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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
8/22

春を待つ(一)

挿絵(By みてみん)


一、

 ――朝靄(あさもや)がかかったようにおぼろげな道を、経友はただひたすらに歩いていた。

 辺りは薄暗く、目に映るもの全てが影のように黒く霞んで見える。今歩いている場所が、一体何処なのかも判別がつかなかった。

 確か大怪我をしていたはずなのだが、不思議と痛みは感じない。その代わり、身体が凍えるように寒かった。血が足りていないのだろうか。

 温もりを求めて身震いする身体に鞭打って、無心で足を引きずり、前へ前へと進んでいく。

「何処へ向かっているんだ、俺は……」

 混濁した意識の中、かすれ声で一人呟く。だが、答えるものは誰もいない。

 豊国や、穂馬でもいてくれれば、何かしらの反応を返してくれたのかもしれないが、残念ながら彼らは傍にいないようだった。

「置いてきちまったもんなあ……あれ、何処に置いてきたんだっけか……」

 俯き、しばし考え込むが、どうにも思い出せそうにない。寝惚けているのかと思うくらいに頭が働かなかった。

「まあ、いいや」

 歯痒さに少し焦れるも、直にどうでも良くなった。

 こうしている間にも、意識の外側で経友の足は動いている。まるで別の生き物にでもなったかのようだ。

 無理に物を考えずとも、いずれこの身は何処かに辿り着くだろう。

 もう、なるようになってしまえ。そう考えて、足の進むに任せた。

「――、――」

「ん……?」

 ふと、誰かに呼び止められたような気がして、経友は振り返った。

 後ろには誰もいない。怪訝そうな表情で、首を傾げる。

「はて……」

 一体誰が自分を呼び止めたのだろうか。

 辺りをきょろきょろとしていると、霞の中にいくつもの人影がぼんやりと浮かび上がってきた。

 複数の人影は段々と色づいていき、見知った人物の姿をかたちどっていく。

「千若」

 それは父母や兄たちであった。厳しい顔つきで、こちらを咎めるよう睨んでいる。

「千坊」

 それは祖父母であった。何処か寂しそうに笑って、こちらを見つめている。

「兄者……」

 それは妹の玖であった。何故か大粒の涙を浮かべ、肩を震わせている。

 一瞬声をかけようとも思ったが、すぐに思い直して苦笑いを浮かべた。

「これはないな……まやかしだ。あいつが泣いている所なんか、もう何年も見ていない」

 あまり感情を表に出したがらない妹のことだ。これからも目の前で、このような表情を見せてくれるとは、とても思えなかった。

「そうだ、基爺たちに謝らなきゃ。大口を叩いたって言うのに、救えなかったんだから……」

 口をついて出た『救う』という言葉に、垂れ流しの思考がぴたりと止まった。

「救う……? 誰を……?」

 決して忘れてはいけない大事なことであった気がする。

 不安に押し潰されそうになりながら、今度は諦めようとせず、頭の中で何度も問いかけ続ける。

 その時、柊の香りが鼻をついた。とても甘く、そしてとても寂しい香りだった。

 経友は、はっと顔を上げる。

「あっ……」

 目の前を覆う霞が、ぱっと晴れ渡っていく。

 薄暗闇が切り裂かれたように霧散していき、遥か遠方にふわりとした黒い髪がたなびいているのが見えた。

「松寿ッ」

 必死に駆ける。

 だが、松寿との距離はちっとも縮まらない。

 焦燥感に駆られ、苛立ちを覚える。届かないと分かっていても、自然と片手を前へ伸ばしてしまう。

「松寿ーッ!」

 大声を張り上げるが、一向に気づく様子が見られない。

 彼女の綺麗な髪が、風に靡いて揺れていた。

 舞い上がった毛先が淡く輝き、泡のように消えていく。

