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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
4/22

出雲の尼子経久

一、

 松寿に髪留めを渡した翌日、経友は吉川の本城たる小倉山城に帰ってきた。

 豊国を庭先に留め、自身の身体を労わるように思いっきり背を伸ばす。

「あら、千坊おかえり」

「おばあちゃん、ただいま」

 優しげな声に振り返ると、経友の祖母が庭先の花に水をやっていた。経友の姿を見ると、嬉しそうに屋敷内に呼びかけてくる。

「おじいさん、千坊が帰ってきましたよおっ」

「おー、千坊帰ってきよったか」

 若々しい声とともに、屋敷の揺れる音がした。やがて、屋敷の土間口に六尺を超える巨体がのそりと現れる。

 経友の祖父、吉川経基であった。

「ただいま、基爺(もとじい)

 そのあいさつに、基爺は太陽の香りのする笑顔を向けてくれた。

 経友は、我が祖父ながらその存在感に圧倒されて見惚れてしまう。

 ぼろを纏っているのだが、少しもみすぼらしい印象を他者に持たせない。むしろ清貧と形容した方がしっくりくるだろう。

 八十歳をゆうに超えているというのに、未だ筋骨隆々としたその肉体は少しも衰えを見せていない。

 身体のあちらこちらに深く刻み込まれた数多の刀傷は、応仁の大乱を駆け抜けた彼の輝かしい栄光を表しているように思えた。

「昨日から一体何処をほっつき歩いていたんだ?」

 基爺が腕組みをして問いかける。口調や表情に怒っている素振りは見られない。

 だが、経友は祖父のそうした仕草にびくっと身体を強張らせた。鹿を絞め殺せそうなたくましい腕で腕組みをされているのを想像してもらいたい。経友が怒られやしないかと必要以上に萎縮してしまったところで、誰も彼を臆病者とは馬鹿にできないだろう。

「……松寿のところへ、行ってた」

「何……だとッ?」

「うっ」

 祖父の表情が一変するのを見て、経友は更に及び腰になる。

 基爺はしばらく真剣な面持ちで何がしかを考え込んだ後、声を張り上げ祖母に笑いかけた。

「おい、婆さん。千坊が男になって帰ってきよったぞ」

「あらまあっ」

「なっ、なんでだよ!」

 慌てて否定するも、祖父母はにやにやと面白そうにこちらを見ながら、こそこそと何かを言い合っている。

 一体どんな想像をしているのかと、経友は頭が痛くなってしまった。

「違うっ! 単に唐物を買ってやっただけだっ」

「ほう、唐物と申したか」

 再び、基爺が目を丸くする。祖母もこれには驚いたようだ。

「おい、婆さん。千坊が毛利に縁談を申し込んできよったぞ」

「あらまあっ」

「だからッ! なんでそうなるんだよッ!」

「ええじゃないか、減るものでも無しに。早くひ孫をこさえて俺に見せてくれ。そうしたら、喜びのあまりに昇天してやるよ」

「あああ、もうっ!」

 経友が地団太を踏む様に、祖父母が腹を抱えて笑い転げる。祖母は上品にからからと笑い、基爺は豪快にげらげらと辺りを揺らした。

 その様子を見て、経友はがっくりと肩を落とした。


挿絵(By みてみん)



「あら、その肩……千坊、怪我をしたの?」

「ん、ああ。松寿のところへ行く途中、山県のところの重房とやりあった」

 不安げに傷を見つめる祖母を心配させまいと、肩をぐるぐると回して見せる。

「山県の坊主とやりあったのか。して、殺したか?」

「あちらの親父が割って入った。勝負は分けたよ」

 興味深げに事の仔細を問い詰めてくる基爺に、経友は丁寧に状況の解説をしながら、その時のことを振り返って見せた。

「成る程なあ。相も変わらず馳せ弓もできぬとは……まこと無粋な弓の射方をするもんだ」

「だが、強力に磨きはかかっていた。だから、避けきれなかったんだ」

 重房が放つ弓の威力には、経友も素直に舌を巻いた。だからこそ、このような弁明をして見せたのだが、

「それは単なる修練不足よ。その証拠にだな」

 とその弁明を軽く切って捨てると、ごつごつとした手の甲で経友の胸をかるく小突いてきた。

「お前、みぞおちを蹴られたと言ったな。それは良くない。日頃、申し合わせの鍛錬しかやっていない証拠だ」

「あっ……」

「これについては、豊国の大手柄だな。俺の孫を良く救ってくれた」

 言って、基爺は庭先に繋がれていた豊国の青々としたたてがみを優しくさすった。豊国は心地よさそうに一声いななくと、その感触を堪能するように静かに目をつぶる。

「ははは、可愛いやつめ。どこかかゆいところはないか? 俺が掻いてやろう」

「ち、父や兄たちとの訓練を欠かしたことはないんだ」

 ばつが悪そうに俯く経友。基爺はその様子を見て、不思議そうに目をぱちくりとさせている。

「そりゃ、お前」

 満面の笑みを浮かべつつ、基爺は自身の胸をどんと叩いてみせた。

「あんな雑魚どもだけじゃなく、たまには俺とやってみろってことだろうが」

「うぇ……基爺とか」

 思わずげんなりとする。父や兄弟たちが眼前の祖父と鍛錬を行わない理由は一目瞭然である。領内経営の仕事は山ほどあるというのに、日頃の鍛錬で大怪我をしてしまっては元も子もあったものではない。

