毛利の内紛(二)
三、
「貴様! よくもまあ、おめおめと顔を出せたものだなッ!」
張り詰めた空気の中、元服間もない若武者の怒声が経友の耳朶を叩く。
眼前の青年は荒々しく息をつきながら、憎々しげにこちらを睨みつけていた。具足で固めた細身の身体は怒りにうち震え、今にも殴りかからんとする勢いだ。
「すまん、話を聞いてくれ」
経友は深く頭を下げ、その怒りを辛抱強く受け止めた。
彼の怒りも尤もなことだ。経友の実家である吉川は、既に彼らの援軍要請を断っている。だと言うのに、こうしてわざわざ陣中見舞いに来るなど、相手の神経を逆撫でしているとしか思えない。
陣を覆う白い垂れ幕の隙間から、他の武将たちもこちらの様子を窺っている。やはりと言うべきか、その眼差しも険しいものばかりであった。
明確な敵意を、この身にひしひしと感じる。
普段ならば、これは戦場で敵から受けるものだ。それを本来味方であるはずの相手から受けるというのは格別に堪えた。
強く下唇を噛む。一目散にこの場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
だが、それは許されない。たとえ裏切り者の謗りを受けようとも、経友は現状の把握をしなければならないのだ。
『この状況を理解しろ。お前の戦はそこからだ』
基爺の言葉が思い起こされる。
松寿を取り巻く状況は、今どうなっているのか。どのように動けば、現在の状況を改善させることができるのか。経友だけで知恵を振り絞ったところで、解決策が思い浮かぶとは到底思えない。
ここは何としても、渦中の真っ只中にいる人間の協力を得なければならない。だから、必死に耐えた。
「それで今更何の用だ! 偵察か? 切り込みか……? そうか、太刀を抜くなら受けて立つぞ……ッ!」
直に見ずとも、彼の潔癖そうな細面が赤黒く染まっていく様子が目に浮かぶ。
かちゃり、と鯉口を切る音が聞えた。彼の親指が太刀の鍔にかかったのだ。こちらがおかしな動きを見せればたちまち切り伏せられてしまうだろう。
だから、経友は頭を上げずにそのまま返答した。
「……式部殿か、志道の爺に取り次いでもらいたい。この通りだ」
「なん……だとぉ?」
「頼む……」
ここでようやく顔を上げ、青年の両眼をまっすぐ見返す。
彼は何とも微妙な表情をしていた。振り上げた拳の着地点が分からない。そう言った戸惑いが容易に見て取れた。
しかし、それも一瞬のことである。はっと我に返った青年は太刀を抜き放ち、憤然とした表情で経友の喉元に切っ先を突きつけた。
ちくりとした痛みが喉元に走る。じわりと血が浮き出てくるのを確かに感じた。
「帰れッ! 貴様のような輩にお爺様方がお会いになるはずもなかろう」
「……頼む。後生だ」
「貴様ぁ、僕が帰れと言っているのだッ!」
青年の激昂に、陣中のざわめきが大きくなる。流石に刃傷沙汰にまで発展するとは考えていなかったようだ。動揺のさざなみに混じって誰かを呼びに行く声が小さく聞えた。
青年の太刀を握る手が震えている。
激情に身を任せて抜刀したものの、最後の一線を踏み越えて良いものかどうか戸惑っているのだろう。
(もしかしたら、まだ人を斬ったことがないのかも知れない)
ならば、これは分の悪い賭けではない。そう思って経友は深く息を吐き、采配をゆだねるように目を閉じた。
彼らの動揺が段々と混迷の様相を深めていく。青年の顎から、汗がぽたりと零れ落ちた。
「おいおい、何だこの騒ぎは。けほっ……元保、お前の仕業か?」
場の空気を見事に収めてしまったのは、思慮深い壮年の掛け声であった。
咳の混じったその声に、場の空気が安堵したように溶けていく。
