24_甘い夢
やわらかく、誰かが頬を撫でる感触で目が覚めた。
熱でうかされた鈍い身体をよじると、「気が付いたか?」と声がする。
(エド……?)
聞き覚えのある声だな、と思いながらゆっくりと目を開ける。
リナが眠っている寝台の横に、エドガルドが座っていた。
身を屈めて、すぐ近くでリナを見つめている彼の表情には、憂いと焦燥があった。
「大丈夫か、リナ」
彼が痛ましそうにリナを見て、そっと労わるようにリナの頬に手を添えてくれた。
その心地よさに目を閉じそうになりながら、彼の意外な行動を不思議に思って、その手を見る。
彼はいつもの黒い手袋を外して、素手でリナの頬に触れていた。
「……?」
優しく、まるで愛しい人を触れるように、頬や、額を撫でてくれる。
嬉しいけれど、一体これはどういうだろう。
夢だろうか、とリナは思った。
毒体質の彼とは素肌で触れ合えないはずだし、なによりも、こんなふうに触れてくれるなんて、あまりにもリナに都合がいい。
そもそも、リナの身体は今、とても熱っぽくてふわふわしている。だからきっとこれは夢だろう。
ぼんやりと彼を見上げていると、彼が申し訳なさそうにする。
「すまない、リナ。身体はつらくないか?」
「……平気……」
「どこも痛いところはないか?」
「無いわ」
ただ熱くて重いだけだ。しかし、そう言われてふと自分の身体を見てみれば、着替えた覚えのない、黒いドレスに着替えていた。
しかも、身体の周囲には水色の花が敷き詰められている。
――美しく、繊細で、まるで硝子に色を乗せたような、透明感のある花弁。
(この花って……)
在学中、彼が一輪だけくれた花だった。
リナの目の色と同じだと言ってくれた、思い出の花だった。
三年前に彼が言っていた。彼の家の温室で育てている毒花の一種で、特別な花だから、どこの花屋にも売っていない。――リナはこの花が好きになったけれど、自分では手に入れられないから、彼に贈られた一輪だけが生涯で一度だけ手にできた花だった。学園の裏庭で「君の目の色と同じで綺麗だろう?」と贈られた一輪は、どれだけ大事にしても、数日もすれば枯れてしまって、またいつか欲しいと思ったけれど、決して言えなかった。彼に図々しいと思われたくなくて。
それがたくさん溢れるほどに、リナの周りに美しく敷き詰められていた。
「……なんて綺麗……そっか、私、死んだのね」
「死んでないぞ」
真っ黒なドレスと、たくさんの花。傍から見れば棺桶に入る寸前だ。遠い目をして言えば、「気をしっかり持つんだ」とエドガルドが深刻そうな顔で言ってくる。
「誤解のないように説明するからよく聞いてくれ、リナ。……君は毒で倒れた。今こうして俺が触れているのは、君の体内でこれ以上、その毒が悪さをしないように――そのために、俺が触れることで別の毒を送り込んで拮抗させている。つまり喧嘩相手として俺の毒を与えているんだ。……一般的にはそういう有害なものに対する喧嘩相手を『薬』と呼ぶのだが、詳しい説明は今は省略する。この毒花もそのための補助だ。君の体内の毒を中和させるための処置をしている」
彼は、リナのぼんやりとした頭でも受け止めきれるように、つとめて優しく、ゆっくりと語りかけてくれた。
「……中和」
「そうだ。君の体内に入ってしまった毒と戦って倒すために送り込んでいる。今はその『喧嘩』が終わるのを待っている最中だ。……すまないな。体もつらいだろうし、俺に触れられて怖いだろうが、あと少しだけ頑張れそうか?」
「怖いなんて、どうして?」
リナはちいさく首を傾げた。
彼の手は、今もリナの頬に触れている。それがとても嬉しいことなのに。
すり寄るように、彼の手をそっと両手で包み込んで顔を寄せると、彼が驚いたように、肩を跳ねさせた。そして咳払いをしてから、「平気なら良かった」と言う。
「俺が今与えている毒の方は、残ってもなるべく悪さをしないような毒を選んでいるが――つらくないか?」
「うん……だいじょうぶ……」
リナはこくりと頷いた。身体は熱いが、痛みなどもない。
「君は魔法壁越しとはいえ俺と日頃近くで接していたからか、毒魔法への耐性がかなり上がっている。魔法壁越しだと身体への悪影響なく、魔法としての耐性がついていくようだ。やはり君はすごいな。……このように直接触れる治療法で、少しは君を怪我をさせてしまうかと思ったが、君が無事でほっとしている。君は無意識下でもA級の防御魔法を使っているようだが、俺のこの毒魔法は、害意が無いと判断されたのか、弾かれもしなかった。――よかった。君が素晴らしい魔法士で」