 そんな心が透けて見えたのか、基爺は愉快そうに目を細める。

「だが、(たま)ちゃんは良く挑んでくるぜ」

「いや、あいつはまだ物の道理が分からないからだろう」

「うんや、あの娘はいずれ兄どもを超えるね。今を時めく巴御前、槍を振るえば男も怯える。だが、色男には滅法弱い」

 言って、再びげらげらと笑い転げる。

 本当にこの爺は人生を楽しく謳歌しているものだと、経友は深いため息をついた。

「んで、どうするね。鈍っているようだし、鍛えてやってもいいんだぞ」

「んー……」

 にやにやとこちらを眺める基爺のことはさておいて、今の経友には一つ気がかりなことがあった。

 松寿を取り巻く不穏な情勢のことだ。

 志道の面持ちから察して、この問題は決して容易く解決するようなものではない。最悪、毛利家中で血が流れる可能性すらある。

 経友はしばし考え込むと、意を決するように口を開いた。

「んじゃ……頼むかな」

「ほぇ?」

 基爺が意外そうな声を上げる。

「何でそこで驚くんだよ……」

「いや、普通は断るだろう。お前どっかで頭でも打ってきたか?」

「そんなんじゃないさ。ただ、松寿のところがきな臭くてだな――」

 と、言いかけたところで自分の迂闊さを深く責めた。

 自分を見つめる複数の視線があからさまに、獲物を見つけた猛獣のそれに変わっていたからだ。

「へぇー、へぇー。お前がなあ」

「あらあら」

「兄者かっけー」

 慌てて彼らが自分をからかう前に先手を打とうと、口先から泡を飛ばす。

「何だその目はッ! てか、ごくごく自然に混ざってくんな玖!」

 と、いつの間にか祖母の隣に引っ付いていた妹に矛先を向ける。

 ところどころ癖の抜けていない短髪に、何処か眠たげな猫目がびくりと揺れた。

 経友は妹の様子に普段と違ったものを見つけて、胡乱げに視線を投げかける。

「お前、その格好どうしたんだ?」

 今の玖は普段と比べて随分と動きやすそうな格好をしていた。

 薄手の小袖に、短めの袴。余所行きにしても自宅でくつろぐにしても父母が顔をしかめること間違いなしといった風体である。

「んー、ちょっとね」

 口ごもる玖の頭を祖父母が我先にと撫でていく。彼ら二人にとって、この末の孫娘は可愛くて可愛くて仕方がないらしい。

「あら、玖ちゃんおかえり」

「うす」

「玖ちゃん、成果はどうだったよ」

「んー、ぼちぼちかな」

 玖は気持ち良さそうに祖父母の手に身をゆだねながら、手に持った野鳥を控えめに掲げた。

 白い羽毛に、大きな翼。経友はそれを見て、思わず声を上げる。

「お前、その鷺は自分で仕留めたのか」

「まーね。馳せ弓もあらかた覚えた。半弓だけど」

 事も無げに言う玖を見て、経友は絶句した。

 馳せ弓とは馬を駆けさせながら弓を射る技術であるが、一朝一夕でできるようなものでは断じてない。熟練の武者であっても手こずる技術を、この娘はあらかた覚えたと平然な顔で言っているのだ。

 まさに尋常でない才能であった。

「ほら。だから言ったろ? 玖ちゃんは、そこいらの不出来な野郎どもとは一味も二味も違うんだよ」

 自慢げに口の端を持ち上げる基爺に同意するように、経友も低く呻く。

「あたしのことはどうでもいいんだけど、さ。それより兄者。さっきの話は本当?」

「何のことだよ」

「だから松寿姉のためにって奴」

 それくらいすぐに理解しろといった風に、玖が半眼で見上げてくる。

 経友は思わず後ずさりしながら、ぼそりと小さく答えた。

「松寿の周りが不穏になっている。ただではすまないかもしれない」

「戦か。相手はあの色男?」

 玖はそう言うと、両手で目を吊り上げて相合四郎元綱の顔まねをしてみせた。

 そのあまりの滑稽さに思わずぷっと噴き出す。

「そういや、四郎殿はお前のお気に入りだったっけ」

「んー、駄目だね。顔は合格。でも、あれに兄者の向こう見ずさと、兄者を超える弓の腕前がついてきてくれなきゃ」

 腕組みをしながら真剣に考え込んだ結果が、その返答であった。

 何故自分がそこまで評価が高いのか、さっぱり分からない。

 経友は困ったような顔を浮かべて、わしゃわしゃと頭を掻いた。

 そもそも、元綱はそう悪し様に言われるほど悪い男ではない。

 自分よりも年下だと言うのに文武両道を兼ね備えた才人だと思う。いや、天才であると言っても良い。

 何をするにも飲み込みが早く、幼い頃などは弓の腕前ですら経友に勝っていたほどだ。

 そう答えてやりたかったが、答えられなかった。

 素直に口に出してしまっては、武芸だけに精を出してきた自分がひどくちっぽけな人間になってしまう。そんな気がしたのだ。

 経友が何と答えてよいものか悩んでいると、玖がそのまま続けてくる。

「でも、何でお家騒動になんてなるのさ。四郎はともかく、松寿姉はそういうの好みじゃないだろうに」

「そうだなあ」

 玖の疑問に、基爺が顎に手を当て空を見上げた。

「久しぶりに娘の顔を見るのも悪くはない。多分黒幕はあいつだろうから会いに行ってみるか?」

「誰のことだ?」

 経友がそう返すと、基爺が待ってましたとばかりに笑顔を見せる。

「決まっている。出雲の主。尼子経久のところさ」



二、

 小倉山に帰還してから数日後。

 両親の許可を得た経友たちは、駆け足で出雲の国、尼子家の本城へと向かっていた。

 瀬戸内の安芸から、日本海に面した出雲へと向かう――聞けば、大変な長旅に思えるかもしれないが、実際のところ、両者は驚くほど近しい関係にある。

 その理由は、今経友たちが通っている街道にある。

 中国山地の合間を縫うようにして縦断しているこの道は、西国における物流の要として機能していた。

 山道だと言うのに、行き交う人の姿が途切れることはない。

 彼らのほとんどが、鉄の運搬を生業とする馬借(ばしゃく)であり、彼らから徴収している通行税は、国人たちの貴重な収入源になっていた。

 経友が興味深そうに、黙々と荷を運ぶ彼らの後姿と塩気の混じった湖を交互に眺めていると、行く先に尼子の本拠地である月山城が見えてきた。

「相変わらず立派な城だなあ」

 経友たちの城とは比べ物にならない。雄大にそびえたつ月山全体を強固な要塞に改造しており、何人たりともこれを攻め落とすことなどできはしないと思わせるだけの威容をかもし出していた。

