18_子犬なんていない
リナがこの屋敷に来てから四日目。
王立魔法研究所から、実験結果を聞きに白衣の青年が一人やってきた。
一人しか来ていないのは、この実験的結婚に協力するにあたって、エドガルドが条件を厳しく決めたからだ。「毎日押しかけたりするな。大勢では来るな」と言ってあったらしい。
青年は屋敷に入る前に使用人たちが渡したガスマスクを着け、リナ達と応接室のソファで向かい合った。
(……エドの隣に座るのって、『妻』っぽくて何度でもどきどきするわね……)
期間限定とはいえ、結婚するとこんなに当たり前に隣にいていいのか、とリナは改めて幸せを感じていた。
リナは今日もS級の防御魔法で『鉄壁令嬢』のふりをしている。……本当はA級でもこの毒魔法に満ちた屋敷で暮らせるのだが。研究員にバレてはいけないので念のためだ。
そして研究員の希望で、エドガルドは今日はコーティングをしていない。研究員の青年が魔力測定器をリナとエドガルドに向け、「うん、今日もお二人とも凄まじいですね」と頷いている。
「お二人で暮らしてみて、魔法の相性はいかがですか?」
リナは用意しておいた三日間の報告書を渡した。
簡潔な一枚にまとまったそれを、青年は呟きながら読みあげていく。
「一日目、手の接触を試みる。毒魔法による侵蝕無し。二日目、コーティングの練習に成功。術者本人はS級の壁に弾かれることはないが貫通もしない。三日目、選定公の茶会へ――これは現場で拝見しました。問題なく、毒が閉じ込められていましたね。素晴らしかったです」
城の中庭でのお茶会には、何があっても対応できるように魔法士たちが周囲にいた。その中にこの青年もいたのだろう。
そして、一日目について読み上げた時――エドガルドは目を見開いてリナの顔を見ていた。
……きっと、なぜ初日に『普通に触れてしまった』ということを書かなかったのか、と疑問に思ったのだろう。エドガルドはそのままリナを見ていたが、しかし何も言わなかった。リナは緊張で冷や汗をかく。
(だって、触れるってばれたら困るもの……!)
リナは『常に全力で防御してしまう』という設定なのだ。そうでないと思われたら――父はまた縁談を組み、そしてまだ心構えのできていないリナはきっとまた花婿を弾いてしまうだろう。それはよくない。再婚は、この初恋を終わらせてからでないといけないのだ。……具体的には、ファーストキスだけはエドガルドとしたいのだ。
研究員の青年は、報告書をテーブルに置いて、ちらりとリナ達を見比べた。
「実際に弾くところを見たいのですが」
「あら、何度もお見せしたはずだけど」
「相手が猛毒公爵――いえ、失礼しました、イラディエル公爵様の場合を見たことがございませんので」
一年前にリナが花婿を吹っ飛ばしてから、王立魔法研究所の研究員たちにはとてもお世話になった。リナも王女殿下に指摘されるまでは本気で暴走だと思っていたので、あらゆる人を吹っ飛ばすのを実際に見てもらっていたのだ。
「それじゃあ、やってみましょうか」
隣に座っているエドガルドに向かって手を伸ばしてみれば、「……まあ、一日に一回は、という条件だったからな」と彼も手をこちらに差し出してきた。
「……弾かれると思うけど、痛くないはずだから、驚かないでね」
触れる寸前にそう伝えれば、彼は驚いたような顔をしたが――やはり何も訊いてこなかった。
今日は、研究員にバレないよう、リナはS級の防御魔法を張っているので、『すべてを弾く』状態だ。間違いなく彼も弾かれるだろう。
二人の指先が触れようとすれば――ばちっと音がして、予想通り彼の手が弾かれた。
研究員は、
「ああ、やはり弾かれますね」
と、特に驚きもせずに言う。
(……うん、これが普通なのよ)
初日はエドガルドの手に触れてみたいという乙女心を優先したせいで、彼に『なぜ触れたんだ!? 体調が悪いのか!?』と驚かせてしまったが、これが噂の『鉄壁令嬢』としてのあるべき姿である。
「ええと、ごめんね、エド、弾いちゃって」
「……いや、君の魔力が万全なようで何よりだ。ただ――」
彼が何か言いたそうにする。
(ま、待って、初日の話はしないで!! 『どうして今日は触れないんだ。初日は手を握れたのに』とか言わないで!!)
