07 スクーターという乗り物のこと
スクーターと私のバイクの原点について書いてみました。
バイクと言われてヒトがイメージする形は様々だ。
それはサーキットを走るレーサーかもしれないし、道無き野山を駆け回るオフローダーかもしれない。地平線まで真っ直ぐ続くハイウェイをひた走るアメリカンクルーザーかもしれないし、郵便配達員の操る赤いスーパーカブかもしれない。それとも、もしかしたらピザを届ける大きな箱を付けた3輪スクーターだろうか?
一言バイクといっても簡単にこれほどの形が思い浮かぶ。
アナタのイメージしたバイクはどんな形をしていただろう?
バイクに対する思いがヒトそれぞれであるように、そのイメージもそれぞれ違って良いと思う。
そして、乗ってみたいと思えるバイクも…
私が今の相棒であるカワサキ・スーパーシェルパに出会ったのは以前に記した通りであるが、それよりももっと遡り、私が初めて自分で運転したバイクがある。
それが50ccの原付スクーター、ヤマハ・パッソルだった。
今から20年は遡る。
今と違って訳の分からない元気と若さがいっぱいだったあの頃、毎日のように通うアルバイト先までのアシに不便さを感じていた私は、親戚の家の物置から、オジサンが使わなくなった古いスクーターを貰い受けることになった。
物置にはオジサンのGSX-R1100がドーンと置かれていて、それを横目にスクーターを押して外に出る。
その時点で、そのパッソルはだいぶくたびれていた。
しかしホコリだらけのくせに、キックを2回も蹴ると簡単にエンジンが動き出す。
「遅いけど、便利だから」
とオジサンに言われ、ありがとうと礼を返して家まで乗って帰った。
それほど鮮烈な記憶があるわけではない。
オジサンの言ったとおり、当時ですら古臭さを感じる形のパッソルは確かに遅かったし、カッコ良くもなかった。
ただ、普段のアシが自転車だった私の行動範囲は格段に広がった。
当時すでにクルマの免許を持っていたため、どちらかといえばクルマを使いたかったのだが、1人1台のクルマが必要になるような田舎の我が故郷では、使いたい時にいつでも家族のクルマが借りられる訳もなかった。
かといって自分専用のクルマは学生には厳しい。
すると必然的にパッソルの出番となる。
当時のDioやJOGのようなスクーターというよりも、さらに一世代前の、オバチャンのお買い物バイクというスタイルのパッソル。
前カゴとリアキャリアに白と黄緑の車体。
今見れば味があると思えるだろうが、若かった当時は古臭いとしか思わなかった。
何の整備をしなくとも当たり前のように走り、週6日のアルバイトにも忠実なアシとして私を運んでくれる。
いま考えればもったいないことをしたなと思う。
あの頃もっとパッソルで出かけていればよかった。
しばらくして、祖父があまりクルマに乗らなくなり、お下がり的に私がそのクルマを使うことが増え、パッソルはいつの間にか乗らなくなり、気が付けば我が家の物置からも消えていた。
母に聞くと、誰も乗らないから処分したという。
もったいないことをした。
いま思えば、アレはとても良いバイクだった。
あのバイクと出会ったから、今またこうしてバイクに乗る私がいるのだと思う。
昨年の夏の終わりに、バイク屋の奥でやはりホコリを被っていたスズキのアドレス110という2サイクルのスクーターを安く手に入れた。
よくよくホコリを被ったバイクばかりを引き取る私だが、アドレスに乗る度にあの頃に乗ったパッソルを思い出す。
性能は50ccと110ccでまるで違うし、スピードもアドレスはパンチのある加速で楽しいバイクだ。
ただ、そこに感じる空気というか、受ける印象が近いモノを感じさせる。
良い例え方が浮かばないが、パッソルやアドレスには、主に従順な飼い犬に感じるのと近い気持ちを持つ。対し、スーパーシェルパは馬だろうか。
スーパーシェルパは一緒に走る感覚になるのだが、スクーターはリードを持って散歩をするような感覚になる。
もちろん、感じ方は様々なので、これは私だけのイメージかもしれない。
でも、それで良いと思う。
シェルパもアドレスも、もちろんパッソルもちゃんとバイクだ。
楽しさは違うかもしれないが、みんな与えてくれるものは等しく有る。
いろんなバイクに乗ってみたい。
スクーターだからって嫌ってしまうのはもったいない。
きっと、そこからまた新しい世界がを広がっていくだろうから。
そして、シェルパやアドレスやパッソルや、今まで乗ったバイクをもっと好きになれると思うから。
スクーターって手軽で便利で、ちょっと物足りなく感じる部分もあるけど、一台は持っておきたくなっちゃうんですよね。
うちのアドレス110も大活躍中です。