もう一人の自分!?
「到着しましたわ」
前を歩くルナジェリカさんが立ち止まり、彼女の肩越しに泉を見る。
木々の開けた場所。
鬱陶しい雑草も、空を覆う枝葉も存在しない、スッキリとした空間の中心地には円形の小さな泉が広がっている。
そして泉の周辺には赤・青・緑と様々な色の蝶。
蝶は蛍のように淡く発光している。
水面の近くを蝶が飛び回り、幻想的で美しい光景だ。
泉も夜空とそこに煌めく星の光を、鏡のように綺麗に映し出している。
……ん? 夜空?
「森の外は明るかったのに、何でここだけ夜なんだ……?」
「このジュンラオーブの森はまだ、月の加護が残ってますの。だから、ほら。セイヤチョウも沢山飛んでらっしゃいますでしょう?」
……なるほど、わからん。
わからないけど、とりあえず理解したフリをしておこう。
変に思われたら厄介なことになりそうだしな。
僕はルナジェリカさんに「そうなんですか」とだけ言い、泉の前に跪いた。
静かな水面に顔が映る。
初めて見る自分の顔。それが僕に、新しい自分に生まれ変わったということを改めて認識させた。
吸血鬼だからか、顔色はルナジェリカさん同様に青白い。唇も血色がない。
瞳は赤い。
そして髪は……死ぬ前に見た夕日と同じ色をしていた。
……これが今の……吸血鬼に転生した僕か。
三白眼で、ちょっと目付きが悪いがイケメンの部類に入るだろう。
以前のモブ顔だった頃とは大違いだ。
『…………が生まれ……わっ……俺か……悪く……じゃね…………』
「え?」
突然声が聞こえ、ルナジェリカさんの方を振り返る。
けど彼女は「何かありましたか?」と小首を傾げているだけ。
今のはルナジェリカさんが発したものではないようだ。
なら、空耳か? 彼女には聴こえていないようだし。
気を取り直し、僕は水を両手ですくい、顔にかけて洗った。
ひんやりとした感触が気持ちいい。汗と一緒に暗い気分も流されそうだ。
『うおっ、つめた…………急に顔にかけ…………俺は……冷え………だよ……』
…………また声だ。
だが、これは普通の声じゃない。
耳に届いたものではなく、頭の中に直接響いている。
今度は何だよ、何が起きてるんだ……テレパシー?
もう並大抵のことでは驚かない自信があるぞ。
「きゃああああああ!!」
「うわあああっ!?」
驚かない自信があるぞ。と思った瞬間にもう驚いてしまった。
いや、コレは仕方ない。悲鳴がしたなら仕方ない。
「ルナジェリカさん?」
恐る恐る振り向いてみると、倒れ伏すルナジェリカさんと、青い水晶玉を持っているフード姿の若い男。
そして、男の隣には2本足で立つ巨大な虎の姿があった。
2メートルはありそうな体長に、頭と手足にしかない白銀色の毛。
口から飛び出し、肩の辺りまで伸びている牙。その先からは赤黒い血が滴り落ちている。
……まさか、コイツは俗に言うモンスターというヤツか?
いや、それよりもルナジェリカさんだ。
僕はルナジェリカさんの側に駆け寄り、抱え起こす。
その際に彼女のケープの右腕部分が裂け、血が溢れ出ている肌が見えた。
恐らく目の前にいる虎型モンスターにやられたのだろう。
彼女は意識こそあるものの、怯えきった表情で虎と男を凝視している。
「こんな辺境の地に吸血鬼が2匹……私にも運が巡ってきたようだ……」
水晶玉を撫でながら男が呟く。
目付きの悪い僕が言うのもアレだが、なかなかの悪人面である。
「シキさん……」
不意にルナジェリカさんが僕の袖を引き、小声で話しかけてきた。
「あなたは逃げてください……!」
「逃げろって、え? あなたはどうするんですか?」
「……私は敵の気を惹き付けておきます。相手は上級モンスター……強力ですが、場に出していると他に召喚することが出来なくなる弱点があります。私が囮になっている間にシキさんは遠くに」
「あなたを見捨てていけと!?」
「はい。ここで2人やられてしまうよりは良いでしょう」
迷いなく言うルナジェリカさんだが、待ってほしい。
確かにあの虎はヤバそうだ。
ヤバそうというか、確実にヤバい。早く逃げないと殺られそうだ。
だが、僕が逃げ出したらルナジェリカさんはどうなる?