「元々の地勢も良かったが、これほどの城を築くことができたのは、間違いなく経久の手腕だろうな」

 基爺も首を何度も縦に振って同意する。

 爺の言うとおり、尼子の経済力はこの西国においても群を抜いていた。

 元より出雲は良質の鉄資源に恵まれた土地であり、更に隣国から時折産出される天然の銀も彼らの潤沢な資金源の一翼を担っている。

 このように出雲はただでさえ恵まれた地勢にあると言えるのだが、尼子は更に宇龍湊や街道の整備を活発に行うことで、内政基盤の拡充を図っていた。

 そして、これらの施策は概ね成功していると言って良い。

 少勢に過ぎない尼子が、西国の覇者たる大内相手に互角の戦いを続けていられることがその証であろう。

「結局のところ、渡世の沙汰は銭次第よ」

 皮肉めいた笑みを浮かべる祖父の言葉に頷きながら、経友は松寿のことを思い浮かべていた。

「それ、松寿も言っていたな。尼子の工夫は素晴らしいとか誉めそやしていた」

「松寿ちゃんが?」

 基爺が感嘆するように口笛を吹く。

「珍しい考え方なのか」

「まあな。俺たちのような猪武者は、戦の巧拙でそのものの価値を計りがちだ。その視点をもてる人間てのは中々いないものよ」

 経友は、常日頃は何をするにも鈍臭い幼馴染の泣き顔を思い浮かべながら首を傾げた。

 どうにも、基爺の言うような凄い人間であるとは思えない。無論、他人から笑われるような人間でもないという前提に立った上での話だ。仮に彼女を嘲るような愚か者がいようものなら、自分が黙ってはいない。

