめに報告するんだぞ! 危ないと思ったらすぐに帰ってきなさい!」
先ほどからリナを案じるような言葉が多いが、父は本当にただ「金の成る木」が壊れないか心配しているだけである。
署名が済んだので、父は去っていった。
見送りが終わると、エドガルドが言う。
「約束とはなんだ? 俺の寝首を掻くとでも約束したのか?」
「そんなわけないでしょう」
じとりとリナは彼を睨むが、彼は挑発するように笑ってみせる。
「だが、それ以外に君がここへ来る理由がないだろう。俺を殺そうと近づくことすら、今やよほどの命知らずか、鉄壁の君くらいにしかできないからな。お父上か、それともどこぞの家に大金で頼まれたか? 俺が死ねば『五大選定公』の席が一つ空くからな」
「興味ないわよ」
態度の変わらないリナを見て、彼が怪訝そうにする。
「本当に魔法の研究のためだけに来たのか?」
「……ええ。天才でもどうにもならないことはあるのよ」
「そうか。まあ、好きに過ごしてくれ。俺は君に関わるつもりはない」
彼が部屋に引っ込みそうだったので、
「ちょっと、一日一回の『接触実験』は!?」
と呼び止めた。
猛毒公爵と鉄壁令嬢が触れ合ったらどちらが勝つのか。魔法を制御できていない最強同士は、互いの練習相手になれるのか。――それを確かめることが、この結婚が公的に許された理由だからだ。
「……本当にやるのか」
「王立研究所の人もそのうち様子を見に来るわよ。今日はいないけど――来ない日の報告書を書くのは私なんだから、逃げないでちょうだい。とりあえず今日は手を握ってみるだけでいいから」
「……」
彼は溜息を吐いた。
そして使用人たちに指示を出した。年の近そうな涼しげな顔の侍女が、三つも四つもガスマスクを持ってすぐ近くにやってきた。さあどうぞとばかりに見つめてくる。
「君の分のガスマスクだ。各部屋に完備してある。いつでもどれでも好きなものを使うといい」
「……いえ、結構よ」
「意地を張るな。君の魔法を信頼していないわけではないが、安全対策をいくらでも重ねることは悪いことではない」
リナとしてもその道理はわかっている。
ただ、恋する乙女としては、ガスマスクを着けるなどありえない。
――なぜって武骨なガスマスクをしていたらムードも何もない上に、口を覆っていたらキスのチャンスを逃すからだ。
三ヶ月の滞在の間、絶対に一度もガスマスクをせずに過ごしてみせる、とリナは決意していた。
さて、とリナは自分が纏っている防御魔法を確認し、それからちらりと彼を盗み見る。
(……噂よりも、毒が弱いんじゃない?)
この屋敷に入った瞬間は、「なるほどこれがS級の毒魔法か」と内心怯えたものだが、今は少し薄くなっている気がする。魔法というのは精神状態に左右されることもあるので、波も当然あるのだが――それとも彼が意識して抑えてくれているのだろうか。
(今ちょっと触るくらいならA級くらいの防御魔法でもいけそうね……)
リナが無意識に花婿や父や研究者を弾きつづけた時の防御魔法は、最高位のS級だったので、相手が何の魔法を向けてこなくとも、ただ触るだけで『ばちっ』と音がするほど弾きまくっていた。
だが、力を抑えたA級の防御魔法なら、触れても相手を弾いたりしない。柔軟性があるので、そのまま普通に手を握れるはず――
「ほら、手を握ってみましょう」
リナが手を差し出すと、彼は少し悩んだ末に、黒い革手袋をしている右手を差し出した。
「外さないの?」
「……今日は様子見だ」
実験としてはいずれ素肌で触れ合っても問題ないか確かめる必要があるが、初日ならば手袋越しでもいいだろう。
「少し心配ではあるが、まあ耐魔を施した手袋越しであれば、俺の毒も多少は弱まっている。常に最大のS級防御魔法を纏っている君ならば、無傷で弾くだろう」
「……そうね、理論上はそうね」
S級が解除できなくて人を弾きまくっている鉄壁令嬢だとみんな思っている。ただし今はA級の防御魔法だが――
リナはそっと手を近づけ、おそるおそる指先から触れ合わせる、そしてゆっくりと手のひら全体に、自分の手を重ねていった。
そっと彼も握り返してくれた。その力の優しさ、そして男性らしい大きな手に、心臓が速くなる。
初めて、好きな人の手を握った。
自分の頬が、熱を持つのがわかった。
「……何故だ?」
彼は目を丸くして、リナを見つめている。
「俺は侵蝕するほど毒魔法を使っていないぞ……?」
そう。『指一本触れられない』と噂されるリナに平然と触れたので驚いているのだろう。
……何故もなにも、彼を拒む理由がないからである。
(は、恥ずかしい……)
あなたが好きだからです、なんて言えるわけがない。
お互いに、時が止まったように見つめ合っていた。
そしてそれを見守るガスマスクの使用人たちは、リナたちが平気で手を握りあっているのを見て、はじめは信じられないものを見るように凝視していたが、すぐに「おおー!」と拍手をした。
主人であるエドガルドはその音ではっとしたようになり、そして混乱した顔で喋り出す。
「なぜ触れたんだ? ……防御魔法を使っていないのか……? まさか、俺の毒のせいで魔法を維持できないほどダメージを受けたのか!? それとも未知の作用で、君の魔力を失わせてしまったのか!?」
「え?」
予想外の大問題扱いされて、リナはきょとんと目を丸くした。
何を言っているんだろう、と彼を見つめるが、焦っている彼は止まらない。
「なんてことだ、このままでは死んでしまう……! 顔も真っ赤だぞ! 熱があるのか!? どこが苦しい!?」
「いえ、あの」
「大丈夫だ、リナ、絶対に死なせないからな! ――誰か、早く、最高位の医者を――!」
(な、なんで――!?)
リナはぶんぶんと首を横に振って、「違う! 違うから!」と彼の腕を必死に掴むが、彼は「リナ、すまない、俺が猛毒公爵なばかりに……!」とリナが今にも死ぬと思っている悲愴っぷりだ。手近なガスマスクを無理やりつけられ、「すまない」と何度も謝罪される。リナは慣れないガスマスクのせいでもごもごと喋りづらい中、必死に否定した。
「ちがう、全然平気なのよ! なんともないの!」
「無理しなくていい!」
(だ、だれか止めて!)
焦りでリナは上手く言葉が出てこない。救いを求めて使用人たちを見ながらぶんぶんと首を横に振り続けていれば、使用人たちは何やら察したのか、ひそひそと顔を寄せ合って相談を始める。ガスマスクの構造が立体的なので、先端がぶつかり合いそうだ。
「何をぼさっとしている!? 早く医者を連れてくるんだ! いやむしろ向かった方が早いか!? 今すぐ馬車を用意してくれ!」
彼に叫ばれて、一人が慌てて走っていく。
――結局リナは、使用人たちの妥協案によって一番近所でこの屋敷の主治医でもある医師を呼ばれ、「健康そのものです」とお墨付きをもらった。
その四十代ほどの男性医師が黒髪でちょっとエドガルドに似ていたので、気恥ずかしいという乙女心により、触診の際も防御魔法が出てしまい、魔力測定器などを使って診断した上で「噂に違わぬ鉄壁令嬢ですね。魔力も問題ありませんよ」という診断になった。
それを聞いたエドガルドは「俺の毒のせいで魔法を使えないほど瀕死になったり、魔力を失ったのでないなら良かった」と真剣に安堵していたらしい。
期間限定の結婚初日、リナは屋敷をお騒がせして終わった。