生物としての義務とは何か 弐
憂果と雨女の戦闘から二日が経った。
記から暫くは安静にしているようにと言われている憂果を宿舎に残し、結、流韻の二人は戯の行方を追っていた。
しかし長い間姿を見せずにいた妖怪を探すというのは容易ではない。更に地理感覚のない東京で二手に分かれる訳にもいかず、結のエアフォンで地図を表示しながら通行人に情報提供を求めるという方法を余儀なくされているため、進展はないに等しかった。
流韻はガードレールを苛立たしげに蹴ると、左手の小指の爪を噛みながら道行く人を恨めしそうに睨んでいた。
「何処に……何処に隠れたクソ女…………!!あたしのお姉ちゃんにあんな怪我させといて逃げるとか、宇宙規模で滅殺してやるッ…………!!」
猛る怒りを隠そうともせずに、血眼になって雨女を探す。
だが、そもそも偶々東京に来ていたというだけで、今でもまだ都内にいるという確証はない。元より、数百年の間に山中の村などで数度それらしいモノを見たという曖昧な情報以外が存在しない。今回の事件で憂果が接触するまで、実在するかどうかすら怪しまれていたのだ。そう簡単に見つかる訳がない。
結はそんな流韻の様子に苦笑いを浮かべつつ、ふと街道沿いに立ち並ぶビルたちに目をやった。
(東に移動しただけで、同じ国の中なのに別の世界みたい……)
十七年間、一度も産まれ故郷の外に出たことのない結にとって、東京という土地はまさに異世界だった。比較的背の高い建物の少ない区域でこれなのだから、都心の高層ビル群を目にすれば言葉を失うくらいはするかもしれない。
勿論、ニュース番組などで映像として見たことはあるものの、実際に目にするのとではやはり全く違う。それ以前に、結は同年代の子供たちに比べ、テレビや漫画、ゲームや音楽といった文化にあまり興味がない。浮世離れしているといってもいいかもしれない。クラスの女子生徒たちが化粧や香水について話している中、結は何処を見るともなしに窓の外の景色を眺めているか、日本茶の雑誌を読んでいるくらいだ。
そういえばと、結は思い出したようにエアフォンの通話記録を開く。最新の二件は進展具合の報告の為にと新たに番号を登録した和子のもので、夜、隔世に戻る前に一日の報告をしたことを示している。
その下に表示されている山城哀歌の名前を見て、今頃何をしているだろうかと想像する。
哀歌も中々に浮いた存在だった。女である以上、高校生ともなれば衣服や化粧道具に金をかけるものだとクラスメートたちが話に花を咲かせている間、哀歌は白い紙のどこにどういう色を置き、どういう表現をするかと頭を悩ませる。休日に家に尋ねて行っても顔や手などを絵の具で彩り、ともすればそのまま外出をするのではないかとさえ思う。
(えっと、今日は日曜だから……うん、いつも通り部屋にいるかな)
コールしてみようか、とエアディスプレイを操作しようとした時、背後で流韻が声を上げた。
「あ~、お腹空いた。お腹が空いた。昨日も一昨日もお姉ちゃんと別々でお昼を食べている。…………あーっ、もう!精神的にもお腹が空いたーっ!!」
街路樹の一つに凭れ掛かりながら空腹を訴える猫耳の少女。しかし精神的空腹とは、何とも向上心溢れる言葉だ。無論、流韻はそんなつもりで口にしたわけではないだろうが。
十五歳にしては騒がしい流韻を見て周囲を見回した結は、近くに定食屋があるのを見つけて指をさした。
「…………もう一時だし、休憩してご飯でも食べ――」
「あ゛?」
「――…………る人も、多い。かもね」
あの一件以降、前にも増して当たりが強くなった流韻が、勝手に話しかけるなとばかりに殺意を込めた目で睨みつける。内心、流韻が自分からやったのにと理不尽な先輩に愚痴を零す。
しかし昼食を摂ることには賛成だったようで、流韻は先程結が見つけた定食屋――の三軒先にある、力強い筆文字で『頑祖 アブラ祭り』と刺繍の入った暖簾のラーメン屋に入っていった。