 そのようなことを考えていると、基爺が力一杯背中を叩いてきた。

「松寿ちゃんは得がたい女だぜ。大事にしてやんなよ」

 戯れとは言え、祖父の鍛え上げられた豪腕で背中を叩かれたのだ。経友は酷くむせると、涙目になって抗議した。

「げほっげほっ……変なこと言うなよ。ついたみたいだぞ」

「おお、そうかい。んじゃまあ、久しぶりに娘夫婦の顔でも拝見するかねえ」

 基爺はそう言ってにやりと口角を持ち上げると、月山城へと向き直った。



 当主屋敷の奥へと通された経友たちは、尼子家一同から盛大な歓待を受けていた。

 目の前には贅を尽くした料理と澄んだ酒が並べられており、家中の主だった面々が稲穂のように頭を垂れている。

 まるで、異国の王を歓待しているかのような対応であった。

「御加減いかがでございましょうか。御父上」

 月山城の主が深々と平伏する。

 老いの見える相貌に、几帳面に整った口ひげが微笑ましそうに揺れていた。

 とても数カ国に跨る広大な領土の主には見えないほど、謙虚で慎ましやかな姿である。

 経友は彼の振る舞いを見て、ごくりと唾を飲み込んだ。

 目の前で頭を垂れている小さな老人。

 彼こそ、西国にその名をとどろかせる大大名、尼子経久その人である。

 主家である京極家から領国の支配権を奪い取った下克上の徒。

 謀聖、鬼神……、彼を表す二つ名は星の数ほど存在するが、そのいずれもが他者の心胆を寒からしめるものばかりだ。

 実際、彼の名を聞くだけで震え上がる大名も多いと言う。

 どれほどの英傑なのかと気構えしていただけに、経友は想像と異なる経久の姿に戸惑いを感じていた。

「又四郎も元気そうだな。俺より先にくたばったりするなよ」

 これだけ盛大に歓迎されて尻込みしている経友とは対照的に、基爺はすっかりと腰を落ち着かせてしまっている。

 音を立てて酒を胃袋に流し込み、料理に舌鼓を打っては、楽しそうに笑う。

 我が家に居る時とそう大差のない振る舞いだ。

 経友はこれも豪胆さのなせる業かと、少し呆れてしまった。

 幼名で呼ばれた経久が恭しく顔を上げる。

 基爺のあけすけとした態度に好ましさを覚えているのだろうか。

 経久の顔から笑顔が絶えることはなかった。

「しかし、御父上が私の元を訪ねてくださるとは少々意外でした。周防のお方にとっては面白くないでしょうに」

「今更この老いぼれが何したところで、御屋形様に影響なんざないだろうよ。それに……」

「それに?」

「俺が来なきゃ、うちの息子が訪ねて来ただろう?」

 その一言に経久の笑顔が凍りつく。彼の変化に気づいているのか、基爺は酒をちびりとやりながら、にこやかに続けた。

「どうした? お前にしては随分と急いでるじゃないか」

「は、そろそろ鬼の戻ってくる頃合にて」

 鬼とは何を指すのだろう。経友には彼らの会話がいまいち理解できなかった。

 尼子家中の者たちはどう思っているのだろうか。そう思って見回してみると、同席している重臣たちは静かに眼を閉じて二人の会話に耳を傾けているようであった。

 場に緊張感が漂っている。折角の料理も、とても無視して食べられるような空気ではなかった。

「成る程、石見か?」

「左様。博多の動きが少々奇妙でしてな。盛んに唐国へ働きかけておりまする」

「流石のお前も狼は怖いか」

「いやいや、狼などより余程恐ろしゅうございます。あれは虎です。……とは言え、尻に火がついてはかないませぬなあ」

 何処となく含みを持った会話が淡々と続けられていく。

「ふうむ」

 基爺が杯の中で波打つ酒を見つめながら、静かに呟いた。

「避けられんか」

「そうですなあ」

 張り詰めていた空気がにわかに弛緩していく。経友は安堵するようにほうっと息を吐いた。

 その吐息を耳にした基爺が、この話はこれまでとばかりに勢い良く拍子を打つ。

「やや、いかん。折角の宴席だというのに場を白けさせてしまったな」

「いやいや……この者どもは皆、御父上に憧れておりまする。今も一言一句聞き漏らすまいとしているだけにございましょう」

「がはは、そんな面白いもんでもないだろうに」

 豪快に腹を揺する基爺の前に、重臣の一人がすすっと座りながら詰め寄り平伏した。

「尼子家中、駿河守様ご一同に対して謹んで歓待の意を申し上げまする。どうか、ごゆるりとお過ごしください」

野洲やすも息災で何よりだ。相も変わらず、その腕前は確かか」

「駿河守様の御前で披露できるほどにはあらず。まことお恥ずかしい限りにございます」

 野洲と呼ばれた重臣が、相好を崩す。

 経友もこの重臣とは面識があった。安芸に何度か足を運んできたことがあるからだ。

 彼の名前は尼子久幸。尼子の当主経久の弟であり、西国最強と名高い戦闘集団である新宮党しんぐうとうを率いる英傑である。

 その影響力は計り知れず、当主に匹敵する発言力を持っていながら、決して自分の力をひけらかすようなことをしない好漢であった。

「そうしたいのも山々だがな。馬鹿息子どもが心配でおちおち寝てもいられん。明後日には発とうと思っておる」

「それは残念にございまするな……」

 心底無念だとばかりに、野洲が白髪の混じった眉を八の字にする。

 感情を包み隠そうとしないことが野洲の魅力だろうと、経友は日頃から考えていた。できることならば、自分もこのような人間になりたいものだ。

 自然と表情を綻ばせながら、経友は料理にようやく箸をつけることにした。

「何だ、今から箸をつけるのか。折角の料理が冷めてしまうではないか。飲めや飲め」

「そうじゃ、千若。血が繋がっておらぬとは言え、主のことはわしも孫のように思っておる。そう畏まらずにくつろぐが良い」

 口元に飯粒をつけながら箸を向ける基爺に、経久も同意するように続ける。

「それでは、御言葉に甘えて頂きます」

 そう言って手を合わせると、経友は寛大な尼子の当主に感謝しながら舌鼓を打った。


三、

 分厚い入道雲が彼方に見える盛夏の正午。月山城の馬場に、二人の気炎が競うように立ち上がっていた。

 対峙しているのは、経友と野洲である。互いの手には九尺あまりの木槍が握られていた。

 経友は野洲に対して、何時でも喉を突けるように刃先を向けている。対する野洲は、腰を落としてこちらの動きを窺っていた。

 経友が口惜しそうに唇を噛む。

 油断なく構える野洲の何処にも付け入る隙が見つからない。いや、祖父ならば見つけることができるのかもしれないが、少なくとも今の自分には隙を見つけることができなかった。

 ならばと、意を決して地面を蹴る。

 隙がなければ作り出すしかないではないか。

「ハッ!」

 一足飛びに間合いを詰めて、突きを放つ。

 堅木のぶつかり合う音が、馬場に響き渡った。

「ふむ」

 経友渾身の一突きを、野洲は掬い上げるように振り払って間合いを取る。

「悪くのうござる」

 重ねた歳の割りには意外なほど澄んだ瞳でそう投げかけてきた。その声には明らかな余裕が見て取れる。

 この男はまだ実力の半分ほども見せていないのだろう。怖れるより先に、敵の手の内を引き出せぬ自身の未熟さに腹が立った。

「学ばせて頂く……!」

 そう語気荒々しげに言い放つと、崩れた体勢を立て直して、もう一度構える。

 分かってはいたつもりであったが、自分と眼前の勇者とでは、その実力に雲泥の差があった。

 元々自分は槍という長物が得手ではない。祖父が弓を得意とすることもあってか、その後姿を追いかけて弓にばかり情熱を注いできたのだ。

 だが、先日の重房との戦いもそうであったように、何時でも望みの得物を手に持って戦えるわけではない。

『何でも試してみた方がいいんじゃないか?』

 基爺のそんな一言が、此度の稽古に繋がった。

 何度も深呼吸して、それから眼前の先達をじっと見据える。

 敵の力を冷静に把握できなければ、学べるものも学べまい。そう考え、経友は狐のように眼光を研ぎ澄ませ、手元だけではなく野洲のあらゆるところに注意を払うことにした。

 刃先を前後左右に揺らして、相手の出方を慎重に観察する。

「む?」

 いぶかしむように、こちらの変化に身構える野洲。

 一通り眺めたところ、野洲が支配している空間はおよそ前方半円状に広がっている。その何処を突いても振り払われてしまうであろうことは、先ほどの立ち回りで明らかであった。

 そもそも槍のような長物は、防御に優れた特性を持っている。野洲はそれを熟知した上で、手本のような動きを見せているに過ぎないのだ。まさしく後の先の王道。だが、それゆえに厄介でもあった。

(ならば、真似るか)