 消失は全身へと波及していった。

 まずは、髪。次に、手足。末端から中枢へ、ゆっくりではあるが確実に――

 彼女という存在が、やがてその場から完全に消え失せてしまう。それは自明の理であるように思われた。

「助けに来たんだ、松寿ッ!」

 心が張り裂けそうになりながらも、経友は必死に呼びかけ続けた。

 何故気づかない。どうしてこちらを振り向いてくれない。

 無力感に抗うように、経友はありったけの力を込めて、喉から声を絞り出す。

 必死のあがきは、彼女がそこからいなくなっても延々と続けられた。



「あ……れ……?」

 全身を襲う焼け付くような痛みに驚いた経友は、うつ伏せになった上半身を反射的に持ち上げる。

 山道を抜ける肌寒い風が頬を撫でていった。

 悪夢でも見ていたのか、べっとりと身体をぬらした冷や汗が、身体の温もりを奪っていく。

 辺りの景色はすっかり茜色に染まっている。帰巣する鳥たちの声が、周囲を飛び交っていた。

「……?」

 状況を理解できない経友の耳に、聞き慣れた馬のいななきが聞こえる。

 声の主に視線をやる。豊国であった。

 経友を背に乗せた豊国が、気遣うようにこちらをちらりと一瞥し、すぐに前を向く。

 山道を登っていく足取りはゆっくりとしたもので、傷ついた経友の身体を労わっているようにも感じられた。

「豊国?」

 ふらつく頭をぼろぼろの手で抱えながら、経友は考えをめぐらす。

 坂の居城で元綱たちに取り囲まれた経友は、命からがら包囲を突破して逃げ出すことに成功した。そこまでは分かる。

 だが、そこから先の記憶がない。

 山を転がり落ちるように駆け下りた、その後……

「そうだ、追っ手は……?」

 慌てて後ろを振り返る。

 後方には、穂馬が後ろを警戒するようにつかず離れずに続いていた。

 白いたてがみがひるがえった瞬間、その身体に広がる赤い広がりが目に飛び込んでくる。

 彼女のすらりとした半身には、その所々に矢が刺さっていたのだ。

 あまりの痛ましさに、経友は声を漏らさずにはいられなかった。

「守ってくれていたのか……」

 自身が置かれた状況を即座に理解し、沈痛な表情を浮かべる。

 どうやら、二頭の元へ何とか逃げ帰ることのできた経友は、そのまま意識を失ったらしい。

 豊国は、動けぬ経友を背負って経友の足となり、穂馬は怪我人を背負って早く駆けることのできない豊国を守るように、追っ手を捌いてくれたのだ。

 この二頭がいなければ、今頃自分はこの世にいなかっただろう。

「ありがとうな」

 心を込めて礼を言うと、豊国の背からゆっくりと下馬した。

 着地の瞬間、尋常でない痛みが全身に走ったが、歯を食いしばってそれに耐える。

 引きずる足で穂馬へと近寄りながら、その視線を穂馬の傷口へと向ける。

 傷は決して浅くない。だが、馬は人間に比べて身体が丈夫だ。恐らく命に別状はないだろう。

 ほっと安堵の吐息がついて出る。

「痛かったろう……? ちょっと、待っていてくれ」

 たてがみを優しく撫でると、経友は右腕を覆う射篭手を取り外し、身に纏う着物を脱いだ。

 生地はお世辞にも清潔とは言いがたいが、それでも血止めには十分役に立つはずだ。

 狐ヶ崎で、それを長く裁断していく。

「少し、我慢してくれよ」

 穂馬にそう声をかけると、彼女は気構えができたことを表すように低くいなないた。

 合わせて経友も小さく頷く。そして、刺さっていた征矢(そや)を一気に引き抜いた。

 血が辺りに飛び散った。

 失血を防ぐため、彼女の傷口に裁断した布を手早く当てる。

「暴れもしない。玖の言うとおり、お前は良い子だな」

 嬉しそうに身体を振るわせる穂馬をもう一度撫でる。

 じんわりと赤く染まっていく布を縄で固定した後、経友は豊国に声をかけた。

「豊国もすまない。お前の身体も、血で汚してしまったな」