元保と呼ばれた細面の青年は、射抜かれたようにその声に反応し、慌てて太刀を鞘に収めた。
経友も声につられて目を開ける。
元保は何ともばつが悪そうにしていた。隠れるところを探すかのように、辺りをきょろきょろとし始める。
「あ、父上。いえ、これは……」
すると、垂れ幕を押しのけて、幸薄そうな壮年の男がこちらを覗いてきた。
三十路を越えて半ばごろ。痩せ身に色白で、この何処となく疲れた表情には覚えがあった。
「ち、父上っ! それより、安静にして下さらないとッ」
父と呼ばれた壮年の男が、苦しそうに咳をする。
元保が血相を変えて駆け寄ろうとするが、男は気にするなとばかりに手で制した。
咳をしている間も、彼の思慮深そうな瞳は少しも揺らぐことが無く、狼狽する息子を静かに見つめ続けている。
「何があったのかと聞いているんだが?」
「うっ……」
元保が言葉に詰まる。
その様子に、壮年の男は困ったような表情で髭を弄りながら、視線をこちらに向けてきた。
「あれ、千若殿じゃないか」
「上野殿か。大事無いようで何よりだ」
彼は志道広良。志道の爺の嫡男に当たる男である。現在は宿老である父の名を継ぎ、毛利家の庶事を司っているらしい。
忌み名が志道の爺と同じあるため、非常に紛らわしく、経友は幼い頃から彼のことを上野と呼ぶことにしていた。
「吉川は此度の戦に関わらないはずだろう……? 一体どうした?」
「俺は吉川の使いじゃない。吉川の家名は……もう捨ててきたんだ」
「か、家名を……ッ?」
経友の受け答えに、元保が色めき立つ。
対する上野は冷静そのものだ。呆れたようにため息をつくと、苦笑いをしながら経友の肩をぽんと叩いてきた。
「ああ、成る程……。まあ、千若殿らしいと言えば、らしい話だなあ」
「松寿は無事なのか? 助け出せそうなのか?」
「落ち着け。まあ、奥に入れ。福原様やうちの親父に聞くべきことだろう、それは」
それもそうだと、上野の答えに同意する。
そして、彼の招きに応じて陣中へと歩み入ろうと一歩踏み出したその時、上擦った元保の声が経友を呼び止めた。
「お、お前ッ」
「……?」
「家を捨てたと言う話は、本当なのか?」
信じられないと言う目をしていた。
その疑問は経友にも分からなくはない。下級武士ならいざ知らず、吉川のような由緒ある一族の者が家を捨てるなど前代未聞のことなのだ。
(そうか……自分は大変なことをしてしまったんだな)
彼の様子を見て、経友は改めて自分の決断がいかに重大なものであったかに気づかされた。
「……本当だ」
「そ、そうか」
目を伏せてそう答えると、元保は何故か決まり悪そうに俯いていた。
声をかけてやりたい気持ちもあったが、今はとにかく時間が惜しい。こうしている間にも刻一刻と松寿に危機が迫っているかもしれないのだ。
「話はもう終わりにして良いか? 時間が惜しいんだ」
と続けると、元保の答えを待たずに歩き出す。
「あ、ああ……」
何処か呆然としたような声を背中で感じながら、経友は上野に続いて陣中へと入っていった。
◇
陣中では松寿派の主だった面々が肩を並べて座っていた。その誰もが経友の訪問に目を丸くしている。
「千若丸……お主、何故……?」
「爺、松寿は無事なのかッ? 俺に手伝えることはないのか? 頼む、何でも良いから教えてくれっ……頼む……ッ!」
志道翁の驚きの声を遮るように、経友が問いかける。
藁にもすがる思いとはこのことだろう。自分の声が何とも情けないものになっていることを経友は自覚しながらも、形振り構わずに懇願し続けた。
「そういうことか……全く、無茶をしおってからに」
