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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
3/22

懐中の髪留め

一、

 潮の香りが鼻腔をくすぐる。

 瀬戸内海に面したこの(みなと)では、今日もあちらこちらで(たな)を出した商人たちが歯切れの良い声を飛ばしていた。

 道端には様々な海産物が並べられ、安芸中から集まった人々がそれを吟味している。

 元より湊の多い瀬戸内ではさほど珍しい光景ではないのだが、ここには特別人が集まっていた。

「まだか……」

 縁台に座っていた青年は苛立たしげに舌打ちした。

 竹筒に入った飯を乱暴に掻きこみながら、じっと海向こうに視線を送る。

「遅ぇなあ」

 伸びきった前髪を指でいじくり、暇をもてあます。

 もう、とうに元服して初陣も終えているのだから髪を剃っても良い頃合だが、どうにも踏ん切りがつかない。

 父には心得不足と良く罵られているのだが、猿掛の姫君に髪を褒められてこの方、中々切ろうという気が起きなかった。

 再び海向こうを見据える。

 海中に大鳥居が立っている場所など、日ノ本ひろしと言えどもここ以外にはないと祖父に聞いた覚えがある。

 鳥居の先には、こんもりとした丘のような小島が浮かんでいた。

 安芸の宮島である。

 厳島とも呼ばれるこの地は、瀬戸内においては、讃岐の金毘羅と双璧をなす人々の信仰を集める聖地とされていた。

 天を衝く弥山(みやま)に、今日も雲はかかっていない。

「船が来るけ、手前ら準備せえッ」

 湊に詰めている水夫を叱咤する鬨の声に辺りが騒がしくなる。

 船が来た。

 舳先(へさき)が悠々と波を切り進み、この湊へと段々近づいてくる。立派な水押(みよし)と大きな船体。あれはまさしく二形船(ふたなりぶね)の証である。

「来た!」

 二形船の到着を確認すると、青年はぽんと膝を打った。待ちわびていたとばかりに顔を綻ばせ、船着きに向けて身を乗り出す。

 既に船着きには人だかりができており、水夫たちがもたらす荷に興味を寄せていた。

「ちょっと! ちょっと、どいてくれ」

 青年が人ごみを肩で押しのけ、先へ先へと突き進んでいく。

 視界が開け、小舟に乗り込んだ下津井の水夫たちが、一抱えほどもある荷をせっせと降ろしている光景が目に飛び込んできた。

「あら吉川の坊ちゃん、鰯でも買いにきたんですか?」

「金吾さんか。違うよ」

 横から声をかけてきたのは、馴染みの商人であった。

 青年は振り返りもせずに、降ろされた荷を凝視する。目当てのものは、まだ降ろされていないようだ。

「はあ、鰹ですか。なら坊ちゃん、近いうちに戦でもあるんかいの」

「俺を食い気と結び付けて考えるのはやめてくれ。それと、俺は千若(せんわか)経友(つねとも)って名がある。いい加減に、坊ちゃんはやめろ」

 いい加減にしろとばかりに、隣の金吾を睨み付けた。突然のことに金吾は驚いたように目をぱちくりさせると、やがてさも愉快そうに破顔した。

「何言っちょるんじゃ。確かになりこそ立派になりましたが、坊ちゃんは坊ちゃんじゃないですか」

 にやにやと経友の体躯を上から下へとじろじろ眺めてくる。その様子に経友は憮然とした表情で、露骨に眉をしかめた。

 とはいえ、このようなことに一々かかずらってはいられない。気を取り直して再び荷に視線を戻した。

「何をお探しなんで?」

「ん、ちょっとな」

 興味深そうに問いかけてくる金吾に生返事を返す。

 降ろされた荷の種類は、数え切れぬほど多岐にわたっていた。

 ここ宮島は、信仰の拠点であると同時に交易品の一大集積地としての特性も兼ね備える。瀬戸内海で採れた魚に、九国の工芸品。そして、はるばる唐国から渡ってきた珍品の数々。九国の博多や、伊勢などと比べても遜色がないというのが、安芸の人々の誇りとなっていた。