 経友の声に応えるように低く呻いてくる。

 落ち着かない声色であった。焦れったそうにこちらに送ってくる眼差しに、経友は怪訝そうな表情を返した。

 だが、すぐに豊国の視線が、経友の肩口に向かっていることに気づき、その意図するところを理解する。

 経友自身、他人を心配していられる状態ではなかったのだ。

「ああ、そうか。俺がこんな体たらくでは、お前も落ち着かないか」

 くすりと笑って、自身の傷を一つ一つ確認していく。

 どうやら裂傷は捨て置いても大した問題はなさそうだ。

 深手といえるのは、肩の矢傷のみである。こちらは放っておけば、矢から毒が染み出し、いずれ肩を腐らせるだろう。早急に処置する必要がある。

 経友は刀の鞘を口にくわえ、舌を噛み切らないようにすると、自身の左肩に刺さる矢を引き抜いた。

 雷に打たれたように、身体が“く”の字に折れ曲がる。

 あまりの痛みに再び気を失いそうになるが、気力を振り絞って二本目の矢も続けて引き抜いた。

「ぐっ……」

 肩で荒い息をつきながら、痛みが和らぐまで静かに時を過ごす。

 既に周囲に鳥の声はない。

 人と馬の静かな息遣いと、風に揺れる木の葉の音だけが満ちていた。

 強い緑の香りが、傷ついた経友の身体を癒してくれる。

 ただでさえ、血の臭いと痛みでどうにかなってしまいそうなところであったので、これは非常にありがたかった。

 そうやって、痛みの波が引いていくのを、根気強く待ち続ける。

 ――四半刻は経っただろうか。

 肩の止血もようやく終わり、経友にも幾分か考える余裕が生まれた。

「……結局、ここは何処なんだ?」

 頭を捻って自問する。

 追っ手が来ないことから察するに、ここが相合勢の勢力下ではないことは確かのようだ。

 とすれば、大分遠くまで逃げてきたことになるのだが……

 経友は落ち着いた眼で改めて周りの景色を見回した。

「ん……?」

 ふと、何か引っかかるものを感じ、経友は眉を寄せた。

 改めて見てみると、草木の生え方から獣道の場所、そして耳に響く森の音まで、五感で感じ取れるもの全てに覚えがある。

 知っている。経友はこの道を良く知っていた。

「それも一度や二度通った程度の記憶ではない。まさか……」

 頭によぎる可能性を確かなものとするため、経友は豊国の背に再び跨り、一気に山道を駆け上がった。

 そう高い山でもないはずだと、記憶が告げてくれている。

 それを証明するように、鬱蒼とした緑が、ぱあっと視界から消えた。

 頂上へと辿り着いたのだ。

 経友は開けた頂上から眼下を見下ろし、そして驚愕する。

「猿掛、城……だと……?」



 すぐ傍にそびえたっていたのは、良く見知った松寿の居城であった。

 幼い頃から暇を見つけては通っていた馴染み深い場所が、夕焼け色に赤く染まっている。

「夕焼け……」

 信じられないような目つきで、沈み行く太陽へと視線を走らせる。

 坂の居城へと忍び込んだのが夜更けであったことを考えると、既に最低でも一日は過ぎている計算になる。

 意識を失ってから、相当時間が経っていることは覚悟していたが、まさかここまで経っているとは思いも寄らなかった。

 予想を遥かに上回る事実に、経友は苦々しげに呻く。

「くそっ……何でこんなところまでッ」

 豊国に文句を言いかけるも、寸前で言葉を飲み込んだ。

 猿掛は、吉川の居城である小倉山の南方、目と鼻の先にある。

 つまり、豊国は経友の身を慮って小倉山を目指していたのだ。これを難じることなどできるわけがない。

「ちくしょう……」

 やり場のない怒りが頭の中を渦巻いている。自身のあまりの情けなさに、経友は声を上げて泣きたい衝動に駆られた。

 意気揚々と、松寿救出に乗り出したは良いが、松寿の元へ近づくこともできていない。

