ニーレンベルギア
大事な髪をばっさりきって、ずぶぬれで俺のところにやってきたのは、友人の溺愛する妹・雪村紫苑。
「……とりあえず、風呂使えよ」
「うん……」
「紫苑……なんで髪切った」
うつむいた彼女はもういらないからと行って風呂場に入って行った。俺は兄である篤孝に電話を入れた。
『お前のところだったんだね』
「何があった?」
『わからないんだ。いつもの時間に帰ってこないから、携帯に電話したらさ。今日は帰らないっていったきり電話通じなくなって……紫苑の友達にも電話しまくったんだけど、どこにもいなくてさ』
篤孝は深いため息をついた。彼にとって紫苑は目に入れても痛くないほど溺愛している妹だ。
『とにかく、今から迎えにいくよ。迷惑かけて悪かったな。ヒロ』
「別に迷惑じゃないさ。それより、迎えに来るなら明日にしてやれないか?」
『だけど……』
「お前には話せないことで悩んでるみたいだし、俺がとりあえず、事情きいてみるよ。紫苑だって受験やなんやでいろいろまいってるんじゃないか?お前に相談するのは簡単だけど、自分で解決したいことだってあるだろう?」
『自分でって……紫苑はまだ子供だぞ』
「お前、女子高生侮りすぎだ。そろそろ、妹離れしてやれよ」
じゃないと残酷すぎるとは言えない。
篤孝は少し考えてからわかったと言った。
『紫苑に手を出すなよ』
「ひっでぇなぁ……友達の妹に手出しするほど、飢えてないぞ。俺は」
『……悪かった。紫苑のことになるとどうしてもなぁ』
「お前さ。紫苑に彼氏とかできたらどうすんの?」
『すっげぇ嫌』
「そんなこと言ってたら、あいつ嫁にもいけなくなるぞ。ほんとにその辺、そろそろ寛大になれよ」
『……努力はするよ。じゃあ、明日迎えにいく」
「ああ、そうしてやれ。じゃあなぁ」
受話器を置くとどっと疲れた。紫苑が篤孝の大事にしている自分の髪を切ったってことは、篤孝がらみの何かがあったのだろう。
「新しい恋人でもできたかな……」
それにしても、今までだって篤孝が彼女を作らなかったわけじゃないし、紫苑はそれをたいして気にするほどでもなかった。
『たぶん、ひと月ももたないわよ』
確かにそれは当たっていた。妹の自慢ばかりする篤孝に、たいていの女は辟易するのだから。それでも、今回の紫苑の荒れようは尋常じゃない。
俺自身は大学院に進んだ今、篤孝とは今までより距離ができているから、新しい彼女ができていても、わからない。篤孝は高校卒業後、俺の通う大学の近くで美容学校に通っていた。今は、一人前の美容師としてしっかり仕事をしている。彼女が変わるたびに、俺に今度こそ長続きさせてみせるといつも言っていたけれど。
(最近はそういう話をする機会がなかったな)
俺はTシャツとパーカーとハーフパンツを用意して、脱衣所に入った。
「紫苑、着替えとタオル置いとくぞ」
一言声をかけて、彼女の濡れた服を洗濯機に放り込む。
(ああ、下着の替えがないな……)
とりあえず、買い置きしてあったボクサーパンツを置いておいた。
「それで……何があった?」
俺は風呂上がりの紫苑の髪を拭いてやりながら、話を切り出す。
「兄貴に彼女ができた」
「いつものことだろ?違うのか?」
「……たぶん、結婚する」
俺の手が止まった。
(結婚……)
当たり前の単語が俺の胸を突き刺す。
「け、結婚なんてまだ先の話だろう?」
「うん、でも、あの人はそういう相手だよ」
「……会ったのか?」
「昨日、紹介された。あの兄貴が今付き合ってる人だって……うれしそうに……言ってた」
「そんなのいつものことだろう?」
「違うよ。今までは、もっと軽い口調で彼女だよって言ってたし、見てればわかる。すごく大事にしてるの……それに……」
