31 スタンディング・スティル
スタンディング・スティルはオートバイトライアルの技術です。
止まったバイクの上で地面に足をつくことなくバランスをとります。
言葉ではたいしたことないように感じますが、やってみると難しいものです。
今回はこの技術を練習するようになったきっかけのお話しです
魔法使いを見た。
巨大な岩が階段状に連なる斜面を駆け上り、窮屈な足場の上で軽やかに飛び、地面に足を着くこともなく時間が止まったかのようにその場に静止する。
そこにいたのは魔法の箒に乗った魔女ではない。
バイクに乗ったライダーだ。
オートバイトライアル。
私が見たのは世界選手権の映像の一部でしかないが、それでも充分に衝撃的だった。
「なんだ…あの動きは…」
思わず呟いた。
もはやそれは私の知るバイクの動きではなかった。
彼らの乗るトライアルバイクは、普段我々が乗っているそれとは異質のものだ。
必要最低限の装備しかなく、腰を下ろすシートすら付いていない。
空気圧の低く設定されたタイヤはパンクでもしているかのように地面に平たく接地し、チェンジペダルはステップから離れた位置に付けられている。
ライダーはその異形のバイクに跨り…‥いや、腰を下ろさないのでステップの上に立ち、かたわらでコース攻略の指示を出すパートナーの声に耳を傾ける。
ハンドルを切り、単気筒のエンジンがトットットットッと鼓動する中、地面に足を下ろすこともなく、その場でバイクを静止させている。
顔を上げた視線の先には2m近い大岩が、行く手を阻むように階段状に2つ、冷たく硬い岩肌を見せている。
ライダーがアクセルを何度か軽く開きながら集中を高めていく。
パートナーが大岩の手前でコースを示し、ライダーが頷いてハンドルを進行方向に向けた。
単気筒エンジンが回転数を上げ、バイクが歩くような速度で進み始める。
ライダーが軽く前方に体を傾けたかと思った次の瞬間、バイクのフロントタイヤが高々と鎌首をもたげ、エンジン音が一気に高まる。
後輪一つで大地を蹴って、トライアルバイクは文字通り一つ目の大岩に噛み付いた。
リフトした前輪を岩の角にかけたかと思うと、後輪がその下の垂直に近い表面に牙を剥く。
マフラーが咆哮をあげ、柔らかなタイヤが岩肌を蹴りたてる。
急にコマ送りになったかのような一瞬の静止をおいて、バイクが岩の上に駆け上がった。
止まらない。
その勢いのまま、階段の上段…‥2つ目の大岩に向けて前輪を掲げる。
跳んだ。
岩の上部にタイヤが喰らいつく。
次の瞬間、バイクはライダーごと大岩の上に躍り上がっていた。
掲げた前輪が天を突くように空中を走る。
後輪があげる土煙が、バイクが通った魔法のような軌道を浮き上がらせた。
見上げるような高さ、角度。
こんなところをバイクで登ったのか…‥。
驚愕と感動。
観客の歓声が上がった。
オートバイトライアルは、高低差や傾斜が複雑に設定されたコースを、いかに地面に足を着くことなく走り抜けるかを競うものだ。
バイク競技でありながら、スピードよりも減点法による技術点で順位を決するその競技は、バイクが持つ可能性を改めて私に魅せつけた。
その頃の私は、バイクにとってスピードこそ大きな魅力だと思っていた。
バイクに跨りアクセルを開く時、視界の端に向かって世界は加速し、ライダーの意識は前方に向けて研ぎ澄まされていく。
バイクがライダーとの一体感を増し、ライダーだけが知る世界が訪れる。
それは堪らなく魅力的な瞬間なのだ。
しかし、オートバイトライアルはそのスピードを二の次にし、バイクを操る楽しさを極限まで突き詰め、その技術を競う。
単気筒のエンジンが鼓動を打ち、ブロックパターンのタイヤがステップを刻み、マフラーが咆哮をあげて、車体が空中に跳び上がる。
あの躍動感。
まるでバイクという機械を生き物に変える魔法をかけたかのようだ。
純粋に、憧れる。
私はサーキットでアスファルトに膝を擦りながら限界まで加速することも、あの大岩を駆け上ることも出来ない。
でもバイクを操る楽しさの一端程度は知っているつもりだ。
それなら、あの魔法のような技術も、遥か彼方とはいえ、同じ道の先にきっとあると思いたい。
私には辿り着けないであろう技術の『頂』。
私はきっと、その大きな山の裾野でウロウロする程度のことしか出来ないだろう。
それでも構わない。
『頂』を目にしたからこそ、山を目指す道にハンドルを向けたのだ。
今日も私は、人のいない駐車場の隅、歩くような低速でバイクに小さな円を描かせる。
徐々にスピードを削り、バイクのステップに立ってあの魔法の静止状態を目指す。
上手くはいかない。
バランスを崩して3秒ともたずに片足を地面につく。
あの静止状態…‥スタンディング・スティルという技術だそうだ…‥が出来るようになるまでにどのくらいの時間がかかるか想像もつかないが、続けている限りいつか辿り着けると信じよう。
私は懲りずにステップの上に立つ。
あの魔法使い達の姿を頭の中に描いて。
トライアルやエクストリームのライダー達は文字通り魔法使いのようです。
ワタシがやってもスタンディング・スティルですら3秒がいいところ。
高等技術ですね