 それどころか、経友が松寿救出のために動いていると相合勢に知られてしまい、かえって警戒を強めてしまうという体たらくだ。

 これでは、松寿から遠ざかるばかりではないか。

「そもそも、松寿の居場所さえ分からないんだ。遠ざかるとかそう言った話ですらない……」

 絶望の帳が、経友の身に重く圧し掛かってくる。

 もう諦めろ。お前じゃ誰も救えない。脳裏に誰かがそう囁いてきた。

 追い討ちをかけるように、遠方からは戦の終わりを告げる法螺貝の音が風に運ばれてくる。

 毛利家のにらみ合いが終わってしまったのだろうか。福原や志道の翁は松寿を諦めてしまったというのか。

 『敗戦』。その二文字が経友の心を満たしていった。

 大粒の涙が、地面へと零れ落ちていく。

 二頭の労わるような鳴き声が、やけに耳に残った。

「分かってる。諦めろって言うんだろ。でも……諦められないんだよ。分かってくれ……」

 涙で滲む辺りの景色が、段々と薄暗くなっていく。

 夜が再び近づいてきたのだ。

 宵闇の到来は、まるで経友の内にくすぶり続ける未練の炎を容赦なく消さんとしているかのように、その深みを増していく。

(もう打つ手はない。諦めよう)

 己の内なる声に、敢え無く頷こうとしたその時――

 経友の瞳に溜まりつつあった陰鬱な濁りを洗い流すように、淡い光が眼に飛び込んできた。



「あれは……?」

 目を凝らしてみると、それは花のようであった。

 薄暗くなっていく景色の中、小さな白い花が周りの闇に負けぬよう、必死に光を放ち続けていたのだ。

 普段なら見逃していたかもしれない。

 だが、最後の一瞬まで藁にもすがる思いで解決の糸口を捜し求めていた経友にとって、その白い光は特別に明るく目立って見えた。

 経友は涙で濡れた目を手で擦り、花の近くへと馬を近づけさせた。

 下馬して、それを手にとって見る。

 千重咲きの椿。

 よくよく見てみれば、それは本物の花ではなかった。

 精巧に作られた花飾り――そう、それは間違いなく松寿に贈ったはずの髪留めであった。

「何でこれがここに……」

 思わず、南方を見る。

 坂の居城は猿掛や郡山の南方にあった。だが、経友が今立っているこの場所は、猿掛から北へと伸びる山道の途中にある。

 つまり、全く正反対の方向にあるのだ。

「道理が合わない。何故だ……?」

 松寿がさらわれた時に、譜代の城へと連れ去られたのならば、必ず南方へと向かうはずだ。

 それをわざわざ北方の道へと松寿を連れてくる理由が理解できなかった。

「尼子に引き渡すために北へ向かったのか? ……いや、それはない。尼子と相合勢が連携をとって動くには早すぎる」

 いくら出雲国が隣国とは言え、国を隔てているのに違いはない。松寿の決断と、それに対する誘拐。このような突発的な事件に対応するだけの連携は到底望めないはずだ。

 また、相合勢だけで出雲へ連れて行くということもありえない。

 出雲への道中には、いくつもの国人勢力が割拠している。その中には大内派だって当然いるのだ。

 万が一そういった他勢力に襲撃され、松寿を奪われてしまっては目も当てられない。

 そもそもこの戦は相合勢にとって大義が弱い戦だ。人質である彼女が手元から離れれば、たちまち戦の均衡は崩れ、相合勢の命運は尽きてしまうに違いない。

 だからこそ護衛の兵を必ず付けておかねばならないのだが、兵を引き連れて出雲へ向かうなど悪目立ちがすぎる。

 松寿派の家人だって、馬鹿ではないのだ。すぐに追っ手を差し向けるだろう。

 そう……現実問題として、すぐに松寿を尼子へ送り届けることなど不可能だ。

 そこまで考え、経友はある疑問に思い当たった。

「待てよ……? そもそも、四郎は何で坂の居城にいたんだ? あの時、横田の地では相合勢と松寿派が一触即発のにらみ合いをしていたはずだろう。理由もないのに総大将が本陣を留守にしていて良いはずがない」

