無能と落ちこぼれ 肆
宿舎の入り口に面したバー風の空間──靈歸曰く談話室は、超常事件の被害を受けた者やその親族、知人などが直接依頼をもって来た際の窓口兼相談室でもあるらしく、これはす号、せ号が共同で使用しているらしい。いつ来客があってもいいようにと隅々まで掃除がされていて、結はそれに軽く宿舎の定義を壊されながら玄関を潜った。
「入って右側が私たちせ号の棟、左がす号だよ」
あちこちに視線を動かしている結に、幸が間取りを教える。
談話室の壁の丁度裏側に中庭、それを挟む形で廊下があり、それは奥で繋がっている。風呂はその真下で共同、トイレは各棟の一階に設けられているらしい。一階の奥はどちらともリビング、キッチンとなっているらしく、食事などはここで各自適当に用意する。その他一つずつ部屋があるらしいが、す号もせ号もそこは空室になっているという。
個室は奥の廊下の脇の階段を上って二階、各棟に三部屋ずつあり、荷物の持ち込みは部屋に入る程度までなら自由らしい。
間取りを聞いただけでもかなりの広さだということがわかる。中庭まであるとは、必要性はともかくかなりの待遇だ。
「今す号のモノを呼んでくるよ、適当に待っていてくれ」
幸が左側の棟に消えると、結と靈歸の間に沈黙が流れた。二人共無口な方なので、それを苦痛と感じることはないが、結は霊を見るのは靈歸で三人目だ。それなりの居心地の悪さというか、慣れない感覚があるのだろう。若干緊張していえうのがわかる。因みに、前の二人は道で擦れ違っただけである。
霊はその数こそ多いといわれているものの、実際外を歩いてみると殆ど出会うことはない。妖怪の中には当然人を好まない種族もあるが、それでも街で姿を見ることもあれば、普通に労働もしている。対して霊は、人間が死後なんらかの理由により妖化したモノと言われているのが原因か、人間との関わりをもとうとしない。
結がどこを見るともなく窓の外の景色を眺めていると、カウンターから何かを啜る音が聞こえてきた。そちらに目をやると、靈歸が白いカップにコーヒを淹れて飲んでいて、心なしか表情が柔らかくなったように見えた。
(コーヒー飲むんだ……)
幽霊は無実体の妖だが、同時に半実体であるとも言える。物理的な接触は意識的に遮断可能、しかし触れたいと思ったものには自由に触れることができる。霊──いや、妖怪の身体を構成する物質に生物が必要としている栄養素がどれ程の意味をもつのかはまだ解明されていないが、飲食をすることも可能だ。
しかし、“幽霊”がコーヒーを飲んでいる、という状況を始めて目にした結は、そのシュールな光景に苦笑いを浮かべた。
結の視線に気づいた靈歸は、手に持つカップと結の顔を交互に見やり、小首を傾げると、
「飲……む?」
カップを持った手を軽く結の方に差し出した。
「ええと、気持ちは嬉しいけど。私、コーヒー飲めないんだ」
──瞬間。明らかに靈歸の表情が凍りついた。
感情が表に出にくいのだろうが、これはかなりわかりやすい表情の変化だった。いや、実際に目に見えて顔に出ているという訳ではなく、空気が変わった、と言った方が正しいかもしれない。というより寒い。凍りついたのは靈歸の表情ではなく結の肝なのではなかろうか。
数十年前まで言われていた地縛霊や怨霊だとかいうモノを題材にした映画は数多くあるし、現在でも作られている。それらが出現する場面になると何故か役者が寒がるような演技をしているが、それは単なる想像ではなかったのか。井戸から這い上がってきたり階段をブリッジで駆け下りてきたりするアレらも、現実に存在したらやはりこんな風に、効きすぎた真夏の冷房のような何かを出したりするのだろうか。
本能的に危機を感じた結は両手を左右に振り、慌てて発言の補完をする。
「いや、不味いという訳ではなくてですね!?こう、基本甘党な私にはまだその味を理解することができないと言いますか!寧ろ私なんかのように半端な気持ちで飲むのも失礼に当たるのではと考えた次第でありましてってああ私何変なこと言ってるの!?」
キャラ崩壊、というやつだろう。普段の彼女からは想像もできない程圧倒的なキャラ崩壊。生物としての結の本能が、靈歸という脅威から逃れようと必死に脳内で信号を送り、結果よくわからないことを口走って終わりという今の状況。生物とはいつの時代も摩訶不思議なモノである。
しかし靈歸は別段怒っているという訳ではないらしい。コーヒーを飲み干し、結の隣に浮かぶと、表情を覗き込むようにして言った。
「コーヒーが、苦手……という、のは。よく聞くこと。……結は、普段何を、飲む。の?」
「私?私はお茶ばっかりかな。紅茶じゃなくて緑茶。抹茶も好きだけど、急須で淹れる方がいいんだよね」
家でも外でも、結はほぼお茶しか飲まない。甘党の結は苦い物、辛い物などが駄目であり、刺激のある炭酸も飲めない。いちごオレだとか抹茶オレだとか、そういった物ならば飲むこともできるが、やはり慣れているお茶が一番だ、と年寄りのようなことを言っている。
因みに、甘党といっても和菓子がメインである。
「じゃあ、ここ、では……暫く飲めない。ね」
こんな和な雰囲気全開な所だが、コーヒーはあってもお茶はないのか。若干肩を落とす結だが、そういえばとあることを思い出す。
「確か、こんなこともあろうかと、買ってきた茶葉をここに──ここ、に……あれ?」
周囲を見回すが、どこにも自分のボストンバッグが見当たらない。二、三回「あれ?」を繰り返し、その場で回る。あの中には着替えもあるし、結が何よりも大切にしていた“日本人ならお茶を飲みなさい”という題の雑誌の特集号も入っている。発行部数が少ない上に地域限定発売で、読者層に偏りがある故に販売している店が殆どないというマイナーな雑誌で、結はこれを手に入れるために電車を乗り継ぎ、長い時間をかけて買いに行ったのだ。
どこでバッグを落としたのかと記憶を辿ると、そもそも隔世で目覚めた時には既に手元になかったことを思い出した。ではその前にどこかに置き忘れたかどうかしたのだろうと更に思い出すと、記憶が途切れている部分──見越し入道に遭遇した時ではないかと思い至った。
見越し入道がどうなったかは記から聞いたが、流石にバッグの行方などわかるはずもない。
「ああ……ああ、静岡まで……行った、のに……」
その場に膝から崩れ落ちる結。十七の少女にしては随分と変わった趣味をしているが、本当にそれが好きだったのだろう。靈歸に慰められても一向に動く気配がない。
「……──がね、なかなか面白そうなんだ。靈歸が言っていたから気にはなっていたんだけどね。いやあ、しかしついにす号も三人!せ号と同じだね!……っと、どうしたんだい?」
床に崩れ落ちて割と本気で泣いている結を見て、幸が慌てて駆け寄る。靈歸から話を聞いた幸は、大きく笑って結の背に手を置いた。
「多分だけどね、紛失届を出せば戻ってくるんじゃないかな。私も昔、このお面を落としてしまったことがあってね、届出書いて待っていたら戻ってきたんだ」
だから心配ないよ!と親指を立てる幸。それでも戻ってくるかどうかはわからないのだから、不安であることには変わらないが、例のごとく勢いに押されて成る程と納得してしまった。
服も財布もなくしてしまった結は、脇に手を入れられて幸に立たされた。半ば涙目になりながら彼女の後ろを見た時、す号隊の隊員二人──白髪の獣人と目が合った。