 大量の荷箱が各商家によって運ばれていく。

 そのような中で人々の注目は、厳島家の紋が入った荷箱に注がれた。

 荷箱には各地から献上された神社への供物が詰まっている。

 人々の眼が明るく輝いた。箱が開けられ、露店に並べられようとしている。これから、あの大量の宝物が湊に集う人々に払い下げられるのだ。

 青年は、その中から目当てのものを探り当てると、並べられる前に我先にと飛びついた。

「あった! それをくれッ」

「お、おいアンタ。困るよ、こういったことはちゃんと手続きを踏んで」

「他の奴に買われたらどうするんだよ! 土下座でも何でもするからこれを買わせてくれッ」

「ちょ、ちょっと坊ちゃん。いい加減にしてくださいッ」

 荷を運ぶ水夫に食らいつく経友を、金吾が慌てて引き剥がす。普段は笑みを絶やさない金吾が珍しく怒りをあらわにしていた。その剣幕に気圧されるように、経友は目を白黒させて後ずさる。

「困りますよ、坊ちゃん。商いには商いの作法があるけ、そんなやり方じゃあたしらがやっていけない!」

「……そうなのか」

「はぁ……それで、目当てはあの唐物ですか」

 金吾は呆れたようにため息をつくと、舶来の珍品を指差した。

「そう、あの絹の髪留めが欲しい!」

 息巻く経友を、金吾が困ったように手で制する。

「でも、あれ相当の和市(ねだん)がしますよ。あのような値打ち物、一体どうするんですか」

 金吾がくだんの髪留めを一瞥した。経友もつられて視線を移す。

 べっ甲の骨に、絹で千重咲きの椿(つばき)をかたちどった飾りが付けられている。一目見ても、大陸の技術の粋が込められていることが容易に分かった。

 経友が逡巡するように低くうめく。

「確かに。だけど、あれくらいでないと、機嫌が治りそうにない」

「機嫌……? ああ、毛利の。そういえば、最近見かけませんなぁ」

 金吾の呟きに、経友が表情を暗くする。

「兄貴が死んで、あいつも忙しいからな。多治比の猿掛から吉田郡山に移るにしたって、大した手間だろう」

「あの興元(おきもと)様がねぇ。まだお若いのにお労しい」

「まあな」

 言って、北の吉田郡山へ思いをはせる。

 永正年間、大陸との貿易利権をめぐって繰り広げられた周防の大内氏と畿内の細川氏の対立は、この瀬戸内に思わぬ混乱の種を持ち込むことになった。出雲の大大名たる尼子氏の台頭である。

 尼子氏は表向きは畿内の細川氏討伐を謳っていたものの、その実密かに細川氏と繋がることで勢力拡大を図り、瞬く間に中国地方を席巻していった。

 示し合わせたように反大内の姿勢を見せ始めた佐東の分郡守護である武田氏も、もしやすると尼子と繋がっているのかもしれない。

 兎にも角にも安芸の情勢は相も変わらずに緊迫していた。

 西国の覇者の座を巡って大内氏と尼子氏が激突する中、安芸の国人領主たちはどちらかへの従属を強いられていたのだ。

 並みの器では到底耐え切れるものではない。

 松寿の兄である毛利興元はそのような厳しい情勢下で、見事な名君振りを発揮していたように思う。大内を良く支えながらも、近隣の国人たちの心を一つにまとめあげた。

 宍戸氏などの武闘派に悩まされるなど、時折文弱な面を垣間見せることもあったが、その輝きが色褪せることは決してない。

 恐らく、彼に天寿さえ備わっていれば、この国の史書にだって名を残したに違いあるまい。だからこそ――残された松寿の今後が偲ばれるのだ。

「葬儀はもう終えたのですか?」

「いや、まだだ。喪主を松寿と四郎殿のどちらが務めるかで、家中が割れているらしい」

 経友は苦みばしった顔で頭を抱えた。

 相合四郎元綱は、松寿の腹違いの弟にあたる。興元や松寿とは全く違った類の人となりをしており、性格は苛烈で上昇志向の非常に強い若者である。彼のその武辺は安芸の国中に知れ渡っており、経友の実家でも、「安芸に今義経あり」と何度も元綱のことは話題に上っていた。