 考えれば考えるほどにおかしな話だ。

 横田の軍を別働隊とし、坂の居城を本陣とするには兵の数が少なすぎる。総大将に万が一のことがあれば、戦自体が立ち行かなくなるのは、敵方の松寿が証明している。

 元綱が城に詰めていたのは、何か他に理由があったと考えるべきだろう。

「坂の居城に松寿はいなかった。確認したのだから、これは間違いない。とすると、守備のためと言う線は薄い。ならば何故……」

 経友は、更に考えを進めた。

 知恵を振り絞って、あらゆる可能性を捻り出しては、それを否定していく。

 延々と繰り返される試行錯誤の中、一つだけ、どうしても否定しきれない可能性が一つだけあった。

「囮……か……?」

 金吾からの情報にあったとおり、坂の居城に兵が駐屯していることは、外部にも知られていた。

 そこに元綱が詰めているとなれば、松寿が囚われていると考える人間が現れても不思議ではない。

「でも何で……」

 釈然としない思いで、経友は口元に手をやった。

 囮が無駄だとは思わない。だが、そもそも松寿は人質なのだから、守りを固めてけん制するだけでも十分なはずなのだ。

 わざわざ回りくどいことをしてまで、松寿がそこに囚われているよう見せかけなくとも良いではないか。

 まさに蛇足だ。必要のない小細工と言える。

「必要がない?」

 ――刹那、経友の脳裏に何かが稲光のように閃いた。

 もう一度繰り返し、ごくりと唾を飲み込む。

 猿掛の北に落ちていた髪留め。総大将不在の本陣。そして必要のない囮――

 もし、囮をする必要性があったのだとしたら。松寿がそこにいるよう見せかけなければいけない理由があったとしたら……

 頭の中で、数多の情報の断片が組み上がっていき、一つの確固とした形を成していく。

「もしかしたら……」

 おぼろげな仮説が、確信へと変わっていくのにそう時間はかからなかった。

 経友は、生まれ出でた可能性を静かに言の葉として紡いだ。

「松寿は猿掛から連れ出されていない……?」


二、


 月明かりが色濃くなっていく時分、経友は背の高い茂みを早足で掻き分けていた。

 松明の類は持ち合わせていない。だが、ここは幼い頃から慣れ親しんだ山だ。目を瞑ったって走破することができた。

「そもそも、人一人をさらうって言うのは、そんな容易いものじゃない。どんな奴だって身の危険を感じれば抵抗くらいする。いくら松寿が女の子だからと言って、それは例外じゃないはずなんだ……」