リナが内心大慌てで彼を熱いまなざしで見つめていると、彼はその態度に不思議そうにはしたが、結局彼が訊きたいことは変わらなかったようで、平然と言った。
「君こそ、痛みなどは無いんだろうな?」
(え、それだけ!?)
拍子抜けで、ぽかんとしながらも、
「え、ええ、平気よ!」
とリナは答える。
「俺の侵蝕を受けていないな?」
「うん、何ともないわ!」
「それならいい」
彼は本当にそれだけ訊きたかったらしく、あとは何も言わなかった。
リナはほっと安堵の息を吐く。
(助かったけれど……どうして初日の話をしないでくれてるのかしら……実験については興味ないってこと……?)
彼はこの『最強の矛と盾、どっちが強いか』という実験には乗り気でなかったというし、毎日の接触実験についても、結果だの比較検証だのには関心がないのだろうか。
研究員はリナ達に魔力測定器を向けて、「んん……?」と首を傾げている。
「公爵様、少し毒が弱まっていませんか?」
「そうか?」
彼は首を傾げたが、リナは「そうなのよ!」と身を乗り出した。
「私もここに来てから思ってるの。少しだけだけど……噂に聞いていたよりも弱いのよ」
「いえ、噂ではなく、以前実際に測定した時よりも明らかに弱いですし、先ほどこの部屋に入ってすぐ測った数値よりも、少しだけですが下がっていまして……」
「それって良いことよね!?」
思わず隣のエドガルドに微笑みかけると、彼はぴたりと固まり――そっと目を逸らした。
「……魔力が不安定なだけだ。一時的に下がっても、すぐにまた上がるだろう。波があるだけだ」
彼はあまり喜んではいない。
「でも、結構良い傾向なんじゃない? どうしてかしら……もしかして、私みたいな防御魔法士が近くにいると影響があるとか?」
「リナミリヤ様が無意識にコーティングなさっているとか?」
「いえ、それはないけれど……」
「それならやはり公爵様ご自身から出る量が減っているということですね。何か心境の変化や、体調にお変わりはありませんか?」
「特にないが……」
彼は怪訝そうな顔をしている。
それから「ああ、心が乱れる要因は増えた。だが、落ち着く理由はわからないな」とリナを見ながら付け足した。
「心が乱れる原因……!? ストレスってこと!? ……いえ、ほぼ無理やり押しかけた自覚はあるけれど……!」
「俺は正直、君が来たら毒体質は悪化するだろうと思っていた。だから実験を断っていたんだが」
「そうなの!? 私が悪化させちゃうの!? ストレスで!?」
「……いや、すまない、俺の問題だ。それに、君でなくとも他人がこの屋敷に滞在していれば心配にはなる」
「……」
彼の言葉に胸が痛んだ。
この屋敷に閉じこもって、人と関わらなくなった彼の力になれると思ったから――自分なら彼の役に立てると思ったから、無理やりにでも押しかけて来たのに。優しい彼は、やはり自分の毒で誰かを傷つけてしまわないか心配してしまうのだろう。
研究員の青年は、リナ達のやりとりを少し気圧されたように見ていたが、
「……まあ、気苦労で瞬間的に上がるのは仕方ないにせよ――こうして安静時の数値が以前より下がっている理由については、リナミリヤ様が貢献なさっているのかもしれませんよ」
と、呟いた。
「どういう意味?」
「昔からあるんですよ。防御型でなく攻撃型の魔法で、しかも心因性で暴走する人に有効らしいです。子犬セラピー」
「子犬セラピー……?」
なにやら聞き慣れない言葉に、リナは首を傾げる。
「ええ、身近に可愛くて守りたい存在がいると、癒されたり、心の安定に繋がって、魔力の乱れも落ち着くという試みです。我が研究所では子犬をおすすめしていますが、他の動物でも構いませんよ。動物全般に対してはアニマルセラピーと言います」
「……」
隣でエドガルドが苦いものを噛み潰したような顔をするのが見えた。何なら勢い余って舌すら噛みそうなほどの顔の動きだった。
「どうしたの、エド!?」
「……いや、なんでもない。話を続けてくれ――いや、違う話にしてくれ」
「?」
リナはよくわからないまま、
「でも、この屋敷に子犬なんていないわよ?」
と、当たり前のことを研究員に言った。
研究員は、「いえ、リナミリヤ様が」と首を横に振る。
「私が何?」
「子犬に癒されたり振り回されたりするのと、ほぼ同じ効果があるのかと」