 ふっと短く息を吐くと、今度は手を変える。経友は野洲と同様に迎撃の姿勢をとることにした。

 自身が迅速に対応できる範囲は、およそ狭い扇形になっている。

 野洲の半円に比べるといささか心もとないが、それは修練の差である。今悔やむべきことではない。

「成る程」

 野洲が納得したように、口の端を持ち上げる。

 それからの展開は、言うなれば陣取り合戦と言うべきものであった。

 互いに中心を取り合うように槍をぶつけ合っては、敵の支配空間を左右に揺らす。

 これはただの打ち合いよりも数段疲れる作業であった。

 間合いの出入りが起こるたび、両者の槍が交錯する。

 絡み付くような手練の早業に何度も挫けそうになりながらも、経友は歯を食いしばって食らいついていった。

「うっ……」

 だが、次第に野洲の巧みな槍捌きが、経友の空間を脅かしていく。

 支配空間の差が如実に現れ始めたのだ。

(修練の差は仕方ない……だがッ)

 気を持ち直して、その時を待つ。

 気が逸り、全身から滝のように汗が吹き出てきた。

(まだ我慢だッ……)

 傾き始めた天秤が一気に野洲側へと落ち込むも、経友はまだ息を呑んで動かない。

(ま、まだ……)

 神速一閃。

 ついに野洲の一撃が、経友の空間を完全に薙ぎ払った。

 迫り来る電撃のような素早い突き。

 体重を乗せたこの突撃に、経友はもう槍で対応できない。

 身体を反らして間合いを取ろうとした所で、続く薙ぎ払いで叩き潰されるだけだろう。

 ――だから、経友はその身を敢えて敵の懐へと一歩前へともぐりこませた。

(ここだッ!)

 会心の笑みを浮かべる。

 起死回生の機会は、もうこの機を置いて他にない。

 槍は長物である以上、近間が死角になってしまう。懐にさえ入り込んでしまえば、野洲の槍は無力化することができるのだ。

 野洲の目が大きく見開かれ、驚きをあらわにしている。

 その表情が、経友の判断が正しかったことを暗に示しているように思えた。

「せいやッ!」

 鋭い呼気とともに、身体を巻き込むようにして力いっぱい蹴り上げる。狙いは野洲の脇腹だ。

 重房にやられた戦法そのものであったが、ここまで上手くいくものなのか。経友は内心喝采した。

「御見事」

 結論から言えば、経友の期待するような結果が訪れることはなかった。

 野洲は短く賛辞の言葉を呟くと、経友に向かって更に踏み込んだ。

 両者が肉薄する。

 驚愕する経友に、至極平静な眼差しを向ける野洲。

 そしてそのまま身を翻し、槍の刃先ではなく石突きを経友の頭上に振り落とした――と後で基爺に聞かされた。

 というのも、その前後の記憶が定かではないからだ。

 届いたと確信したのに、その実全く届いていなかった。経友の意識は悔恨でその内を満たしながら闇に沈んでいった。



「あれは虚をついた見事な攻撃であったと思う。修練の行き届いておらぬ若武者では対応できんだろうな」

 野洲の寸評に耳を傾けながら、経友は馬場の隅で二人と握り飯を食べていた。

「耳が痛いだろうなぁ、千坊」

 基爺が面白そうに経友をからかってくる。

 笑いをこらえるように身体を震わせる様が、経友の癇に障った。

「うっせ」

 腹立たしげに小石を投げる。

「おっと」

 が、容易く避けられてしまう。傘寿を過ぎて、なおもこの素早さだ。

 経友は自信を粉々に打ち砕かれた気がして、長いため息をついた。

「駿河守様、そう悪し様に言うものではありませぬ。千若殿は良く修練を積まれている」

「そんなもんかねえ」

 基爺が不満そうに口を尖らせる。

 経友はそんな祖父を半目で睨み付けながらも、野洲に褒められて内心悪い気はしなかった。

「はい。敵の動きから学んで、即座に我が振りを直すなど中々できるものではない。あれには本当に驚かされた。尼子家中の若武者に、千若殿のような者がいてくれれば……と、心底感じ入ったものです」