取り残されつつも「うわーあれ絶対体に悪いなーってか何で新人置いて行っちゃうのかなー」と途方に暮れ、暫く迷った末に定食屋の暖簾を潜った。
店内はテーブル席が二つとカウンター席が四つという、外観を裏切らない広さだった。奥のテーブル席に一組いる他には、カウンターに獣人らしき男が二人座っているだけで、時間的なこともあり店内は空いているようだ。
さて、どの席にしようかと奥のテーブルに視線を向けた時、そこに座る(?)無表情の少女と目が合った。
店内にいても帽子は被ったままなのかと暫し互いに固まっていると、靈歸の正面に座っていた人物が長椅子の背凭れから顔を出した。
「やや、そこにいるのは新人君!奇遇だね!靈歸の隣が空いているから、良ければ一緒にどうだい?」
幸に手招きされるままに近づくと、靈歸が食事を乗せたお盆と共に奥へ移動した。礼を言って隣に座り、メニューに目を通す。塩鯖定食を注文して横目で靈歸を見た結は、積み上げられた丼に視線を移して「色んな意味でどこに入ってるんだろう」と疑問に思った。
結以外の三人は幸を除いて既に食べ終えているらしく、靈歸は水の入ったコップを傾けながら正面に座る小さな子供と――
「あれ?その子は?」
幸の隣に座る、白と赤の狩衣の様な服を着た髪の長い少女。初めて見る顔だが、随分と幼い。考え事をしているのか眠っているのか、目は閉じられている。
何かの依頼で預かっているのだろうかと少女の顔を眺める結の視線に気づいたのか、目を瞑ったまま体の向きを少し変えて小さく礼をした。
「お初にお目にかかります、蓮城結様。わたくしは座敷童、添麻と申します。此方のお二人と同じ妖課・せ号隊に所属する、超常廳の一員です。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
軽く口角を上げて静かに微笑む。外見年齢からは想像できない程に丁寧な自己紹介を受け、結も慌てて頭を下げた。
(そういえば、前にせ号隊は三人……って言ってた気がする)
宿舎に案内された時のことを思い出す結。結が加わり、三人になったす号隊に対して、幸が「これでせ号と同じだ」というようなことを憂果に言っていた。あの時は添麻の姿はなかったが、何か用事があったのだろう。
座敷童に幽霊に烏天狗。奇妙ともとれる珍しい組み合わせだが、そこである疑問が浮かんだ。
「あの、幸さん」
「呼び捨てでいいよ。敬称を付けられるのは慣れてなくてね」
「はぁ。……幸は、烏天狗だって言ってたけど…………」
「そんな妖怪、聞いたことがない?」
幸が水を飲み干し、添麻がピッチャーでつぎ足す。結は少し迷ってから頷いて続けた。
「天狗は京都とかに多いらしいし、あまり人里には降りてこないけど山奥とかには結構いるって聞いた。でも私が知ってる天狗は、羽なんか生えてない。鳥の羽があるのは鳥人だけじゃないの?」
結の言った鳥人というのは“亜人”に属している。人間と鳥が混ざったような外見が特徴だ。
日本で言う妖怪とは、まず大きく“妖”と“亜人”に分けられる。亜人は総じて人間に近い外見をしているが、その中で更に“亜人”と“異人”とに分類される。亜人には鳥人の他に、古くは“獣憑き”と呼ばれた獣人、人魚伝説のもとになった魚人、“妖怪”として最も多く退治されてきたであろう蟲人などがいる。
亜人に対して異人は、外見自体は人間と変わらない。獣人には獣の耳と尾、鳥人には鳥の羽があるが、異人に属するモノには普段はそういった特徴がない。加えて、異人という一つの枠組みで見てみても、その数は亜人の半数にも満たない。
天狗は妖に属する。近代では霊に近い種族とされている。山で死んだ人間が鬼と化して天狗と成るなどと言われているが、天狗は自らの産まれを語ることは禁じられているらしく、生態には謎が多い。