うまく頭が働かなくて、今度は内容がよくわからなかったが、ともかく彼のことは信頼しているので侵蝕の心配は最初からしていないし、どうやら彼の毒魔法にも慣れてきているとのことで、リナにとっては嬉しい話だ。
「ごめんなさい、心配かけて」
「……良いんだ。俺こそ、君をこんな目に遭わせてすまない」
本当に申し訳なさそうにリナをみつめている。そして優しく触れてくれる。
リナのせいなのに、こんなに優しくしてもらっていいんだろうか。
こんなに都合がいいなんて、やっぱり夢だろうな、とリナは思った。
(しあわせな夢だなぁ)
ふふ、と微笑むと、「どうしてそんな顔をするんだ?」と彼が不思議そうにする。
「あなたが触れてくれるのが、うれしくて」
彼の動きがぴたりと止まる。それから、混乱を心から逃がすように、そっとリナの頭を何度も撫でた。
「……あまり男を誤解させるようなことを言うな」
「誤解って?」
「……俺に気があるような発言だ」
「そうよ? 私、あなただけが好きなのに」
彼の目が見開かれる。――綺麗で、珍しい、澄んだ紫色に赤みがかった瞳。
好きだなぁと改めて思った。
「……もしかして、俺の毒は、媚薬のような成分も含まれているのか?」
かなり長いこと押し黙った彼は、やがて彼なりに結論が出たらしく、深刻そうな顔でぽつりと言った。
「媚薬? あなたは媚薬も作れるの? いいなぁ」
「……毒魔法士でなくとも、レシピさえ知っていれば作れるぞ」
「ふふ、すごい。欲しいわ」
ちょっとエドガルドに試してみたいなぁ、なんて悪いことを考えながら言えば、「持たない方がいい」と真面目な顔で、首を横に振られた。
「そうだリナ、水を飲めそうか? なにか食べられそうか?」
彼に訊かれて、喉も熱っぽいことに気づく。
「お水なら……少し、飲みたいかも」
「わかった」
そっと支えながら、上体を起こすのを手伝ってくれる。
優しくて、まるで宝物を扱うように寄り添ってくれるので、ますますリナは「良い夢だなぁ」と思った。
ベッド脇のサイドテーブルに置かれていたコップを彼が手に取り、水差しから水を注いでくれる。リナは彼に手伝ってもらいながら、なんとか少しずつ飲んだ。気を抜くとコップを落としそうになるのは、身体の熱が高くて、手足の感覚がかなり鈍いせいだろう。
「食べるのは無理そうか?」
「あんまり……」
「食べ物ではなくとも、なにか欲しいものは無いか?」
「食べ物以外……?」
首を傾げると、「ああ」と彼が頷く。
「ドレスでも宝石でも、花でも絵画でも。元気になりそうな物なら、なんでもいい。遠慮せずに欲しいものを言うんだ」
――すごい、なんて甲斐甲斐しいのだろう。
やはり彼はついつい世話焼きをしてしまう人なのだ。
「エド、詐欺に遭いそう……」
「何の心配だ」
「おひとよしすぎ……」
在学中も親切だったなぁ、と思っていると「当たり前だろう」と彼が言う。
「君のことが心配なんだ。――これくらいさせてくれ」
懇願するように熱く見つめられる。
……まるで、本当に大切な人だと言われているようだった。
(なんて都合のいい夢かしら)
いや、現実の彼だって、これくらいのことは言うだろう。なにせ彼は優しいから。リナでなくとも、道端で泣いている名も知らぬ子どもにだって、これくらい尽くしてしまうだろう。
「エドが優しいのは知っているし……そういうところが好きだけど……疲れてしまわないか、心配よ。誰にでも親切を配っていたら、エドの分が無くなっちゃう……」
「誰にでも優しいわけじゃない」
彼が真剣な顔でリナに言う。
「リナ、俺の心配などせず、自分のことだけを考えてくれ。君が幸せでいてくれるなら、俺はどんなことだってできるんだ」
(それは……)
まるで、愛の告白みたいだ。
「エド、それはさすがに……」
「すまない。怖いか?」
「ううん、怖いわけじゃないけど……」
それは、本当に好きな人のために取っておかなくていいんだろうか。
それとも普段からここまで熱烈に、周りの人を大切にしているのだろうか。……それはちょっとありえるかもしれない。
屋敷の使用人たちにもこれくらい愛を囁いているのかもしれない。
それとも、もしかしたらラミラが言っていた『囲い込み作戦』というやつかもしれない。
甘やかして、囲い込んで、俺の愛しい妻、とか言ってくれるのだ。この屋敷から遠ざけるために。――リナを傷つけまいと追い出すために、優しい彼は何だって頑張ってくれるのだ。
(これが最後なのかな)
リナが倒れてしまったから。毒に負けてしまったから。きっともうこの屋敷にはいられない。今度こそ、リナは彼の「帰れ」という言葉を拒否できない。
めそめそと泣きたい気持ちになって俯いてしまうと、
「どうした、リナ!?」
と彼が慌てだす。
「具合が悪いんだな!? 大丈夫か!?」