翁は上野と全く同様の反応を示すと、困り果てたように視線を会議を取り仕切っている人物へと滑らせる。
「千坊」
昔を懐かしむような声が上がった。
恰幅の良い体格に、日に焼けた福顔。その上に優しそうな白髪混じりの眉が乗っている。会議の中心人物である福原広俊は、頬杖をつきながら、孫でも見るかのような面持ちで目を細めていた。
「大きうなったな。一年は会うてなかったか」
「式部殿……松寿は……?」
「松寿様は無事じゃよ。それだけは確約させている」
「そうか」
それを聞いて安心する。最悪の可能性が遠ざかっただけでも、大きな前進と言えた。だが、これで相合元綱たちが松寿の身柄を確保していることも確実になったわけだ。
ここで気を緩めてはならない。経友は眉の険を深めながら質問を続けた。
「四郎たちの主張は?」
式部は、その言葉に沈痛な表情を浮かべる。そして一拍置いた後、忌々しそうに吐き捨てた。
「尼子との縁談を断り、いたずらに両家の関係を悪化させるなど言語道断。かくなる上は毛利家のためにも、松寿様が尼子家に嫁入りするまで、その身柄をお預りする――相合衆の主張は概ねそのようなものだ」
「元綱殿を押しているのは、坂や渡辺といった家老衆よ。まったく情けない……出雲の亀井なんぞに踊らされよってからに……。式部殿申し訳ない。我が本家の招いた種じゃ、何度謝っても謝り足りん」
「言うな、広良。いくら坂の一族と言えども、そなたは親戚筋に過ぎぬ。第一、坂家は毛利の柱石じゃ。それこそ誰のせいでもない……」
老将たちの顔色が更に暗く沈んでいく。
身内はかけがえのない物だ。いくらまとまりのない空気であったとしても、まさか実力に訴えかけるような騒動に発展するとは思わなかったのだろう。
「思えば、松寿様が側の者を満足につけようとせずに猿掛へと向かおうとしたあの時……わしが是が非にでも止めて置けばよかったのだ」
途方にくれて頭を抱える式部の表情は、声をかけるのもはばかれるほどに後悔一色で塗りつぶされていた。
老将一人のため息が、辺り一面に伝染していく。
重苦しい雰囲気にいたたまれない気持ちになる。何とかこの空気を払拭しようと経友は、
「事態が進展する見込みは……」
と口を開き、慌てて言葉をつぐんだ。
そもそも、自分がこうして駆けつけるまでにも、彼らは何とか状況を打開しようと様々な手段を講じてきたはずなのだ。
そのような海千山千の老将たちの陰鬱な表情を見れば、解決の目処が未だ立っていないことは一目瞭然であった。
(ならば……)
事態を整理し、付け入る隙がないかどうかを探り出さなければなるまい。
そう考え、経友は足りない頭を精一杯に働かせ始めた。
まず、相合勢の今後の動きについて考えを巡らせて見る。
相合勢は尼子の迎えがくるまで粘り続ける腹積もりだろう。尼子に松寿を引き渡してしまえば、家督は元綱のものになる。いわば、これは「守れば勝てる戦」と言える。
対する式部たちは、松寿を人質に取られているために無闇に敵を刺激することができない。このまま座して待っていても、松寿は尼子に奪われることになり、家督を継いだ元綱による大規模な粛清が待っているだけであろう。まさに打つ手なしといったところか。
(表立って動けない以上、隠密裏に動いてはどうか? けど……)
もし失敗すれば、相合勢に式部たちが強硬策に走ったと認識されるだろう。結局松寿を危険に晒す羽目になる。
それでは本末転倒だ。
頭が痛くなってくる。式部たちが頭を抱えるのも分かるほどに、手詰まりの状態だ。
このような状況下で、相合勢を刺激せずに済むような都合の良い駒など――
「あっ」
ある。一つだけあった。