彼女とは先程出会ったばかりの他人だ。だが命の恩人だ。
そんなルナジェリカさんを簡単に見捨てられるほど腐ってはいないつもりだぞ、僕は。
だが、どうする?
しかし、ルナジェリカさんを抱えて逃げられる自信はない。
守って戦う自信はもっとない。殴りあいをした経験はゼロなのだ、僕は。
「敵を前にコソコソと雑談か? 随分と余裕だな」
男の声によって、思考に耽っていた僕は現実に引き戻される。
顔を上げると、虎の化け物が手を振り上げているのが見えた。
「やれ、ワータイガー!」
ワータイガーと呼ばれた虎の3本の指から、鉤爪がにゅっと飛び出る。
普通の虎とは比べ物にならない、太い爪。
皮膚や肉どころか骨まで裂いてしまいそうな、鋭利な爪。
それがルナジェリカさんを切り裂こうとしている。
「…………っ!!」
危ない!……そう思った時には、もう体が動いていた。
無意識のうちに僕はルナジェリカさんの前に立っていたのだ。
「シキさん!!」
悲鳴のようなルナジェリカさんの声が響く。
すぐ後ろに彼女はいる筈なのに、その声が遠く感じる。
一方、目の前にはワータイガー。
鋭い爪が真っ直ぐに僕へ襲いかかる。
ヤバい!
反射的に右手が動く。
動いた右手は吸い寄せられるようにワータイガーへ伸びていき――
爪が振り下ろされる寸前で、ワータイガーの手首を掴んで止めた。
「な、なんだと!?」
男が驚愕の声をあげ、ワータイガーもまた目を見開き、驚きを露にする。
だが待て。一番驚いているのは、他の誰でもない僕自身だ。
無意識のうちにルナジェリカさんを庇い、無意識のうちに攻撃を手で止めたんだぞ!
自分が怖い!
しかし止めたのはいいが、ここからどうすればいいんだ!?
緊張のあまり、手首を掴む手に力が入る。
「ギャアアウッ! ウッ、ガガ!!」
悲鳴をあげるワータイガー。
僕が力を入れたから痛がっているようだ。
奴の手首を見てみると、僕が握り締めているせいで細く歪に潰れ、裂けた皮膚から濃い紫色の血が溢れていた。
って、ちょっと力んだだけなのに何でこんなに潰れているんだ!?
もう骨まで粉々なのでは……。
『ボケッとしてんじゃねーよ! 怯んでる隙に、相手の腹にパンチでも1発ぶちこんでやれ!』
「は、はいっ!」
頭の中にまた声がする。今度はハッキリと男の声がした。
誰が話しかけているのか知らないが、ここは天のお告げということにでもしておこう!
僕は声の言う通り、空いている左手でワータイガーの腹に正拳突きを繰り出した。
グシュッ
分厚い牛肉を包丁で叩き切ったような音と共に、僕の左手はワータイガーの腹に、二の腕あたりまでめり込んでしまった。
僕の手が刺さっている周囲の肉がジワリと紫色に染まる。
一方、腹の中にある僕の手からは、内臓か何かに触れているのか生温かくヌルリとした感触が伝わってくる。
……パンチしただけなのに、何故こうなった。
もしや吸血鬼だから? 吸血鬼だから力が強いのか?
ピクリとも動かなくなったワータイガーの顔を見上げてみると、白目を剥き、口から血をだらしなく垂らしていた。
……たぶん死んでるのだろう。
ワータイガーの腹に刺さった手を思い切り引き抜く。
手が体内から出ると共に血液と肉片が飛び散り、ヤツの腹にポッカリと風穴が開いているのが見えた。
グロい――そう思ったのも束の間、ワータイガーの体は一瞬にして紙粘土のような物に変わり、そのままドロりと溶け崩れていった。
「バカな……術を使った訳でもない、ただの拳による一撃で……上級モンスターを倒しただと……」
男が真っ青な顔でブツブツ呟く。
この反応から察するに、吸血鬼だからといってパンチがモンスターの腹に食い込むのは普通ではないようだ。
まあ、僕の馬鹿力などどうでもいい。
モンスターが居なくなった今が逃げるチャンスだ!