ただ一つわかっているのは、天狗に翼が生えている、というのは中世以降に生まれた迷信であり、実際の天狗には鳥の翼はないということだ。
つまり、伝承や物語の中だけならともかく、現実に烏天狗などという妖怪は存在しない。
幸が何を思って、何を目的として自らを偽っているのかは定かではない。そうしなければならない理由があるのかもしれない。少なくとも結には、彼女が他を欺き悦に浸るような女性には見えない。
だがそれとこれとは話が別だ。
先日の憂果の怪我を見て、自分が『死ぬ仕事』に就かされたのだと、朧気ながら理解した。受け入れた訳ではないが、目の前でヒトが死んでも何も感じない程化け物になった覚えもない。
だから結は、獣人の姉妹を信じることにした。俗物的だとは思うが、死にかけてまで何かを成そうとする姉と、その姉を信じて疑わない妹を、信じることに決めた。その二人のすぐ近くに、素性の知れないどころか偽りを述べるモノがいるのであれば――警戒をするべきだ。
(ふふ……本当に面白いな、す号隊というのは)
結が後天的に人外となった異能者であることは、この数日で幸も聞いた。平穏な暮らしをしていたのだから、もっと悲嘆に暮れるとか自暴自棄に陥るとかを想像していたのだが――思ったより肝の据わった少女だと評価を改める。
幸は微笑むと、結の瞳の奥を見つめた。
「……うん、確かに、私も正確には烏天狗ではないよ。ちょっとした事情でその名を体現してしまっているというだけだからね」
「体現?」
「そう。詳しくはまだ話せないけれど、これは産まれついてのモノじゃない、ということさ」
つまりは、結の様に後天的な人外だということだろうか。そう疑問を口にした時、幸が頭を振った。
「いや、私は生来の妖怪だよ。……これ以上は、今は言えない。続きは君がもう少し強くなってから、でいいかな?」
私にもやらなければならないことがあるから――そう言って一息でコップを空にする。
それが何を指しているのかはわからないが、一つだけ明確にしておかなければならないことがあった。
少し身を乗り出し、結は問う。
「…………それは、憂果や流韻を利用してすること?」
予想通り――否、期待通りの質問が返ってきて、本当にあの二人は性格のわりにヒトに好かれる質だな、と内心微笑む。出会って数日の、この一見地味で引っ込み思案な少女ですら、もう二人の身を案じ始めている。
「それはない。二人は私にとっても友人だし、無論君ともそうありたいと思っている。…………まあ、協力してくれるというなら、有り難く力を借りるつもりではいるけど……。それも今すぐということでもないし、無理強いはしたくないからね」
首から上を横に振り、はっきりとした声音で告げる。
そして、会話が途切れるのを待っていたかのように、結の注文した料理が運ばれてくる。お盆ごと結の前に置かれると、幸が手を組んで体を伸ばしながら笑った。
「まあ、重い雰囲気はここまでにしよう。私は明るい方が好きなんだ。…………にしても、君は和食が好きなんだね。若いのに珍しい。流韻なんて、一人だと重くて高くて体に悪そうなものばかり食べるから」
塩鯖定食を見た幸が、何故か関心したような口調で話し始める。そういえばと、先程流韻がこってりしてそうなラーメン屋に入っていったのを思い出し、何かが引っかかって幸に訊き返す。
「いや、私が若いって、幸もそんなに変わらないように見えるけど」
幸、靈歸、添麻が一斉に首を傾げる。幸が隣の添麻に「あれ、言ってなかったっけ?」と質問し、添麻が「わたくしは結様とは初対面ですよ」と返す。
幸に年齢の話はしてはならないのかと話題を変えようとした時、隣に座る靈歸が結の服の裾を軽く引っ張った。
「?どうかした?」
「幸。は。……今年、で、四十九」
ミユキハコトシデヨンジュウキュウ…………たっぷり三分間、その言葉の意味を考えた結は、飲食店だということも忘れて盛大に驚いた。