「まあ、付け焼刃の槍捌きにしては悪くなかったとは思うがね」

 基爺もあさっての方を向きながらも、髭を指で弄びながら同意してくれた。

 彼らの評価を聞き、経友も肩の荷が下りたとばかりに安堵する。

 自信がなかったわけではないが、わざわざ出雲くんだりまで来て、恥を晒したくはなかったのだ。

「千坊、野洲の動きは学べたか?」

「うん。高度すぎて分からなかったものも多いけど、円の保ち方……って言うのか? あれは覚えたよ。帰ったら槍の修練もしようと思う」

 その言葉に、野洲が表情を綻ばせる。

「そうしませい。千若殿なら、修練次第で槍名人にだってなれるだろう」

「馬鹿。円も確かに学ばにゃならんことだが、そこじゃねえ」

 基爺の渋い返答に肩を落とす。

「そうか。お前気を失っていて、仔細を見ていなかったんだな。情けねえなぁ」

 呆れたようにそう続けると、置いてあった槍を手に取り、ため息混じりに立ち上がった。

 そして、先ほどの戦いで野洲が見せた動きを再現してみせる。

「良いか? 野洲は近間の千坊相手に石突きを叩き付けた。槍の死角が近間だと勘違いしたお前の不覚を見事に突いてな」

 不承不承、経友も頷く。

 正直、槍にあのような使い方があるとは知らなかった。

「槍の死角は手元。確かに不心得者相手ならば、その理屈は通じるだろう。だが、熟達した名人相手にそのような甘えは通じない」

 更に槍の持ち方を度々変えてみては、様々な間合いでの立ち回りを演じて見せる。

「……すごいな」

 祖父の華麗な動きに、思わず経友は目を見張った。野洲とて同様であったようだ。眼前で繰り広げられる古武士の演舞を目に焼き付けようと、食い入るように見つめている。

 その所作は軽やかでありながら、一切の無駄が感じられない。まるでアメノウズメが舞踊に興じているようであり、唐国の英傑たるやとでも言わんばかりの風格を備えていた。

「つまり、どのような得物とて熟達すれば死角などあってないようなものだということだ。お前は器用じゃない。だから、弓でそれを目指せ」

「えっ?」

 無理難題にしか聞えなかった。とんち話でも聞いているようだ。弓で近接戦闘などできるわけがないではないか。

 経友が文句言いたげに問い返す。 

「なら、基爺は弓で潜り込まれた時にどうするんだよ」

「そりゃ知らねえよ。俺は不覚の接近なぞ許したことがない」

 事も無げに言い放つ祖父の一言に、当てが外れたように気落ちする。

 そもそも、祖父の常識に自分を当てはめて何かをしようとすること自体が間違いなのだ。自分なりにできることをやっていくしかない。 

 そんな経友の諦めが透けて見えたのか、基爺は不満げな表情で口を尖らせ、やがて思い出したように口を開いた。

「あー、だが近間での技も知らないわけじゃないな。良い機会だから教えてやろう」



「おーい、良く見てろよ」

 飄々とした表情で、馬上の基爺が二人に声をかけてくる。

 構える弓は八尺五寸。かの弓の名手、鎮西八郎為朝の愛用していた弓と同じ太さのものである。

 あのような強弓で矢を射られれば、並みの具足など容易く貫通してしまうに違いない。噂に聞く唐国の鳥銃(てっぽう)などよりも威力は上なのではないだろうかと感じさせるほどの迫力だ。

「んじゃ、行くか」

 短く告げると、基爺は矢を番えて馬を走らせた。

 目標は馬場中央に置かれた巻き藁である。

 基爺は馬を縦横無尽に跳躍させながら、目標へと向かっていく。

 白い体毛が輝いて見える。

 その脚には風が渦巻いているようで、その背には羽根が生えているようであった。

「天馬に化けたか……」

 野洲があふれ出る感動を素直に口に出した。

 いくら名馬を駆っていたとしても、並みの武者が操ったところで、あのように軽やかな動きはすることは不可能である。

 しかも、祖父が今駆っている白馬は吉川のものではない。恐らく名馬ではあろうが、先ほど尼子に一頭借りたのだ。

 慣れないはずの馬を手足の如く操る――経友は、今日この瞬間ほど祖父の実力に畏敬の念を抱いたことはなかった。

「よっ」

 軽やかな声が巻き藁の目と鼻の先まで近づいた。

 近間に入ったのだ。

「さあ、どうするッ……?」

 固唾を呑んで見守る二人。

 基爺は、そのまま馬を駆けさせると――すり抜けるようにして回り込んだ。

「あっ」

 神速の早業。

 気づいた時には、巻き藁の背に矢が一本深々と突き刺さっていた。

「お、押し捩り(おしもじり)……」

 野洲が呻くように呟いた。

 押し捩りとは、熟達した騎馬武者が矢合わせの際に見せる基本技術である。

 馳せ弓は一般的に追う方がやりやすい。故に騎射戦闘において、後ろを取られることは致命的と言える。

 押し捩りは、体をひねることで射向けの袖を相手に露出させる。こうして敵の矢を防御しながら、後方への射撃を行うのだ。

 いわば防御のための技であった。

「それをまさか、攻撃の虚を作るために使うとは……」

 開いた口が塞がらないとはこのことだった。

 往古の名人には使い手がいたのかもしれない。だが、恐らく今生きている武者どもに、これができるとは到底思えない。少なくとも経友は知らなかったし、野洲にしてもそれは同じように見えた。

「どうだ。見惚れたか?」

 太陽の香りがする笑顔でこう言われてしまっては、経友も何も言えない。

 ぐうと一声唸ると、経友は俯いてしまった。

「まあ、暇のある時にでも練習してみな。せっかくの必殺技その壱なんだ。俺の代で途切れさせちゃ勿体無いだろう」

「ひ、必殺技……?」

「そう! 必ず相手を殺す技と書いて必殺技だ。俺がこれを使えば、椿の花のように敵の首が落ちてな。だから、この技を椿落とうらくと……」

「え、縁起でもないこと言うなッ」

 青ざめた顔で頭を抱える。

 つい先日、松寿に椿の花をかたちどった髪留めを送ったばかりである。こんなことなら別の飾り物を送ればよかった、と経友は心底後悔した。

 そのやり取りを傍から眺めていた野洲の頬が緩んでいく。

「……千若殿は幸せ者だな」

「……何故です?」

 怪訝そうな眼差しを野洲に向ける。

「騎馬の乱舞に、先ほどの椿落……だったか。これらは全て弓馬の道における到達点だ。駿河守様程のお方直々にご指導を受けながら、その奥義を肌に感じる機会なぞ、公儀の将とて得られるものではないのだぞ」

 言われてみると、確かに自分は他の者より恵まれている気がする。祖父だけではなく、野洲のような先達や重房のような好敵手もいるのだ。

 そう思いなおした後、経友は落胆したようにため息をついた。

「確かに機会には恵まれているのかもしれません。だが、基爺の言うことは一々難解だ。せめて俺に才がもう少しあったなら違ったのかもしれませんが……」

 経友は自分に才があるとは思っていない。才能に溢れた者というのは、妹の玖や元綱のような人間を指すのだ。

 不意に幼馴染のことが思い浮かんだ。

 あのおどおどとして自信なさげな仕草に、経友はいつも呆れてものも言えなかったのだが、

(もしかしたら、松寿も同じような気持ちだったのかもしれないな……)