「ルナジェリカさん、行こう!」
僕は振り返ると同時にルナジェリカさんの怪我をしていない方の腕を掴み、強引に引っ張って走り出した。
『あっ、バカ。何で逃げんだよ、仕留めるチャンスだっただろうが』
頭の中の声が文句を言ってくるが構っていられるか。
さっきはまぐれで倒せたのかもしれないし、あの男がどんな能力を持っているのかもわからない。
無闇に戦いを挑むより、怪我人を連れて逃げた方が良い……そう判断したのだ。
敵が追跡しにくくする為に、僕は木々の間を走り抜け、薄暗い森の奥へと進んでいく。
「ルナジェリカさん、大丈夫ですか?」
「は、はい……」
振り向き、ルナジェリカさんの様子を見ると同時に男が追ってきていないか確認する。
ヤツの姿は見えない。
だが、安心するのはまだ早いだろう。
「……あっ! シキさん、前っ!!」
突如ルナジェリカさんが強張った表情で叫ぶ。
前? まさか……!?
足を止め、前方を見る。
そこには先程のワータイガーの3倍……いや、4倍はある大きさをした、赤茶色の豚の化け物がいた。
頭には闘牛のように、湾曲した角を2本生やしている。
鼻息は荒く、血走った目でこちらを睨み付けてくる姿は、ワータイガーなど比べ物にならない程の迫力に満ちている。ヘタをしたら丸飲みにされそうだ。
というか、こんな化け物をどうしろと……?
「グゥアアアアア!!」
耳が痛くなる咆哮。
地を揺らすほどの大声に僕はビクッとなり、目を一瞬閉じた。
それと共に、左脇腹に固い何かがぶつかったような衝撃と痛みがはしる。
「いっ…………!!」
痛い。痛すぎて悲鳴も出ない。
左脇腹がジクジクと痛み、燃えるような熱さがそこから全身に広がっていく。
熱に浮かされているように頭がボーッとしていく。
足がガクガクと震え、立っていられなくなった僕はその場に崩れ落ちた。
視界が霞む中、眼球だけを動かしてモンスターの方を見ると、ヤツは右手の爪に付着した血を舐めていた。
……僕はあの爪に攻撃されたのか。
「ワータイガーを倒したからといって調子にのったな。今度のベヒモスはそう簡単にやられんぞ」
豚のモンスター……ベヒモスの側に立つのは、先程の男。
コイツがまた召喚したのか……。
「シキさん! しっかりしてください!」
目の前にルナジェリカさんがやって来て膝をつき、僕の顔を覗きこむ。
「ああっ、こんなに血が……! このままでは、このままでは……!」
冷や汗を流しながら彼女は左手の袖を捲り、露になった手首に爪を立てようとする。
ま、待て待て! 何でいきなり自傷行為!?
「今……今、治しますから……だから、しっかりして」
「目の前でパニクるんじゃねえよ、喧しいったらありゃしねえ」
……え?
今のは…………僕の声?
「シ、シキさん?」
「チッ……そんな名前で呼ぶんじゃねえよ。勝手に名乗りやがって、あの野郎」
目をパチクリさせているルナジェリカさんに舌打ちをする僕。
独り言を呟きながら、僕はゆっくりと立ち上がる。
ちょ、何だこれは。体が勝手に動いて、勝手に喋ってるぞ。
しかもさっきまで痛くて仕方なかった脇腹も、今では何ともない。
「あー、クソ……いてえ……けど、まあ……動けない程でもないな。このくらいで倒れやがって情けねえ。まあアイツには刺激が強すぎたか」
なんか痛いと言ってるが、僕は痛くないぞ。
だが体は言うことをきかない。
自分の意思で手足を動かしたりしようとしても、ピクリとも動かない。
なのに体は勝手に動く。まるで誰かに操られているかのように。
「邪魔だ、退け」
「キャッ」
ルナジェリカさんを乱暴に押し退け、僕はベヒモスの前に立った。
「おい、このクソ野郎共。テメーら覚悟は出来てんだろうなあ?」
指をポキポキと鳴らし、闘争心を露にする僕。
い、いったい何がどうなってるんだ!?