経友の突然の声に、老将たちが目を白黒とさせる。
「どうした、千坊。何ぞ思いついたことでもあったのか?」
「式部殿。松寿が押し込められているとしたら、何処だと思う? 教えてくれ」
「む、それを知って何とする?」
式部が怪訝そうに問いかけてくる。経友は彼の曇った福顔を真っ直ぐ見つめながら、
「無論、救いに行く」
きっぱりと言い放った。
「馬鹿なッ! ……松寿様は人質なのじゃぞ。無闇に動いて――」
「大丈夫だ。俺は此度の騒動とは無関係の人間だし、万が一失敗したところで松寿に危害が及ぶ可能性はないと思う」
かぶりを振って、諭すようにそう答える。
今回の家督争いは、あくまで毛利家内部の問題である。たとえ外部から狼藉者が乱入したところで、両者の緊張状態に大きな影響はない。
万が一失敗したところで、経友一人が殺されるだけで済むはずだ。
そう……現時点で松寿を救うべく動かせる駒は経友以外、他に無かった。
「だが、それではお主が――」
「じゃあ、このまま指をくわえて待っていろっていうのかよッ!」
「むうっ……」
あくまでも制止しようとする式部に対し、経友も負けじと声を荒げる。
式部の言いたいことは良く分かる。良く分かるのだ。
何せ、彼には経友も幼い頃から良くしてもらっている。心配してくれるのもありがたい。
だが、今は松寿の人生がかかっている。そのような些事にこだわっている時ではないはずだ。
「松寿が……尼子家へ嫁ぐのを嫌がっているのは確かなんだろ」
「それは、無論だ。そうでなければ引っ込み思案な松寿様が家督を継ぐなど言い出しは……」
泣きそうな顔で、松寿が尼子家に引き取られていく様が思い浮かんだ。
婚儀の間、始終俯いている松寿を、尼子の三男が何処か小馬鹿にした表情で抱きしめる――想像するだけで、胸が張り裂けそうになった。
冗談じゃない。経友はこみあげるものを、ぐっと我慢して言葉を搾り出す。
「だったら、救ってやらなきゃだろ」
決意を込めたその言葉に、式部は静かに肩を落とした。
そして、助けを求めるような眼差しで、隣の志道翁に意見を求める。
「広良はどう考えるか」
「ふむぅ……」
顎に手を当て、険しい表情で黙り込む志道翁。彼も式部と同様に戸惑いを見せていた。
拳を握り固め、じっと彼の言葉を待つことにする。
沈黙が場を支配した。
「仕方ない……式部殿、認めてやってくれ」
ようやく口を開いた翁は、何処となく呆れたような苦笑いを浮かべた。
「広良……」
「君は船、臣は水。松寿様が居られぬ限り、わしらにできることはない。だが、こやつは水ではないのだ」
その言葉に経友は眼を輝かせる。
「それではッ」
「うむ……松寿様の居場所だがな――」
ぽつり、ぽつりと語り始めた志道翁の言葉に、経友は一言も聞き漏らさぬよう真剣に耳を傾けた。
四、
『敵の陣中に松寿様が押し込められている気配はなかった。また、元綱の居城は郡山城と尾根続きじゃ。人を隠すには大分具合が悪い。ならば、譜代どもの城かと予想されるが……』
志道翁の言葉を一言一句忘れぬように心の中で繰り返す。
夜の帳が下りきるまでにはまだ早い時分、経友は山中の茂みに息を潜めて、その時を待っていた。
頬に止まったやぶ蚊を、音を立てないように押し潰す。
だが、このような処置も焼け石に水でしかない。目に見えるだけでも数十匹のやぶ蚊が、今も容赦なく経友の全身にたかっているのだ。
要所を布で守っているとは言え、平静ならば到底耐えられるものではない。
それでも経友は必死に我慢し続けながら、頭の中で情報の整理を行っていた。
「……あちらも松寿を奪われぬよう細心の注意を払っているはずだ。となれば、この一大事に城内に将兵を残している城が怪しい」