 できた親族を持つと言うことは、つまりはそういうことなのだろう。

 経友は何だか今まで辛く当たってきたのが急に申し訳なく思えてきて、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「なに、千若殿には先がある。これからゆっくりと腕を磨いていけば良いのだ」

 何度も頷きながら、野洲が励ましてくれる。

「そうはいかない。それでは間に合わない」

 焦れるように発したその呟きは、野洲にとって随分と意外なものであったらしい。

 ほう、と一言声を上げた後に、彼は納得したように目を逸らした。

「ああ、そうか……千若殿も感じ取っているのだな。この乱世がこのまま終わるはずがない、と」

 彼の見つめる瞳の先には何が映っているんだろうか。

 経友がそのようなことを考えていると、基爺が突然思い出したように口を挟んだ。

「そうだ、千坊は又四郎に聞きたいことがあるんじゃなかったか?」

「あっ、そうだった」

 不覚だった。そもそも出雲までついて来た理由の一つは、毛利家への縁談にある。

 その意図するところを聞かずして、帰ってしまっては全く意味がない。

「ありがとう、基爺! ちょっと、行ってくるっ」

「はいよう」

 手を挙げて答える基爺の顔がにやついていた。

 正直、何もかも踊らされているような気がして、余り気分の良いものではない。

 だが、折角の機会であることも事実だ。

 経友は駆け足で経久の元へ向かうことにした。


四、

「千若殿か」

 尼子経久は当主屋敷の縁側で、池の鯉に餌をやりながら書を読んでいた。

 何の書だろうか。没頭しているように見受けられるのだが、そこに感情が窺えない。

 そうして、こちらが声をかけようか悩んでいるときの一声がこれだった。

 出鼻をくじかれたようなものだ。経友はどうして良いか分からずに面食らってしまう。

「なっ……」

 こちらに気づいていたのですか。そんな一言すら、上手く言葉が出てこなかった。

 正直、二人きりでの対面は酒宴の席とは訳が違う。この男からは、祖父や野洲のような豪の者とは違った静かな迫力を感じる。その源泉は一体何なのだろうか。

「わしは臆病者だからな。周りの気配に人一倍敏感なのじゃ」

 経久がこちらの考えを見透かすように微笑んだ。

 だが、目は笑っていない。

 酒宴の時には一切気づかなかった。こうして先刻と見比べてみて初めて分かったことだが、この男は野洲と違って感情を表に出そうとしていない。

(これが出雲の尼子経久か……)

