01_初恋リベンジ①
リナミリヤ・カレスティア。夏が来れば十八歳。
今日、ずっと好きだった初恋の相手と『期間限定』の結婚をする。
「よく来たな、リナ。まさか本当に来るとは思わなかったぞ」
公爵邸の玄関ホールで、両手を広げて『猛毒公爵』が嗤った。
歓迎している素振りのくせに、「今すぐ帰れ」と思っているのがよくわかる。
真っ黒な髪に、赤みがかった紫の瞳。
三年ぶりに見た彼は精悍な青年になっていて、ますます近寄りがたい威厳と気品が隠しきれていない。見る者に自然と畏怖を抱かせるのは、彼が毒魔法をその身に宿しているからだけではないだろう。
――そして、屋敷の暗さのせいなのか、以前よりももっと、人を拒むような、病的な陰を感じさせた。
「お久しぶりね、エド。……いえ、きちんとエドガルド・イラディエル様とお呼びした方がいいのかしら?」
「ああ、俺こそ、リナなどと呼ぶのは失礼か。今はリナミリヤ・カレスティアという名前だったか? リナミリヤ殿と呼ぶべきだったな」
「……リナでいいわよ」
学生時代を思い出して、胸が痛む。
リナ、エドと呼び合うだけで幸せだったのに――最後の日に喧嘩したまま友情が断たれてから約三年。どうして今や互いに噛みつきそうなほどに睨みあわねばならないのだろう。
彼――エドガルドの背後、玄関ホールには十数人の使用人たちがずらりと並び、かなり異様なことに、『顔の下半分を覆う、無骨な魔導式ガスマスク』を着けていた。メイドも執事も真っ黒なお仕着せだ。他の色を寄せ付けないような、黒の豪奢なフリルと黒糸の刺繍。事情を知らない者から見れば、メイドのヘッドドレスに至るまで悪趣味なほどの黒尽くしで、何世代か前の古風なゴシック衣装に傾倒している屋敷に思えるが、そのすべてが高級な耐魔布によるものだと知れば驚くだろう。布面積を上げるためにフリルをふんだんに使っているに違いない。
――それほどまでに対策をしなければ、もう誰も彼の毒魔法体質には対抗できないのだ。
(……大丈夫、よね? これで私が倒れでもしたら計画が台無しだわ)
決意を込めてごくりと息を呑むと、リナの背後にいる父が、声をひそめながら主張してくる。
「リナミリヤ! やはり帰ろう! 何度も言っただろう、お前にはもっとふさわしい相手がいる!」
「うるさいですわよ、お父様。ここまで来てまだ食い下がるだなんて、見苦しいことを」
父は非常に帰りたそうだ。この玄関ホールに入る前に渡されたガスマスクを何度も確かめるように触っている。防御魔法もかけているのに安心できないようだ。
ちなみにリナはガスマスクをせず、自分の防御魔法だけだ。
これは矜持であり決意。
国内最強の盾として、リナだけは彼の毒魔法の侵食に対抗できると周りが信じたからこそ、この『三ヶ月だけの実験的結婚』が実現したのだ。
父を睨みつけているリナを見て、エドガルドが笑う。
「お父上のおっしゃるとおりだ。さっさと帰って縁談を結び直せ。『天才』の君ならば引く手数多だろう。もっと真剣に探せば俺より何十倍もまともな結婚相手が見つかるだろう。三ヶ月だけとはいえ暴挙だぞ」
夫になるはずの初恋相手からも否定されて、リナはつい舌打ちをしたくなる。
「天才と呼んでくれてありがとう。でも私が天才だとわかっているなら少しは信頼してもらえないかしら? ――そう、私こそがこの国史上最高の、唯一防御魔法をS級まで極めた百年に一度の天才、リナミリヤ・カレスティア。いずれ侯爵家当主になる人間よ。……あなたに対抗できるのは私だけだわ」
亡き母の『挨拶は堂々としましょう』という教えを守って、リナは胸を張って名前を名乗った。
リナの決意に呼応するように、身体に纏っている防御魔法が白く輝く。彼の制御できない毒魔法が室内に満ちていても倒れずに済むよう、全身を球体のように覆っているのだ。綿密なレース編みのような純白の魔法壁は、繊細そうに見えても、いかなる魔法も武器も通さない――まさに鉄壁。国内の熟練の高位魔法士たちに『防御魔法の至高に辿り着いた』とすら言わしめた最高位の防御魔法だ。
少しでも魔力を上げるために、リナは光属性の純白のドレスを身に着けている。
白銀の髪を真珠で飾り、水色の瞳に合う、淡いピンクの口紅をつけた。
誰が見ても、真っ黒な彼と正反対だ。
――初恋の相手に三年ぶりに会うのだから、かなり気合を入れて準備をしてきたのだ。
リナは声を張って、父と彼を促した。
「さあ、婚姻の署名をしていただける?」
「……今ならまだ帰れるぞ。最初の結婚に失敗したからと言って自棄になるな」
「ちょっと。古傷をえぐらないでよ」
――この婚姻話の発端は約一年前。リナが最初の婿を結婚式で『弾き飛ばした』ことが原因である。
