『紅茶』『恋人』『暴食』
お題の確認日……2022/05/28
投稿日……2022/05/29
ふわり、紅茶の香りがしたと思った。
きみがよく飲む、アールグレイ。セイロンに柑橘の香りをつけた、お馴染みの、あの――。
だけど、それも一瞬のこと。柔らかな唇が僕の口から離れ、きみは静かに、そう、ただ静かに、言った。
「さよなら」
表情は、どうしても見えない。俯いたきみの、髪の毛がレースのカーテンのように、そっと顔を隠してしまって。
「ごめんね」
僕の口からこぼれ落ちた、そっと、呟くような、ささやかな謝罪。
もう、遅い。届くことなど、決してないのに。
なのに、どうして。
「――覚えててね」
柑橘の香り漂う、きみの言葉。
「私は、間違いなくあなたのことが好きだった」
楔のように、一言一句が、胸に刺さって、打ち込まれて。
「辛いことは、もう忘れる。あなたとの楽しい思い出を、私は胸にしまって生きるから」
その声は、香りは、言葉は、すべて。
呪いになって、僕の記憶に、心に、刻みつけられていく。
「だから、あなたもそうしてほしい――私からは、それだけ」
すっと前を向いた、きみの表情。
ガラス細工のように凛々しくて美しくて、そして――いまにも壊れてしまいそうな。
「さよなら」
踵を返したきみに、僕もそっと、囁いた。
「……さよなら」
窓の外で、小鳥が鳴く。
部屋に満ちる、薄氷色の朝の光。
深い後悔が、僕のすべてを支配する。
――もう、僕らは恋人同士ではない。
***
いつから、僕らは歪んだのだろうか。
分からない。
けれど、きみと過ごした日々は、いつだって幸せだった。
きみとの口づけは他の何物にも例えようのない甘美なもので、普段爆食なんてしない僕なのに、深く味わいながらもついつい貪ってしまうほどだった。
きみの愛情がなければ生きていけないと思うほどに、僕はきみに溺れていた。息を吸うように、きみのことを愛していた。
いつだかに、そんな話をしたらきみは「お互い様だね」と、頰を赤らめ微笑んだ。
「変な例えかもしれないけれど……あなたは魚で、私は水。魚は水なしで生きられないし、水は魚がいることで自分の存在する理由ができる。あなたが、私に生きる理由を与えてくれたんだよ」
きみの喩えと僕の喩えを足して二で割ったら、関係の変化にも理由がつけられるのかもしれなかった。そう、例えば――魚は水の中にあった酸素を、すべて使い切ってしまった。酸素を失った魚は生きていられなくなり、魚を失った水は自分の存在する理由を失ってしまった、とか。
恋をしているときの愛情は、無限に湧き出るものではない。消費されたら、いつかなくなってしまうのだ。
***
どうして、そんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
うまく呼吸ができないのに、無理やり息を吸い込んだ。
部屋にはもう残っていないはずの、紅茶の香りが蘇る。
『――ごめんね』
アールグレイの香りが、僕の耳元で囁いた。
『私は、間違いなくあなたのことが好きだった』
残酷な現実で、都合のいい幻聴だ。そんなこと、分かっている。
『あなたのことを、ずっと好きでいたかった』
息づかいすら感じられて、思わず振り返る。
もちろんそこに、きみはいない。
分かっていたはずのことなのに。
『ごめんね。……さよなら』
どうして、こんな言葉を聞いてしまうのだろう。
きみが口にすることのなかった台詞ばかり――。
なにかをする気にもなれなくて、ふらふらと戻ったベッドの上。枕元に落ちていたのは、きみの真っ白なレースのハンカチ。
『――覚えててね』
「だからこれを、置いていったの?」
答えはない。
仰向けに寝転がり、顔の上に広げたハンカチを乗せてみる。
「……僕はね」
きみの香りに包まれて死ねるなら、本望だと思った。
「僕はいまも、きみのことが好きだよ」