20_執務室①
翌日、執務室で仕事をするエドガルドの横で、リナは魔法の鍛練をしていた。
自分と彼の防御魔法を維持しつつ、彼から離れる練習だ。
今までは、『互いに手を伸ばして触れ合える距離』にいないと、同時に二つの魔法壁を維持できなかった。
しかし朝から、彼のそばを離れたり近づいたりと、うろちょろと試行錯誤をし続けたリナは、二人の手の間に椅子一個置けるくらいには離れられるようになってきた。
ぎりぎりの距離で魔法を維持するのは、なんとも気が抜けないというか、引っ張られるような感覚があるのだが、なんとか維持してこれを繰り返していけば、徐々に距離を伸ばしていけるはずだ。
執務室内をこまめに動き続けるリナと、机の書類に向かっているエドガルド。そしてリナ専属侍女であるラミラは、今日もエドガルドから『リナから離れるな』という命令でも出ているのか、壁際でガスマスクを持ったまま――おそらくいざという時リナにすかさずガスマスクをあてがう役なのだろう――非常時に備えて待ち構えている。
他の仕事をさせてあげては? とリナは思うのだが、ラミラ本人もエドガルドも気にしていないらしい。
リナはエドガルドから離れられるぎりぎりの距離に立ち――また魔法の維持が危うくなれば、彼に近づく。
そろそろ昼になろうかという時間になって、エドガルドがぽつりと言った。
「……やはり帰った方がいいのでは?」
「あ、やっぱりお仕事の邪魔?」
彼は領地を持つ公爵として、あるいは毒魔法士たちの長として、色々と処理すべき書類がある。
リナが視界の端でうろうろし続けるのはやはり気が散るだろうと思って、「ごめんなさい」と謝れば、エドガルドは首を横に振る。
「そういうことではない。君にはもっと有意義な時間の使い方があるだろう」
彼はいつもリナの心配をしている。
なんだそんなことか、とリナはほっとした。
「昨日も言ったでしょ。私にもメリットがあるのよ。それに目標がはっきりしている方が頑張れるの。もともとS級レベルの硬度になったのも、兄に負けたくないって毎日憤りながら鍛練してたからだし、距離を伸ばそうって練習するのも、具体的にあなたが会議に出られるように、とか、夜会で隣にずっといなくても問題なく参加できるように、ってはっきり決めていた方が頑張れるのよ」
学生時代に「兄、泣かす。あいつを絶対弾き返す」とリナが恨みごとを言っていたのを知っているエドガルドは、「ああ、そうだったな」と頷いた。
「そういえば兄上はご健勝か? ここ一年以上、消息が不明だと噂に聞いたが」
彼の言葉に、リナは苦笑した。
「ええ、噂どおり、行方不明よ。私が留学中にS級になったでしょ? 見下してた異母妹に抜かされたのがよほど耐えかねたのか、私が帰国する少し前にいなくなったの。プライドが高すぎて多分もう帰ってこないから、父も私も、私が侯爵家を継ぐつもりでいるわよ」
父としては嫡男に継がせるつもりだっただろうが、「探さないでくれ」と書き置きを残していなくなったので、愛人との子とはいえS級に到達したリナの方を跡継ぎにしようとすぐに行動に移したのだ。リナが帰国した次の日には顔も知らない花婿との結婚式が開かれたので、父の切り替えの早さにはリナも面食らったものだ。
「そういうわけで、兄に硬度で勝った私の次なる目標は、距離よ」
「いや、君の課題は意図せず人を弾いてしまうことではないのか?」
「……それも、まあ、同時進行で」
怪訝そうなエドガルドからリナはそっと視線を逸らす。原因が乙女心だと知っているラミラだけが、少し笑っていた。
「――閣下、リナミリヤ様、お二人宛てにお手紙が届いております」
部屋の入口に、ガスマスクを着けた侍従の青年が現れた。初日のようなガスマスク集団ごっこはもうしなくてもいいと通達したのだが、エドガルドも言っていたとおり、体調の良しあしや魔力温存で、普段から活用する使用人もそれなりにいるようだ。
「入れ」
エドガルドが許可すると、侍従の青年は静かに入ってくる。
ちなみに執務室の扉は常に開け放たれている。
毒ガスが滞留しないように換気目的と、ドアを開ける使用人がそばにいない時でもエドガルドがドアノブを触らなくて済むようにだ。彼が触れることで起こる『侵蝕』は生き物に一番効くのだが、金属などの無機物に対しても結構な影響があり、特注の魔導合金製といえどすぐに劣化するらしい。彼のために屋敷中が一般の貴族邸とは違う対策がされている。
侍従の青年は手紙を乗せた銀色のレタートレーを持って、リナたちのいる執務机まで歩いてきた。
乗っているのは一通だけだ。
「あら、もしかして、連名でのお手紙?」
「はい」
エドガルドとリナ宛て、と先程言っていた。てっきりそれぞれに一通ずつ来たのかと思ったが、一通だけということは――
(つまり、夫婦宛て、ということね……!)