まるで抱きしめるように、彼がリナの背を支え、守るように包み込んで、リナの俯いた頬に手を添える。
「ちがうの、へいき」
「無理はするな。つらい思いをさせてすまない。また横になるか?」
「ううん。……もう少しこのままでもいい?」
「ああ、いいぞ」
彼の熱を感じていたくて、彼の胸に顔を寄せる。彼もまた受け入れるようにリナを抱きしめ、何度も頭を撫でてくれた。
「大丈夫か? 他にはどうしてほしい? 俺にしてほしいことはあるか?」
――本当はずっとここにいたい、なんて言えない。
キスがほしい、とも言えない。
夢の中でさえ、好きな人に言うことはできない。
せめて言えることは――
「昔みたいに……学生時代みたいに、過ごしてみたい。少しでいいから、お庭で、サンドウィッチを食べるような……ピクニックをしたい」
「なんだそんなことでいいのか。もっと無いのか? 無欲すぎるぞ」
「じゃあ……嵐のときにくれた、砂糖菓子、また食べてみたい」
「わかった。他にはないか? 俺にできることは何でもさせてくれ」
すごい。本当に何でもきいてくれそうだ。
学生時代のことを掘り起こすのは嫌がっていたエドガルドが、今は少しも嫌がらない。
「エド、本当に詐欺に遭いそう……」
「大丈夫だ。さっきも言っていたな、それ。妙な心配はしなくていい」
他には?と訊かれて、リナは最後に、勇気のいる願いを言った。
「……あのね、花束が欲しい」
「花束?」
学生時代、プロムナードの申し込みの初日、彼は好きな相手に――カタリナ嬢に、朝一番に花束を渡しに行った。
愛の証。
誰にも渡したくない、という愛の告白。
うらやましかった。
誰にも渡したくないからと朝一番に駆けつけてくれるような――この人の、そういう存在になりたかった。
彼は卒業してからもこの三年間――いやリナが学園に来るより前からきっと彼女のことが好きだったのだろう。
先に出会えていたら、何か違ったのだろうか。
「……この花、好きなの」
リナは、自分の周りに敷き詰められた水色の花をみつめて言った。
「学生時代、この花を一輪くれたでしょう? すごく嬉しかったの。……だから、この花の、花束が欲しい」
赤い薔薇の花束じゃなくていい。大きな愛の象徴じゃなくていい。
思い出の、大好きな花を、エドガルドから贈られたかった。
「覚えていたのか」
彼はやわらかく微笑んだ。
「毒のある花だから、毒抜きに成功した一輪しか、あの時は渡せなかったんだ」
「そうなの?」
だから一輪だけだったのか、とリナは目を瞬かせた。
それを見つめながら、彼が懐かしむような顔をする。
「……君の目の色と同じで、とても綺麗な花だろう。……君と出会ってから、どうしても渡したいと思って、この花の毒抜きを研究し始めたんだ。あの当時は一輪が精一杯だったが、今ではかなりの数が毒を持たずに世代交代できている。いつでも花束にできるぞ。今から採ってこようか?」
「ここにあるやつでいいのに?」
リナが首を傾げると、彼は静かにリナの髪を撫でる。
「いや、これは治療に使っている有毒の方だからな。君に贈る時にはきちんと毒無しの生育に成功した花を渡そう。……君に渡すためだけに育てた花だ」
まるで、特別な存在だと言われたようだった。
目を丸くしたリナに、「言わなかったか?」と彼が得意げな顔をする。
「もともと観賞用ではないからな。先祖たちは毒のあるままに育てていたが――俺だけは、君の目の色だと思ったから。だから、毒のない花も育てようと思ったんだ」
その言葉が、じんわりと胸を熱くしていく。
身体中の熱っぽさとは違う、陽だまりのような温かさだ。
「……エドが、私と出会ったから?」
「ああ、そうだ」
(……そっか、そうだったんだ)
その事実だけで、幸せだと思った。
――たった一つでも、この人の特別になれた。
もう十分すぎるほど、幸せなことだとリナには思えた。
会えなくなってからも、リナの知らないところで、リナのためだけに――リナと出会ったからこそ、毒のない花も得られるように育て続けていたのだと彼は言った。
彼の中でも、リナと出会ったことは、捨てがたい記憶として持っていてくれたのだと――そう思えたから。
彼が、人生の時間を割いてくれたという事実だけで、もう十分すぎるほどの幸せをもらったと思えた。
――だから。
もう終わりになってもいいと思った。
たとえキスができずに、別れることになったとしても。
追い出さないで、なんて、もう言わなくていいと思った。
「ありがとう、大好きよ、エド……」
彼をみつめてから、その胸に身体を預けた。わずかに息をのんだ彼が、先ほどよりも強く抱きしめ返してくれるのを感じた。




