命日と誕生日 陸
目が覚めた結は、全身に痛みが残っているのに気づいた。外傷があるというわけではなさそうだが、体の内側が不自然に熱い。打撲の類だろうか。しかし、そういった明確で重鈍な痛みではなく、もっと鋭利で執拗で、まるで真冬の湖に入っているような感覚の痛みだった。
ゆっくりと頭を巡らせる。どうやらベッドに寝かされているらしいが、病院のように殺風景な部屋の中というわけではなかった。いや、結の右腕から伸びている点滴の管、ベッドの脇にあるモニターなど、病室にありそうなものはしっかりと確認できたが、壁の一つがガラスで覆われているところはまるで尋問部屋のように見えた。
(どこだろう……私、何でこんな所に?)
覚えている最後の記憶は、深く静かな森の中で不思議な女性を視た、あの一瞬の映像だ。視界が白に溶けていく中で、身体の内側が異様に熱くなるのを感じ、それからの記憶が全くない。
(ううん……少しだけ覚えてる。あの大きな妖怪──アレに殺されそうになって、私は、能力を使った……)
だが、そこから何があって今に至るのか、その肝心な部分が抜け落ちている。あの巨大な妖怪、見越し入道がどうなったのかも。
それに、覚醒した時以来全く使い方がわからなかった異能者としての能力が、何故あの時急に使えるようになったのか、それも謎だ。
いや──……全く心当たりがない、というわけではない。
あの一瞬の、森の中の映像を視る直前に聴いた鈴の音。結はあれを、前に一度だけ耳にしたことがある。いや、実際に聴こえているわけではないようだから、感じたと言った方が正しいかもしれないが。
結が十七歳になった日の明け方──異能の力に覚醒した時、彼女はまさにあの音を聴いたのだ。
或いは偶然かもしれないが、同じ、能力を使えるようになる直前に聴こえてきたという点が共通している以上、なんらかの関係性を疑うのが普通というものだろう。
異能の力、鈴の音、体の芯を焦がすような感覚──……
結は頭を軽く振って、疑問を追い出す。今はそれよりも、現状の確認が最優先だ。
上体を起こし、点滴スタンドを掴んで歩こうとした時、電車のドアが開く時のような軽くて滑らかな音がした。
「あ、起きたのね。良かった……のかはわからないけど。君、丸二日近く眠っていたんだけど、覚えてる?」
ダークグリーンの縁取りの眼鏡をかけ、癖っ毛混じりの黒髪をショートボブ風にした白衣の女性が、ガラスの向こう側から話しかける。
随分身体が重いと思っていたが、そんなに眠っていたのなら当然だ。焦点が合っていないのだろう、視界も若干ぼやけているし、思考もあまり定まらない。
無重力状態になるとこんな感じなのだろうか、と結は思った。
「覚えてないみたいね。私が説明しても報告書と同じ感じになるし、あの子たちに訊いた方がいいかな。……ああごめん、君病み上がりだったっけ」
ガラス窓の隣にある圧縮空気式のドアを開き、中に入って結を支える。ここがもう少し病室らしい雰囲気をもっていたら、入院患者とその主治医に見えたかもしれない。ただ、主治医というには彼女は些か若すぎるようだったが。
結は女性の手を借りながらガラスの向こうに見えていた部屋まで行くと、勧められるままに回転式の椅子に座った。オフィスなどでよく使われているタイプの、安さ以外にこれといった特徴のない椅子だった。
「改めて初めまして、蓮城 結さん。私は氷室 記。しがない研究者ってとこね。取り敢えず質問があるなら可能な範囲内で答えるわ」
同じ椅子をもう一つ引っ張り出してきて結の真正面に座り、足を組む記。もう少し身長があって、つくべきところに肉がついていたら絵になったかもしれないが、いかんせん彼女がやってもくたびれた社会人という雰囲気しかなかった。
結は未だ覚醒しきらぬ頭のまま、一番気になっていることを訊いた。
「見越し入道、は……どう、なったんですか」
記は少し意外そうな顔をすると、一度座り直して足を組み替えた。肘掛けに肘を乗せて頬杖をつくと、薄く笑って真っ直ぐ結の瞳を見る。
「こういう状況だと、八割方がまず“ここはどこだ”って訊くんだけど。まして、君は点滴やらモニターやらをされていた訳だし、服も変わっているのに。……ふぅん、面白いね」
記に服を指摘され、初めて結は自分が患者衣のようなものを着させられていることに気づいた。明るくはないが薄くもない、僅かに燻んだ青色をしていて、風をよく通すのか着心地はあまり良いとはいえなかった。
「ごめん、質問に答えないとね。まず、君が遭遇した“妖”、見越し入道は消滅──正しくは君が降した」
「私が……何?」
「彼らが生命体であることは義務教育課程で教わることだし、君も知っていると思う。勿論彼らにも人権はある。ただ、人間や社会に危害を加えようとする存在を見過ごしていては、国どころか人類が滅ぶ危険すら出てくる」
人間よりも遥かに強大な力をもったモノたち。彼らがもし世界中の同志と共に一斉蜂起したとすれば、人類が滅ぶというのは決して言い過ぎではない。実体をもつモノであれば銃などの一般兵装も多少は役に立つだろうが、半実体、無実体のモノを人間が相手取るというのは不可能だ。
「だからこその世界進化対策機関だしね。日本ではそれが──人間の安全と超常事件の解決が、超常廳に委ねられている。場合によっては殺すことも許される。“降す”っていうのは、私たちが人外を殺すことに対して使っている呼称ね」
途中から、結は記の言葉を聞いていなかった。
呼吸が荒くなる。
見越し入道は、結の目から見ても危険だった。結自身が殺されそうになったのだから、それはよくわかる。
だが──……
(私が……殺し、た?)
この少女、蓮城 結は、妖怪に対する差別意識が根強く残る街で育った。そんな場所にも人外はいたし、結はそもそも、たった一人友人と呼べる存在が人間ではなかった。
だから、妖怪だとか、人間ではないだとか、そういうのを物差しにしたことはなかった。
しかし。
いくら危険だったからといって、親友と同じ世界に属する住人をあっさりと殺して、それを忘れるのは──……
「顔を上げなさい。君があの時戦わなければ、被害はもっと大きくなっていた。君は人を助けた」
記が椅子から立ち上がり、結のすぐ目の前で屈んで視線の高さを合わせる。
「君みたいにしてここに連れてこられたヒトたちは、大体最初にそうなる。異能者みたいな後天的な人外は少ないから、今の君よりも“罪の意識”は大きかもしれない」
彼女が何を言っているのか、結は理解できなかった。“ここ”とは一体どこなのか。最初にそうなるとはどういう意味か。罪の意識とは──……
記は結の右手を取って握り、何かを小さく呟いた。
結は身体の緊張が、次第に、ゆるゆると解けていくのを感じた。
「ここは超常廳。人ならざるモノによる対人外組織。この国を支える最も重要な場所。君のしたことは間違いじゃない。人を、国を護った」
結の瞳が、頭上の蛍光灯の光を反射する。その光はとても瑞々しかった。
「罪の意識は必要ない……といっても、すぐに受け入れられはしないと思うけど。ここは、君が想像しているような場所じゃないから……何かあったら、私のところに来なさい」
相談に乗るし、愚痴くらいなら聞けるから──そう言って再び椅子に座り、結を見る。
彼女にはもう、先程までのくたびれた雰囲気はなく、その顔には柔らかな微笑みがあった。
「今日が、人生で最も素晴らしい日として思い出されるように──君に祝福を」