紫苑の声がかすれていく。泣いてる。声を殺して……。今度の相手は、篤孝にとって紫苑より大事ってことか。
「紫苑、声殺すなよ。どうせ、俺しか聞いてない」
「ヒロは平気なの?もう、兄貴に未練はない……」
「お前なぁ……篤孝に手をだしたら殺すって言ったのは誰だよ」
平気なはずがない。ただ、俺は親友であることを選んだ。自分の欲望で彼を手に入れたいと思ったこともあったけど、そんなときは、決まって紫苑が俺のブレーキになった。
同性愛など今の世の中じゃあ、そうたいした話じゃないが、紫苑の場合は、血のつながった兄への許されない恋だ。その上、篤孝は紫苑の気持ちも知らずに溺愛する。俺は理性を保つだけの距離を取ることができても、紫苑は愛される妹を演じ続けなければいけないのだ。
「あたし……家をでる……県外受験して、独り暮らしする……」
「あいつに反対されてもか?」
紫苑は声を上げて泣いた。
「離れたくないよ!離れたくない!……でも…仕方ないじゃん!!」
傍にいても、離れても恋情が消えない限り、苦しみ続けなきゃならない。俺はそっと後ろから紫苑を抱きしめた。篤孝には紫苑は子供じゃないみたいなこといったけど。こいつは小さな子供だ。
「相手の人、どんな人だった?」
普通のといいかけて紫苑は、しゃくりあげながら聡明な人と言った。
「橘美紀っていう人……あの人、あたしにいったの。嫌っていい、恨んでいいって……今までそんなこと誰もいわなかった……いつまでも兄貴に甘えるのよしてっていう奴ばっかだったのに……」
『ごめんね。私も篤孝の手を離せないの。だから、嫌いになっていいよ。恨んでいいよ』
「もっと、嫌な女だったらよかったのに……」
「そうか……」
紫苑が認めざるえないほどの女か。それならきっと、遠くない将来、俺たちは篤孝の結婚を目の当たりにしなければならないのだろう。
「紫苑、俺と付き合うか?」
「なにそれ?女ダメなくせに……」
「ああ、女はダメだよ。だから、練習しよう。篤孝以外の誰かに恋ができるようになるように……」
紫苑は泣きながら笑った。
「できるかな……そんなこと……」
「わかんねぇけど……友達以上恋人未満って関係も悪くないと俺は思うぞ」
「ヒロってばかだよね……」
「バカでいいさ。変な男がお前のまわりをうろちょろして、篤孝が心配するよりな」
「そうだね。ヒロは見てくれだけはいいし……」
「おう、俺様は自他ともに認めるイケメンだからな。それにお前がいれば、女どもに余計な気をつかわなくてすむ。いろんな意味でカモフラできるしなぁ」
「カモフラかよ!」
「なんだよ。ゲイは生きにくいんだぞ。それなりに受け入れてくれる人もいるけどな」
「あっそう。でも、恋人のふりは無理だよ」
「そこは適当ににごすんだよ。お前、そういうの得意だろ?」
「ご想像におまかせしますってことか……」
「そういうこと」
「それじゃあ、手始めにあたしの受験勉強手伝ってよね」
「お安い御用だ。その前に、志望大学決めとけよ。っていうか、真面目に県外受けるのか?」
「それは、少し考えてみる。実家から通えないなら、どこでもいいけど興味がもてる学部がいい」
そうかそうかと、俺は紫苑の髪をくしゃくしゃに撫でた。紫苑は泣きはらした目で睨む。
「カモフラになってやるかわりに、めいっぱい利用してやるからな。覚悟しとけよ!」と威勢のいい声で言った。
同じ人間を愛して、苦しんで、もがいてきた俺たちは、ゆっくりと終わりを受け入れていかなきゃならない。紫苑はちゃんとわかっている。大事な髪を切って、泣きじゃくって……終わらせなければならない片恋だということを。
【終わり】