誓いのキスをしようとした花婿を、リナの防御魔法が防いでしまったのだ。
当然、周りは騒然となった。
結婚式でそのような無礼など、ありえない。
混乱の中、とっさに父は叫んだ。「違うのです! 娘はまだ魔法が暴走気味で! けして新郎を拒んでいるわけでは……! 誰でも拒むのです! な、そうだな!?」
リナ自身も状況がわからないまま、近づいてきた父親も吹っ飛ばし、立ち会っていた聖職者も吹っ飛ばし――参列者は父の言葉に納得した。一度発動すれば防御力の高さは天才的だが操作能力はほぼ無い――これが全員の共通認識となった。
リナが天才と呼ばれていたのは、街一つ吹き飛ばすほどの最上級の魔導式大砲を浴びても、何千本の槍が降り注いでも、炎の中でさえも無傷でいられる純粋な『強度』があるからだ。しかし、前人未到のS級防御魔法を持つがゆえに、きっと制御できなくなってしまい、誰も『鉄壁令嬢』に触れられなくなったのだろう――そう周りに言われ、その後もリナは毎日、夫も、父も、実験に訪れた研究者も、すべて弾き続けてしまっていた。
リナだって頑張った。防御魔法の暴走など、今までに無かったことだ。「意識がない時ならいけるかも! 強めの睡眠薬を飲むからその隙に触ってください!」と夫との初夜を強行しようとしたのだが、結局すべて失敗に終わった。
そうして文字通り指一本も触れられないまま半年経つ頃には、とうとう何度もリトライし続ける生活に花婿の方の心が折れて、「どうか離縁してください」と言われたのだ。
格上の『光の公爵』の次男を婿にもらっておきながら、半年も生殺しにさせた令嬢として、リナはそれはもう有名になった。
そして当然、次の婿など来ない。
離婚してからこの半年間頑張ったが、『まあ、防御魔法を制御できるようにならないことには……』というのが周りの反応だった。
そんな時、リナの親友でもある王女殿下がみんなに言ったのだ。
『最強の防御魔法に、最強の侵蝕を起こす猛毒公爵が触れようとしたら、果たしてどちらが勝つのかしら?』と。
猛毒公爵と呼ばれるエドガルド・イラディエルは、毒魔法の権威とも言える家系の若き当主で、もうじき二十一歳になる。
代を経るごとに毒魔法が高まりすぎて、今では親戚全員が自身の毒のせいで非情に短命。唯一健康な彼も、成長と共に毒魔法が強くなり、リナと学園に通っていた時は、素肌さえ触れ合わなければ爛れることもなかったのだが、ここ三年ではこうして使用人が全員ガスマスク着用という異様な屋敷に仕上がっていたようで、社交界にもまったく出なくなった。リナは最初の二年ほどは王女殿下の護衛として隣国留学にくっついて行っていたので、彼が外出を避け始めた頃のことは知らないが――ここ一年、噂に聞いているだけでも、彼の猛毒体質の悪化具合が凄まじいのがわかる。
五大選定公という王の次に権威を持つ公爵家の一つなのだが、毒を撒き散らしかねないので会議にも出られず、このままでは妻も迎えられない。他に跡取りとなれそうな親類も一人もいない。まさに存続の危ぶまれる家なのだ。
早く選定公の席を空けろと彼の滅亡を望む者と、消えてもらっては困るという者に別れ、国の悩みの一つとなっていた。
それを、リナの結婚失敗を機に、『だったら、二人を結婚させてみては?』と王女殿下が言ったのだ。
エドガルドの毒魔法を浴びても平然としていられるのはリナだけだし、リナの防御魔法を壊しうるのも彼だけかもしれない。
つまり『最強の矛と盾、ぶつけたらどっちが強いの?』という古代からの命題。この最強対決が、魔法研究者たちの知的好奇心をくすぐったとか、くすぐらないとか――。
そういうわけで、この実験的結婚が決まったのだ。
この実験を提案されて、当人の猛毒公爵であるエドガルドはかなり渋ったらしいが、王立研究所からの正式な依頼ということもあって、三ヶ月だけなら、と最後には了承してくれた。ちなみにわざわざ正式に結婚するのは「男女が一つ屋根の下で日々触れ合うのだから結婚は絶対に必要」とリナの恋心を知る王女殿下の後押しがあったからだ。
(感謝してます、王女殿下……)
おかげで、期間限定だがリナは好きな人の妻になれる。
もし実験の結果、『どうやら猛毒公爵と鉄壁令嬢は安全に触れ合える。そしてお互い以外の誰かと結婚するのはやっぱり難しそうだ』という結論に至ったら、三ヶ月だけとは言わず、結婚期間を延長できるかもしれない。
(……まあ、きっとそうはならないでしょうけれど)
――なぜなら、リナには絶対にバレてはいけない嘘が、一つだけある。
父も知らない。協力してくれた王女殿下だけが知っている。
一生墓場まで持っていかねばならない、リナの乙女心が引き起こした、ろくでもない『嘘』である。