 ここは毛利の領内だ。松寿派の人間だって辺りをうろついているわけで、狼藉の途中で見つかる可能性は決して低くない。

 拉致に手間取れば、その危険性は更に増す。

 たとえ夜の闇に紛れて、彼女の身柄を運ぼうとしても、譜代の城へ向かうためには松寿派の治める土地を経由する必要がある。

 ただでさえ松寿に手を出すという大冒険に踏み出しているのに、頭の良い元綱がそれ以上の危険を重ねるだろうか。

「……そんな危険を冒すくらいならば、まずは手近な場所に隠して、機を窺った方が良い。それが無難だ」

 猿掛からそう離れていない場所に、誰にも気取られずに人一人を隠すことのできる場所。

 そんな都合の良い場所は果たしてあるのか……

「ったく、松寿は何故かあなぐらと縁があるな……!」

 経友には心当たりがあった。

 幼い頃、松寿は井上某という重臣に、城を追い出されて洞窟へと押し込められたことがある。

 ここ、猿掛にはそういった場所がいくつか存在するのだ。

「松寿は猿掛付近の洞窟の何処かに押し込められている」

 自身の推論を再確認するように、何度も繰り返す。

 昂ぶった感情に呼応して、自然と足が速まる。怪我のことなど、とうに頭から抜けてしまっていた。

「ここは……違うか」

 経友は把握している全ての洞窟を手近な場所から当たっていった。

 当てが外れるたびに、隠しようのない不安が膨らんでいくが、前回と違って希望の灯火が弱まることはない。

 経友には確信があった。

 懐中に仕舞った髪留めに手を当てる。柊の残り香がほのかに漂う。

 ただの勘なのかもしれない。だが、感じるのだ。

 一つ、また一つと心当たりを潰していき――

 果たしてそこに答えはあった。

「……明察ッ」

 山中の薄暗い洞穴の前に、煌々と松明が灯っている。

 何人かの見張りが、落ち着かない様子で敵の襲撃に備えていた。

「間違いない。松寿はここにいるッ……!」



 身を屈めて、様子を窺う。

 洞窟の前には四人ほどの兵士が詰めていた。恐らく、他にも何人か散らばっているはずだ。

 乱れた息を整えるべく、静かに呼吸を繰り返す。

 不意打ちが成功すれば、対応できぬ数ではない。

 経友はすうっと獲物を見るように眼を細め、背中に背負っている弓を番えた。

 日頃の鍛錬を思い出し、神経を研ぎ澄ませる。

 痛みすら遠のいていく中で、狙いとなる兵士の身体が殊更に大きく見えていった。

 静かに矢が放たれる。

 螺旋を描きながら暗闇を切り裂いていく疾風の一撃は、狙いたがわずに兵士の胸へと深々と突き刺さった。

「あ……?」

 胸を貫かれた兵士は、信じられないと言った様子で目を見開いて、その場に力なく崩れ落ちた。

 まさかの襲撃に、他の兵士たちが色めき立つ。

「て、敵襲ッ! 敵襲ーッ!」

 その声に、洞窟の中から更に二人が飛び出してくる。

 合計五人。

 五体満足ならば、無理を通せぬこともないが、今の経友は手負いだ。まともにやりあっては勝ち目が薄い。

「良し……」

 経友は慌てずに次の矢を番え、組み打ちに移るまでに兵の数を減らすことに専念した。

 最も距離の近い、槍持ちの兵士へと視線を走らせる。

 視界が収束していく。

 それに伴い、槍持ちの姿が鮮明になっていった。

 不安を隠せずに周りに怒鳴り散らしている。

 忙しなく動き続けている喉元がはっきりと視えた瞬間――

 弓鳴りの音が再び闇を切り裂いた。

 経友の視線を追うように放たれた矢が、槍持ちの喉を貫く。

 槍持ちは苦悶の表情を浮かべながら、血泡を吐いて往生した。

「あそこだッ」

 次の狙いを定めようとしていた経友目掛けて、兵士たちの怒声が近づいてきた。

 矢の出所を確認した兵士たちが、気勢を上げて切り込んできたのだ。

 一瞬距離を取ろうとも思ったが、自らの足の具合を思い出し、忌々しげに舌打ちする。

 引きずる足では、敵を掻き乱すことはできない。

 意を決した経友は、狐ヶ崎を正眼に構えて兵士たちを迎え撃った。

 まず、一人目と斬り結ぶ。

 鋼の打ち合う音が経友の耳を打つ。

 敵兵士が腕力に任せて、こちらを押し倒そうとしてくる。兵士とは言え、流石に松寿の防衛を任されているだけあって、精鋭と言える腕前であった。

「だが、手に負えぬほどではないッ……!」

 短く叫ぶと、虚を突くように刀身を滑らせ、敵の腕を深く斬りつける。

 敵の返り血が経友の頬をわずかに濡らした。

「うッ」

 筋を断ち切られ、敵の強力がにわかに弱まっていく。

 その機を逃さずに、経友は返す刀で敵の身体を斬り上げた。

「おおぉおッ!」

 絶命する仲間には目もくれずに、横から新手が掴みかかってくる。

 取っ組み合いに持ち込み、数の有利で押し切ろうと言う算段だろう。

 斬りつけた際に体勢を崩しており、刀での反撃もままならない。体捌きで身を守ろうにも、全身に響く鈍い痛みがそれを許してくれない。

 経友は自由にならない身体に苛立ちを覚えながら、無念そうに顔を歪めた。

 仕方なしに敵と組み合う。

 敵の屈強な腕が、経友の肩と腕をふんずと掴んできた。

 経友の身動きが封じられる。

 それを待ちかねたように、背後に回り込んだもう一人から強い殺気が放たれた。

(どうするッ……?)