「…………」
リナは青年を睨んでおいた。
「私、別に、子犬みたいに駆けまわったりしてないし、背もそれほど小さくはないわ。……そりゃあ、エドに比べたら小さいでしょうけれど。……ねえ、エド、ちょっと黙っていないで何か言ってちょうだい」
隣を見れば、エドガルドはまだ無言を貫いていた。
「ちょっと、エド、否定してよ」
「…………心当たりがないわけでもない」
「子犬セラピーの心当たりが!?」
リナが驚いていれば、エドは気まずそうに遠くを見た。研究員は「なるほど」とメモを取る。
「ちょっと、それ報告しないでよ!?」
「何事も可能性は細かに記録するべきです」
「エドは毒魔法が低下した理由がわからなくて、言われたことに流されちゃっただけよ! 絶対違うから! 鵜吞みにしちゃだめよ、エド!」
「……そうだな」
エドガルドが思案する顔になる。
「そもそも俺の場合、心が乱された時に漏れ出る毒魔法はともかくとして、平常時に制御が効いていない分に関しては心因性ではないからな。毒魔法士に限らず、体の成長によって魔力が増す者が多い。俺は幼少から毒体質が増大傾向にあったし――十八歳で史上最悪の数値まで行ったというだけで、今もそのまま増加し続けている。心ではなく、経年による過剰な魔力増加が原因だ。ここ数年上昇し続けている毒魔法が今になって落ち着くほど、精神的に何か変わったようには思えない」
彼の真剣な言葉に、「そうですねぇ」と青年が相槌を打つ。
「しかし、公爵様の場合、十八歳の秋頃からかなり爆発的に増大しているのが気になります。十三、四歳の成長期ならまだしも、背が伸び切った年齢から急激に速度が上がるのは珍しいことだと当時も話題になっておりましたし……今回の『実験的結婚』が何か体質改善に繋がる可能性も、検討してみてもよろしいのではないでしょうか」
「……そうか」
エドガルドたちの視線がリナに向いた。
そして青年が改まって彼に訊く。
「公爵様、正直なところ、リナミリヤ様のご滞在が子犬セラピーと同質の効果を出している可能性、体感で構いませんので――どの程度の確率だと思われますか?」
「……可能性としては……二割くらいか?」
「低いじゃないの!」
思わずリナは否定した。
つまり80%の確率で『別の理由のせい』だろう、ということだ。
彼の返答を受けて、青年がまたメモを取る。
「報告するの!? 子犬がいないのに子犬セラピーって!」
「貴重な資料になります。……公爵様は植物の世話もなさっているそうですし、誰かの世話をするのが癒しになるのでは?」
「……そうか?」
(待って、私、世話の焼ける後輩だと思われてるってこと!? それを見ているとエドの毒体質が落ち着くの!?)
どういうことかよくわからないが、とりあえず心乱すような甘酸っぱい新妻だと思われていないことだけはよくわかった。
学生時代も、世話焼きで親切な彼に『危なっかしい年下』扱いで優しくしてもらっていた自覚はあるが――子犬扱いは、さすがに乙女の沽券に関わる。
「いえ、絶対私はエドのストレスになっているわ! 自信があるもの! それに面倒は掛けてしまっているけれど、『もう、仕方のないやつめ』なんてエドが心安らぐような世話の焼かれ方はまだしていないわ! エドはそこまで被虐気質じゃないわよ!」
「それは大きい声で主張することか……?」
エドガルドが遠い目をしている。
研究員も、リナの主張は意に介さない。
「ストレスだろうと癒しだろうと、実際に数値が下がるのなら、こちらとしては大歓迎ですよ。――では公爵様、今後は『リナミリヤ様の世話を焼いた時、危なっかしい行動を見た時、可愛らしく感じた時』に魔力の上下が起こるか記録を取っていただけますか。あ、一応『イラっとした時』もお願いします。攻撃型の魔法が漏れている方がイラっとした時に魔法が落ち着くことなど滅多にないのですが、これも念のため」
「私を基準にしないでよ! 普通にいつでも測定しましょうよ! エドのためならいくらでも協力するけど、私を基準にしちゃったら、わかるものもわからなくなるわよ!」
「でもまあ二割の可能性を潰しておくのも、研究なので」
絶対違うから流されないでエド、とリナは必死に頼み込んだが、エドガルドは首を傾げながら、「可能性としては無くはない……いや、しかし……?」と真剣に眉をひそめて唸っていた。