命日と誕生日 参
気を失っていたのは僅か数秒だっただろう。
結は、どこからともなく聞こえてきた鈴の音で意識を取り戻した。
上下が反転してしまっている車体の、ガラスが割れて窓としての機能がなくなってしまっている場所から外に出ると、車のエンジンから登る煙が結の顔に当たった。
頭を打ったのが原因だろう、脳に靄がかかったように思考が曖昧だ。
ふと、一緒に乗っていた三人の男のことが気にかかり、車の中を覗く。
「っ……は、」
瞬間、呼吸が荒くなる。三人ともかなりの出血のようだ──結がそう思った時、結の後に車に乗った男が呻いた。よく見ると、他の二人を含め、見た目ほどの怪我ではないらしい。
(ど、どうしよう。早く助けないと……)
しかし、逆さまになった車の中から男三人を引っ張り出すのは容易ではない。辺りに何の欠片かわからない瓦礫や割れたガラスが散乱しているとなると尚更だ。
(……瓦礫?)
そこで、周囲に意識を向けた時、違和感を感じた。ガラスはいい。車に付いていたものだと一目でわかる。
だが、この瓦礫は、何だ?
何故、車が民家などに衝突したわけでもないのに、木材や鉄筋が転がっている?
結の体温が若干下がる。恐怖もあるが、そうではない。
結の上に、巨大な影が落ちていた。
「お、ォ、コんニィは、そらァかクェイいぇスね。ミあげレまセンか、ぁカいネ」
ボロボロの作務衣、毛深く巨大な体躯、ニコニコと微笑む口元、二つの闇。黒ずんだ提灯。
事故を引き起こした原因が、結を見下ろしたいた。
上手く呼吸ができず、動くこともできないまま、じっと闇を見つめる。全身が震え出し、奥歯がガチガチと五月蝿く音を立てた。
「コ、ぉ、こレハあァぁアナぁノぇスカ、ェスね。あなァのソっぱパパぇすヨ、ぉウぞ」
暗い目が左右逆にくるくると動き、しかし常に結を見続けている。
それは言い終わると、「い、ぃ、イアぁ、イあ、ぁ」と発してしゃがみ込み、手に持っていた瓦礫をバラバラと足元に散らかした。
結が反射的に瓦礫を見た瞬間、先程とは別のモノのような素早さで“妖”が顔を上げ、結を凝視する。
咄嗟に妖の目を見てしまいそうになった結は──
「見上げるな!爪先から頭へ視線を送るんじゃない!喉を喰いちぎられるぞ!!」
ギリギリで爪先から目を逸らさず、身動きせずにいた。
(後ろにいた……ええと、最後の人!良かった!)
やはり、大怪我をしているというわけではなさそうだ。背後で人が動く気配がする。自力で車の下から脱出する程度の体力は残っていたのだろう。他二人も目を覚ましたらしく、車内から外へ出ようと慎重に身体の向きを入れ替える。
問題は結だ。絶体絶命、とはこのことを言うに違いない。
見越し入道──地域によって伝承は異なるが、“見上げてはならない”という一点は変わらない。「見越し入道見抜いた」「見越した」と唱えれば消え、唱えなければ喰いちぎられたり、また見越し入道に飛び越されると喉を締められるとも言われている。有名な妖怪だ。
だが、伝承はあくまで伝承である。真実もあるだろうが、無論そればかりではない。
「み、……見越、し、入道、見抜いた……」
これらの伝承の触りは、義務教育課程で指導される。だが、個体数が少なかったり、人里に姿を現さない妖怪については、当然のことながらその知識が通じるとは限らない。そもそも、伝承が間違っていることもあるのだ。
この見越し入道も、明治維新後に一度目撃され、数人の被害が出たという記録を最後に、存在が確認されていなかった。
「ミ、ぃ、ミコしァ、みヌイぁ、うウぅ、くルクルくる。アかィね」
だから、そんな都市伝説めいた呪言で、この妖怪が消えてくれるはずがなかった。
──死。
産まれて初めて、結は死を悟った。
恐怖で腰が抜け、その場にぺたりと座り込む。
最悪だ、と結は思った。
昨日が誕生日で、それだっていつも通りに過ごすはずだった。人に祝われることが苦手な質の結は、誕生日であっても一人でいるか、たまに気が向いた哀歌が遊びに来るくらいで。今年は両親もどこかへ行ってしまって、哀歌も忙しかったらしいので、久しぶりに一人の時間を楽しんでいた──それ、だけだったのだ。
なのに随分といい性格をしているカミサマとかいう奴は、人間としての蓮城 結を殺してしまった。誕生日は命日となり、また新たな誕生日となってしまった。
そしてその次の日に、また死ぬ。
(……ないで)
理不尽極まりないこの状況に、怒りが身体の中を渦巻いているのがわかる。それはコップの中の水に真っ赤な絵の具を垂らした時のように、ゆっくり、確実に精神を侵食していった。
異能者になったと思ったら呪いのようなものでその力を封じられ、拒否することも許されずに車に乗せられ、その結果巨大な妖に殺される。
(巫山戯ないでよ。私、私は、まだ──)
死にたくなんかない。
こんなわけのわからない、気持ち悪い木偶の坊なんかに殺されてやる必要性はない。
チリン、チリンと、鈴の音が聴こえる。
結は、まだフラつきながらもなんとか立ち上がり、拳を握ると、見越し入道の眼を睨んだ。
──そう、見越し入道の足元から、目線を頭に持っていったのだ。
「あ、見ましタねー」
結と目線が交わるのと同時に、見越し入道は彼女の首筋に喰らいついた。