道中で、馴染みの商人である金吾と遭遇できたのは僥倖であった。
商人は武士以上に情報を重んじる。今回の騒動に関しても、金吾はかなりの精度で状況を把握していた。
『こう言う時は、縁起物のあわびや鰹が飛ぶように売れますからね。急のこととは言え、人のいる場所は大概把握していますよ。はい』
「……相合勢の中でも、渡辺の長見山城は遠すぎる。そして、坂の居城は何故か守兵が多い。相合勢の中での力関係を考えても、恐らくは……」
そう的外れな推理ではないはずだ。だが、楽観はできない。
どうか当たっていてくれ――そう切に願いながら、経友はその時をじっと待ち続けた。
――どれくらい時間が経ったのだろうか。
辺りはすっかり暗くなり、眼前に見える坂氏の居城のあちらこちらに松明が灯り始めた。
「ようやくか……待ちわびたぞ」
小声でそう呟くと、足音を立てないように細心の注意を払って近づき始める。
失敗は即、死に繋がる。
昂ぶる気持ちを必死に抑えながら、経友は一歩、また一歩と歩みを進めた。
◇
城を取り巻く木塀のすぐ側まで近づくことに成功した経友は、辺りに兵がいないことを確認すると、背負っていた弓を手に取り、屈みながらそれを番えた。
弦の勢い良く跳ねる音と同時に、矢が空高く放たれる。
縄を結ばれた矢は不安定な放物線を描き、そのまま城内へと落ちていった。
「手際が良いとは言えないが、慣れてないんだから仕様がないな……」
縄を静かに引っ張っていく。途中で確かな手ごたえを感じる。上手い具合に何処かへ引っかかってくれたのだろう。
「良しッ」
念のためにもう一度辺りを確認した後、経友はするすると縄を伝って塀を登っていった。
塀の上まで登りつめた経友は、用心深く辺りの様子を窺う。
かがり火を焚いている兵が三人、門に詰めている兵が5人。そして巡回の兵が十数人程度まばらに見える。
「合わせても三十いるかいないかといったところか。思ったよりも多くはない……これは助かるな」
安芸の国人たちが動員できる兵数は、さほど多くない。小物も含めて千も集められれば良いところだろう。
家人ともなれば、更にその数は減る。それでも、五十以上は覚悟していただけに、これは嬉しい誤算であった。
塀から飛び降り、身を屈めて屋敷へと駆け寄っていく。今のところは順調に事が進んでいることに経友は内心安堵した。
と、その時、
「――ッ!」
突然の気配に、心臓が飛び上がるような思いで屋敷の軒下へと身を滑らせる。
(じゅ、巡回のっ……兵、か)
危うく鉢合わせするところであった。普段から鍛錬で感覚を鍛えていなければ、見つかっていたかもしれない。
経友は深く息を吸い、動揺する心臓を無理やりに鎮めると、地面を這って移動を始めた。
(これはある意味好都合だ。屋敷内に乱入できるはずもなし、まずは軒下から屋内の様子を窺おう)
都合の良いことに、板の間の床にはそこら中に換気用の穴が開いている。これを利用すれば、十二分に屋内の様子を探ることができるだろう。
経友は、一間一間、丹念に中の様子を探っていった。
家人たちの笑い声が聞える。毛利を二分するお家騒動とは言え、かれらは勝ち戦に組している者だ。雰囲気が明るいのはそのせいなのかもしれない。
(外れ、か)
保ち続けてきた緊張を一旦途切れさせ、経友は無念そうに息を吐く。
今探っていた家屋は、城主が生活するための主屋であった。物音などに耳を澄ませてみても、特に気になる点は見受けられない。少なくとも、床の上で宴会を行っている連中が、松寿を閉じ込めているようにはとても思えなかった。
(となると、離れか、蔵が怪しいか……?)
