無能と落ちこぼれ 玖
「ッ……!!」
先程とは別人の様な鋭さに、雨女は驚愕する。
今の今まで数メートル先で立っていた筈の憂果の身体は僅か数十センチの距離にある。全身を纏う金色の焔は尚も猛り、まるで荒ぶる竜を体現しているかに思えた。
ようやく――この瞬間になってようやく、雨を呼ぶというこの妖怪は理解した。先程自身の放った、「限界まで手を抜いた」という言葉――それは、疑う余地のない程に狐の娘の方だったのだ。
妖狐では精々人間を殺す程度の狐火しか出せないだろう、と高を括っていた。そしてその程度の炎であれば、自分の敵にはなりえない――そう思っていたのだが。
慢心し、油断をしていたのは雨女の方だった。
(マズい……!直接喰らえば確実に死ぬ!!この娘……ただの妖狐か、或いは獣憑きの一族だと思っていたが……………。なんじゃこいつは!?)
自分の力ではこの劫火を消すことはできない。この焔は、海の底であろうと輝きを失わないのではないかと、そう錯覚させる程のものだった。
最初の一撃を防いだ方法では止められない。
刹那の思考。そして最善と思われる回答を導き出す。
――止められないならば、いなしてしまえばいい。
雨女は大量の雨粒で瞬時に全身を濡らし、同時に降雨量を最大まで増幅させる。当然憂果には届かないが、そもそも攻撃を前提としたものではない。
憂果の脚が迫る。
僅かに反応して、腕で側頭部を守る。
そして、憂果の蹴りが当たった瞬間――雨女は、真横に盛大に吹き飛んだ。
「…………?」
憂果は追撃をせず、横薙ぎになった雨を無表情のまま見やる。
確かに蹴り抜いた。手応えもあった。事実、雨女はアスファルトに転がっている。
ふと考えるような素振りを見せた憂果は、数秒の後に違和感の正体に気付いた。
――つまり、この女は憂果の攻撃で飛ばされたのではなく、自分で跳んだのだ。
「……雨を操れるのね。最初の一撃は、雨を集めたカーテンのようなもので防いだのかしら?私のこの妙な傷は、雨を弾丸のように降らしたものね。威力を抑えたのは警告のつもりかしら?それを最大威力で、自分自身に一気に叩きつけ――その衝撃で、蹴りの威力を殺そうとした。急に全身を濡らしたのは気になるけど……」
纏っていた焔を収めて雨女に近づく。
衝撃を殺そうとしたと言った理由は明白だ。雨女の右腕は無残に焼け爛れ、一向に起き上がる気配がない。どう見ても、威力を殺せている様には見えなかった。
手を伸ばして掴もうとした時、腰のあたりに弱々しい衝撃を感じた。
見ると、そこには黄色い雨合羽を着た幼い少女――幸子がいて、全身を震わせながら憂果の身体を精一杯の力で押していた。
「何……?そんなに怖かったの?」
余程、雨女に連れ去られたのが怖かったのだろうか。しかしそれにしては様子がおかしい。必死で憂果をどかそうとしているように見えるこの少女は、寧ろ雨女から離れろと言わんばかりだ。
気が動転しているのだろう。何はともあれ、今回の依頼はこれにて解決。早く親子の再開をさせてあげよう、と憂果が幸子に手を伸ばす――
「……その、手をッ………今すぐ引っ込めろ小娘ぇぇええぇぇぇッッッ!!」
「ッ!?」
憤怒の形相で身を起こした雨女が幸子を抱き寄せ、先程憂果の攻撃を凌いだ銃弾の様な大量の雨粒を、今度は憂果に叩き込む。
すぐ傍に幸子がいたことで反応が遅れ、金の劫火を纏う訳にもいかず、辛うじて生み出した炎で頭と胸部を防御する。しかし地に伏せていた時とは桁違いの威力に耐え切れず、至る所に傷を負い、鮮血を散らして民家の塀に背を打ち付ける。
「ぐ……ぁ、痛っ、ぅ……………!」
膝から崩れ落ちた憂果はそのまま頭だけを動かして、雨女と幸子を視界に捉えた。その顔は苦痛を押し殺す為に奇妙に歪み、小さく愛らしい唇の隙間からは荒い息が漏れている。
油断はしてはならない。眼前の敵に、僅か数分前に忠告されたにも関わらず、愚かにも反撃を許してしまった。
最近の己の醜態を脳裏に浮かばせながら拳を握った憂果は、立ち上がろうと全身に力を入れ、しかし左半身が言うことを聞かずに無様に倒れ込む。
雨女が焼け爛れた右手と憂果を交互に睨み、やがて幸子に視線を送って優しくその頭を撫でた。
「…………小娘。貴様は何か思い違いをしておるようじゃが、儂はこの子を取って食うつもりなどない。儂を人攫いの様に思っておるのだろうが、その逆じゃ。貴様らともできれば争いたくはない。儂はただ、静かに、不憫な子供が少しでも安らかに生きて往ける様にしたいだけじゃ」
子を成したことのない貴様にはわからぬだろうがな……と、消え入りそうな声音で発する。
幸子が何かを言いたげに口を開きかけたのを左手で制し、優しく微笑んで幸子の小さな体を抱き上げた。
「すまぬな、もう少しだけ辛抱してくれ。すぐに帰って、風呂に入って…………そしたら夕餉の支度をするからの」
愛おしそうに頬を撫で、一転して鋭い眼つきを憂果に送り、目の前を通り抜ける。
だがそれを、雨音で消えてしまいそうな程の声量で、しかし今ある全ての力を注いで、
「不、憫……?貴女、さっき不憫と言ったのかしら…………?」
立つことすらできず、アスファルトを赤黒く染めながら、僅かに怒りの籠った言葉を雨女の背に投げつけた。
いくら頑丈な獣人種であるとはいえ、全身に銃弾と同等の破壊力を秘めた雨を喰らえばただでは済まない。場所が悪ければ死んでいただろう。紙一重で致命的な個所は全て避けたものの、気を失っていてもおかしくない程の激痛が全身を襲っている筈だ。
だがその状態で、明らかに動いてはならない身体で、塀に凭れ掛かって言葉を紡ぐ。
「貴女、は…………その子の親じゃ、ない、でしょう。それ、を……………黙って、聞い……てれば、勝手なことをッ………!貴女が勝手に不憫と決めた、ことで…………、壊れるものも……壊れるものが、ある、のに……!」
右手に炎を生み出す。だがその炎は弱々しく、雨に打たれる度に頼りなく左右に揺れ動いてしまう。憂果に戦うだけの力が残されていないことは、説明するまでもなく明らかだった。
互いに睨み合い、いつしか数分が経過していた。
戦闘続行の意思表示と取った雨女はしかし、踵を返して雨の中に消えていった。
「…………親ではない、か。親によって壊されてしまうものも、あるのだがな」
去り際に、自嘲を含んだ言葉を残して。