期間限定で実験目的の結婚とはいえ、貴族同士の結婚として、お祝いの手紙はいくつか来ていたらしいが、実際に見るのは初めてだ。
夫婦扱いに、顔がにやけてしまう。
「内容は――いや、やはり俺が先に読んでいいか?」
「? ええ、いいわよ」
彼の言葉に不思議に思いつつ、リナは頷いた。
今朝から執務室にいるリナにも、その手紙が少し特殊かもしれないことが、内容を見る前からわかったからだ。
本来なら無暗に侵蝕しないために、使用人たちはエドガルドが物を触らずに済むように配慮している。朝から来ていた他の手紙については、侍従たちは彼のために簡潔に要点を述べながら手紙を差し出していたのだが――この手紙について、侍従は要点を述べなかった。
(私宛てでもあるからかしら?)
そう考えつつ、彼が特注のピンセットで手紙をつまみあげるのを見守った。
すでに開封されている手紙は、遠目に見ても綺麗な便箋で、貴族御用達の一級品だとわかる。
(記念に欲しいな……なんて無理よね)
貴族同士の手紙は、きちんと保管しなければならない。
あとで読み返したり、何かの証拠になったりするからだ。
(でも、大したことない内容だったらもらえないかしら……)
夫婦扱いされた記念品として、一通だけでいいから欲しいと思ってしまう。
彼はすぐに読み終わると、トレーに手紙を戻して侍従に言った。
「燃やせ」
「かしこまりました」
「はい!?」
一瞬でエドガルドは侍従に命じ、侍従はそのままトレーを持って部屋を出て行こうとする。
「待って! それちょうだい! ――じゃなかった。私にも見せてよ!」
「大したことない内容だ。読まなくていい」
「大したことないのならむしろ欲しいんだけど!?」
「……なぜだ」
リナの言い分に、心底謎だと思っていそうな顔でエドガルドが眉をひそめる。
侍従はリナとエドガルドの意見が分かれたので困ったように立ち止まっていたが、壁際にいたラミラに耳打ちされると、はっとしたような顔になり、リナの顔を見た。
(お願い、燃やさないで……!)
リナが視線で訴えれば、青年は少し迷った後に、こくりと小さく頷いてくれた。
(伝わった!? もしかして記念に欲しいってことがバレてるの!?)
ラミラが恋心までバラしたとも思えないが、しかし手紙をこっそりあとで渡してくれそうではある。
ありがとう、とリナが熱い視線を注ぎながら、こくこくと頷いていると、
「……そこ、何を示し合っているんだ。きちんと燃やすんだぞ」
と、エドガルドが念を押してきた。
「なんでよ! 私宛てでもあるんだから読む権利あるでしょ!」
「…………それもそうだな」
苦虫を噛み潰したような顔をされた。
そしてかなりつらそうな顔で、
「……読むだけだぞ」
と言った。
(え、読むだけって、もしかして、あわよくば欲しがってるのがバレてるの!?)
思わずどきりとしたが、多分違うのだろう。「なぜまだ読んでもいないのに、そんな絶望したような顔をするんだ」と言われたので、内容に関してなにかリナが読むだけでは済まない行動をしそうだ、ということだろう。
侍従が持ってきてくれた手紙を恐る恐る見れば――
「夜会への招待じゃない!」
いたって健全な、普通の社交的なお誘いだった。