気を取り直して、経友は四肢に力を込めた。まずは軒下から這い出して、手近な蔵へと迅速に近づく。
主屋の側面にはいくつかの蔵が林立していた。
月明かりに照らされて、耐火性を備えた土壁が白く照らし出される。
見張りの兵は――配備されていなかった。
(見張りの兵がいない。ここも望みは薄い、か……)
裏へと回り込み、先ほどと同じ要領で窓に縄を引っ掛ける。
案の定、縄を伝って窓から覗いてみても、中に松寿は見当たらなかった。
もしや、この城に松寿はいないのではないだろうか……? 嫌な予感が脳裏をよぎる。
(……まだだ、まだ離れを見ていない……ッ!)
自分に言い聞かせるように心中でそう呟いてはみたものの、立ち込める不安はそう簡単払えるものではなかった。
心なしか、消沈した足取りで離れへと向かう。
主屋の向こう側。
立地で言えば、蔵の対角線上に屋敷の離れは建てられていた。
恐らく平時は、城主の家族が寝泊りしているのであろう。
宴会の影響か、建物の中に明かりは灯っていない。
そして、やはりというべきか見張りの兵は詰めていなかった。
(そ……んな……)
一縷の光明が、厚い暗雲によって遮られてしまったような心地がした。
この城が外れであったならば、もう何処を探せば良いのか分からない。両足がまるで重い枷を付けられたように動こうとしてくれなかった。
(馬鹿野郎、ここが駄目でも手当たり次第探すだけだッ! 立ち止まるな、松寿を救えッ!)
役立たずになった両足を経友は叱咤するように力いっぱい殴りつけた。
じんとした痛みに顔をしかめる。
我ながら馬鹿なことをしたと思う……が、上手い具合に両足にかけられた枷が外れてくれたようだ。活力を取り戻した両足は、何とか再び言うことを聞いてくれるようになった。
経友は念のためにと、望みの薄い離れの中へと忍び込んでいく。
暗闇の中で、視線を上下左右にと動かす。
だが、目当てのものは見当たらない。
やはり、外れだったか……と、きびすを返そうとした瞬間、
「あっ……!」
離れの奥に蠢いている何かを発見した。慌てて駆け寄り、それを抱き寄せる。
手に確かに伝わってくる人肌の温もり。線の細い身体――
間違いない。横たわっているのは年端も行かない娘だ。それも、両手両足を縛られている。
「松寿ッ! 松寿なのかッ?」
小声で必死に呼びかけるも返事はない。気を失っているのだろうか。
歯を食いしばって彼女を抱きかかえると、経友は外へと急いで駆け出した。
廊下から外へ飛び降ると、雲間から零れ出した月明かりが、経友と囚われていた娘を照らし出してくれた。
娘の顔を見て経友は愕然とする。
「松寿……じゃない……?」
囚われていた娘の顔は、全く覚えのないものであった。娘の冷たい視線が経友を射抜くように貫く。
お前は一体誰だ――そう問いかけようとした刹那、経友は凍りつくような殺気を感じ、反射的に娘を放り投げて横に跳んだ。
銀光が煌き、幾つもの鈍い音が地面に突き刺さっていく。
全ては避けきれなかった。肩口に生じた鋭い痛みに思わず顔を歪める。
見ると左肩には二本の矢が深々と突き刺さっており、袖を真っ赤に染め上げていた。
「これはこれは千若殿ではありませんか。何故このような場所におられるのでしょう?」
嘲るようなその声を耳にした経友は、悔しげな表情で唇を噛む。
(謀られた……ッ!)
声のする方向へ視線を向ける。
そこには此度の元凶たる相合四郎元綱が、複数の側近と共に武装して立ちはだかっていた。
お前は私の手のひらの上で踊っていただけなのだ――そう言わんばかりに不快な笑みを浮かべながら……