 このままでは埒があかないと内心焦れる。腹に力を込め、改めて彼と対峙せんと睨み返した。

「はは、まるで戦にでも臨むような面構えじゃな。もっと気を楽にすると良い」

 おかしそうに、経久がくつくつと笑う。

 これだけの気を発して必死に向き合っているのに、経久の態度はのらりくらりとしたものであった。

 このままでは、はぐらかされてしまう。

 危機感を覚えた経友は、こちらの気持ちが折れてしまわない内に用件を切り出そうと口を開いた。

「お、お話があります!」

「ほう?」

 初老の眼差しにかすかな興味が見え隠れする。

 おかしなものだ。先ほどの宴席の方が、彼は余程友好的な態度を取っていたはずだ。

 それなのに、今の方が眼前の男の心中に迫っている気がした。

 水が静かに流れる音を聞きながら、両者の間に沈黙が訪れる。

「どうした、千若殿。わしに何か用かな?」

「も、毛利との縁談について! 経久公が意図されるところをお聞かせ願いたく参りましたッ」

「ふむ……」

 経久はしばし考え込むようにして顎に手をあて、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。

「単純な話よ。味方は多い方が良い。吉川と縁戚関係にあるように、安芸の国人をまとめあげている毛利家と誼を通じたいと考えた――どうじゃ、不自然ではなかろう?」

 言っていることは至極尤ものように感じられた。

 だが、何かが引っかかる。

 そのような単純な足し算ではない何かが、彼の頭の中で計算されているように思えるのだ。

 だが、それを引き出す手段がない。

「何も、縁談でなくても……」

「それは吉川の干渉か?」

「い、いえっ」

 経久の静かな声色に鬼気迫るものが入り混じる。

 重大な失言であった。慌てて、これを否定するように首を横に振る。

 経久はその様子を見てにっこりと微笑むと、

「全ては毛利が決めることじゃ。わしが決めることではない」

 この言葉により、経友はこれ以上追求することができなくなってしまった。

「う……」

「話は終わりかの?」

「あ、いや……」

 ここで終わらせてはならない。尚も食らいつく経友の様子を見て、出雲の主は口の端を歪めた。

 とその時、重臣の一人が手紙を片手に慌てた様子で駆け込んできた。

 がっしりとした体格にいかめしい面構え。この男の名前は亀井安綱。尼子家の柱石の一人である。

「御屋形様」

「何じゃ武蔵……後にせい。わしは今、千若殿に稽古をつけてやっているのじゃ」

「いえ、それが……」

 言って安綱は小声で耳打ちをし、経久に手紙を渡した。

 そのやり取りを見ていた経友は驚愕する。

 始めは面白くなさそうに目を走らせていた経久であったが、次第に眼を輝かせ、仕舞いには声を出して笑い始めたのだ。

「くくく……ははは……あっはっはっは!」

 耳打ちの内容は聞き取れなかった。

 だが、経久の相好はこんな愉快なことはないとばかりに崩れていた。彼の心をここまで揺さぶる手紙が尋常な内容とは、とても思えない。

「千若殿」

「はっ……!」

 慌てて表情を戻して言葉を待つ。続く言葉は経友にとって予期せぬものであった。

「喜べ、千若殿。毛利の姫君が縁談を断ってきよった」

「あっ……」

「しかも、当主となる決意表明まで添えてくるとはな。毛利元就、良い名ではないか」

「毛利、元就……?」

 松寿が名を変え、元就となった。この事実は意外なほど経友の心を揺さぶった。

 断ると言うところまでは、直接意思を聞いていたので理解ができる。

 だが、改名となると話は別である。

 改名は男の風習だ。たとえ建前上でも、忌み名をつけるということは男になると言うことと同義であると言える。

 その意味するところは決意。

 武家のしきたり上、男性しか相続できないとされる家督を継ぐという決意の現れに他ならない。

 あの気の弱い松寿が、何故そこまで大きな決心をしなければならなかったのか。

 経友にはその答えが見出せそうに無かった。

「大内にも尼子にも媚びへつらっておらぬ……実に愉快な名じゃ。しかも友好的に接する用意があると……成る程、兄の死をそう用いるか」

 反芻するように『元就』の二字を何度も繰り返すと、経久はこちらを向いて表情を変えた。

「主の差し金か?」

 周囲の空気がざわめくほど、強い語調でそう投げかけてきた。

 卒倒しかけない覇気に眩暈を起こしそうになる。だが、経友は耐えた。唇を真一文字にぎゅっと結んで、必死に押し黙り続ける。 

 吉川が他家の外交に表立って干渉したとあれば、これはただ事ではない。吉川と尼子の関係は即座に崩れ、戦に発展するだろう。

 だから、ここは死んでも是と口に出してはならない。

 無言の圧力に晒されながら、幾ばくかの時が流れる。

 不意に覇気が弱まった。

 怪訝に思いながら、経久を見上げる。

「千若殿は松寿姫を好いておるのか?」

 とても優しげな声色だった。それは今までにないほど感情に溢れた声色で、この男の心に最も深く迫ったような感覚さえ覚えた。

「あ、いえっ。それは……そのっ……」

「まあ、良い。惚れた腫れたも世の習いじゃ。若いと言うのは良いものじゃのう」

 目をつぶり、ゆっくりと頷くその様は年齢相応の朗らかさをかもし出している。

 大名ではなく、ただの老人。これがこの男の素面なのだろうか。戦国の大大名尼子経久に、このような一面があるとは余人の誰にも想像できまい。

 しかし、経久はこう続けた。

「だが、困る」

「えっ……?」

「元就は困る、と言っておる」

 再び経久の表情に、尼子家の当主としての威厳が現れる。

「あの者が当主に就けば、毛利は必ず伸びる。これは尼子にとって歓迎すべきことではない。だからこそ、手元において腐らせておこうと思っていたのだがのう」

 だんまりを通していた経友も、流石にこれには黙っていられなかった。

「お、怖れながら申し上げます……! あ、あいつはとても弱い奴なんですッ。猿掛にいた時だって、心無い家臣から城を追い出され、あなぐら住まいの時だってありました。そんな弱虫が経久公に弓引くなどとてもありえませんッ!」

 決死の抗弁に、経久はゆっくりとかぶりを振る。

「弱さで兵家を論じることはできぬ。至弱とて、至強を食らうことがあるのだ」

「で、ですが……!」

「くどいッ! 吉川が我らの戦に口出しするかッ!」

 老人の両眼が、カッと目を見開かれる。

 そのあまりの剣幕に、まるで身体が消し飛ばされるような気がした。

 だが、ここで負けてはいられない。

「……吉川ではありません」

「何ぃ?」

「た、ただの千若経友として……つ、経久公に……じ、直訴申し上げておりますッ!」

 庭の砂利に額をこすりつけ、経友は必死に直訴を試みた。

 ここで折れてしまっては、尼子家はあらゆる手段を用いて毛利家への介入を試みるだろう。

 松寿が首を縦に振らない以上、それは暴力的なものにすら変わりうる。これすなわち、松寿への害意だ。

(井上なんたらが松寿を城から追い出した時、あいつどんな顔してたっけな……)

 柊の香りが、つんと鼻をついた。

「ほう、つまり貴様は吉川の一族としてではなく、何処の馬とも知れぬただの若造として、この尼子経久に講釈を垂れていると、そういうことか?」

「……左様にございます」

 言ってしまった。もう首を切られても文句は言えない。経友は静かに裁決を待った。

「ふむ」

 経久が考え込むように、静かに唸った。

「ここまで無理を通した男は久しぶりじゃ。面白い。その意見認めてやる。毛利への介入を改める気はない。だが、それと同時に貴様一人がそこかしこで動く分には何も言わぬ」

 経友は、その言葉にはっとなっておもてを上げた。

「好きに動くが良い。ただし、吉川の力を借るようなことがあれば……即刻腹を切れ」

 この言葉ほど待ち望んでいたものはない。

 経友は砂まみれの額を拭おうともせずに満面の笑みを浮かべた。

「しょ、承知ッ!」

 その時、経友は幼い頃に松寿へ言ったことを思い出した。

『お前をいじめる奴は、全員ぶっとばしてやるよ』

 ぶっとばすまではできそうになかったが、これで約束を破らなくて済むと心底安堵したのだった。







 経友がその場を立ち去った後、安綱は不愉快そうに表情をどす黒く歪めていた。

「――殺しますか?」

 その言葉に、経久は薄ら笑いを浮かべる。

「阿呆、わしの顔に泥を塗る気か。そのようなことをすれば、わしが貴様の首をはね飛ばす」

「はっ……しかし、このままでは尼子家に弓引く可能性も……」

 なおも食い下がる安綱に対し、経久は不思議そうに首をかしげた。

「何故、そう思う?」

「と、言いますと……?」

「わしは得にならぬことはせぬ。わしが、何時何処で損をしていると言うのだ?」

 言って、経久は池の鯉を楽しげに眺めていた。

「別にどう転んだって良いと言っておる」

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