 思考は一瞬で済ませた。

 息を吐いて覚悟を決めると、背後の敵兵に向かって背中を向けながら(、、、、、、、、)近づいた。

 取っ組み合っていた兵士も、元より押し倒して首を掻き切ろうと狙っていたため、経友に引き込まれる形で前へと体勢を崩す。

 その隙を見逃す経友ではない。

 後ろに転がり込むようにして、敵を投げ飛ばした。

「へひッ」

 背後の敵兵と投げ飛ばされた兵士が音を立ててぶつかりあう。

 兵士たちが倒れこむ姿を横目で確認しつつ、経友は素早く受身を取った。

 そして、敵が再び体勢を立て直す前に、刀の柄で思いきり頭を殴りつける。

 昏倒する兵士たち。

 経友は彼らには目もくれずに、最後の一人の姿を探し求め――

 ようとした刹那、頭に鈍い衝撃が走った。

 全身が痺れるように動かなくなり、堪らずその場に倒れこむ。

(頭を殴られたのか……? まずい、これは非常にまずいッ……!)

 揺らぐ視界の中、狐ヶ崎が手の届かぬ場所へと蹴り飛ばされるのが見えた。

 経友の手元には反撃の糸口がもう残されていない。

「御命頂戴ッ」

 馬乗りになった兵士が、野太い声とともに太刀を振りかぶる。

 濃密な死の影が経友の身体を包み込んだ。

 痺れる頭で必死に打開策をひねり出そうとする。

 だが、どの策もこの窮地を脱することができそうになかった。

「くっ……」

 ――諦められない。

 後もう少しで、松寿を助け出せるのだ。諦められるわけがない。

 ――最後まで悪あがきをしてやる。

 そう心に決めた瞬間、何故か山県重房の憤怒にまみれた仁王面がぱっと思い浮かんだ。

 いつだって諦めの悪い猪武者が、窮地に立たされた時、採った行動を思い出す。

 それは――

「頂戴されてたまるかよッ!」

 経友は思い切り兵士を蹴り上げた。

 経友の蹴りが兵士の背中をしたたかに打つ。

 兵士の顔が苦痛に歪む。

 一瞬の隙が生まれた。

 経友が悪あがきを続行するには十分すぎるほどの時間である。

「足癖の悪い腐れ縁に感謝だッ」

 経友はがむしゃらに土を掴み、相手の顔に思い切り投げつけた。

「ぎゃッ」

 思わぬ目潰しに、兵士がひるんだ。

 続けざまに、経友は彼の鼻頭に勢い良く頭突きをぶち当てる。

 軟骨の潰れる嫌な感触が伝わってきた。

 顔を押さえて悶絶する兵士の呪縛から逃れた経友は、転がり込むようにして狐ヶ崎を手に取り、

「ようやく、ここまでたどり着いたんだ。今更こんなところで負けていられるかッ!」

 声高にそう叫ぶと、一刀の下に敵を斬り伏せた。



 全ての敵が地に横たわる。

 肩で荒い息をつきながら、経友は刀に滴る血を拭おうともせずに洞窟を目指した。

「ぜぇっ……ぜぇっ……松寿ッ……」

 狐ヶ崎を杖にして、経友は無我夢中で足を動かした。

 もう体力は底を尽いている。

 何時倒れてもおかしくないほどに疲労困憊している経友の身体であったが、それでもまぶたに浮かぶ松寿の姿を心の頼みとし、魂を削りながら奥へと進んでいった。

 硬い地面を必死に踏みしめ、凍えるような空気の中で懸命に心を奮い起こす。

 全ては松寿のためだ。

 見返りを求めているわけではない。

 ただ、松寿の悲しむ顔が見たくない――その一心で、暗闇の中をあがき続けている。

「無事でさえあってくれれば良い」

 息も絶え絶えになりながら、経友は松寿の無事を切に願った。

 そして、その願いはようやく実を結ぶ。

「あっ……」

 経友の顔が、見る間に喜びと安堵でいっぱいに染まっていく。

 洞窟の最奥部……吹けば消し飛ぶような小さな灯りの下に、猿轡をかまされた松寿は横たわっていた。


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