 いくら松寿が年長者であるといっても、彼女は女で、元綱は男だ。家督自体は順当にいって元綱が継ぐことになるのだろうと予想できる。

 だが、妾の子が家督を継ぐことになれば、間違いなく毛利家中の力関係が崩れる。

 正室の子である興元に付き従っていた家臣たちは、今頃危機感を募らせていることだろう。

 この問題は一朝一夕で片のつくものではなかった。

「まあ、そんなことはどうでもいい。問題は実の兄が死んでしまって、松寿自身がすっかり参ってしまっているらしいってことだ」

「なるほどねぇ」

「だから、俺はあの髪留めが欲しい。あれくらい立派な出来なら、きっと喜んでくれるだろう。なあ、金吾さん。俺が談判して駄目だというなら、あんたが代わりにやってくれないか?」

 その言葉に金吾が苦笑いを浮かべる。

「先立つものがなくちゃ始まらない。おあしは、いくらまで出せるので?」

「良馬一頭くらいならくれてやれる」

 躊躇いもせずに言い放つ経友を、金吾は珍しいものでも見るように見つめ、やはり表情を崩した。

「いやはや、坊ちゃんは惚れた女に尽くす男じゃなぁ」

「ほ、ほ……惚れッ? 馬鹿を言うなッ! あいつがふさぎこんだままだと夢見が悪いだけだ。余計な詮索はやめろッ」

「はいはい、とりあえず合点承知にございます。坊ちゃんはここで待っていてつかあさい。取り急ぎ調達してきますよ」

 と、自信ありげに片目をつぶる金吾。経友は一瞬面白くなさそうな表情をしたが、すぐに安堵の息をついた。いずれにせよ、これで目的の唐物は手中に収めることができそうだ。

「まあ、助かったよ。商いごとはどうにも俺には難し過ぎる」

 と、笑顔で礼を言う。

「あれを貰ったら、あいつどんな顔するかな」

 脳裏に浮かぶ幼馴染の泣き顔が喜色に塗り替えられていく。

 経友は松寿に贈り物を渡す場面を思い浮かべ、一人成功を確信しつつほくそえんだ。



 吉川家の三男たる千若経友と、毛利家の長女である松寿姫は、いわゆる幼馴染の間柄であった。

 もう何年になるかは覚えていないが、物心つく前より頻繁に顔をあわせていたそうだから、相当昔からの付き合いであることは間違いない。

 一番古い記憶は、山口に住んでいた頃のものであった。

 西国の覇者である大内家は、近に住まう有力国人の子息たちを山口に引き取り、彼らに京風の手厚い教育を施した。

 山口へと送られた経友と松寿は、才能に溢れた子供たちに囲まれながら、年少の数年間を共に過ごしている。

 二人はすぐに打ち解け、四六時中共に遊ぶようになった。

 同郷であることや、年の頃が近かったせいもあろう。

 だが、そこに大人たちの政治的思惑が大きく関わっていたことも否定できない。

『お二人が仲良きことは、両家にとっても大変喜ばしいことでありましょう』

 何時だったか、毛利家の家老が朗らかな笑みを浮かべながら、そんなことを言っていたのを覚えている。

 吉川の武勇は安芸国内だけに留まらず、西国どころか日ノ本中に知れ渡っていた。

 その大体が先代の武功に因るものだ。

 もう五十年以上も前になるだろうか。都で大きな戦があった。

 足利将軍家をはじめとする中央有力者たちの跡目争いに端を発したこの戦は、幕府の有力大名家を二分する大乱へと発展した。

 延べ十万を優に超える軍勢が京都で激突したのだ。

 そのような大戦を経験したことない経友には、戦の全貌を思い描くことなどできなかったが、栄華を極めた都が灰燼に帰したというから、その様相たるや凄まじいものであったに違いない。

 経友の祖父に当たる先代吉川経基は、管領(将軍の補佐役)である細川家が率いる官軍に属し、その武勇を存分に発揮した。

 劣勢に友軍が逃げ惑う中、味方の屍を踏み越えて敵の侵攻を食い止める姿は、敵味方両軍の諸将から持て囃されたそうだ。

 そして彼の勇姿は、今でも人々の語り草になっている。

 そんな先代の活躍もあってか、吉川家の安芸における立ち位置は非常に恵まれたものであった。

 一方の毛利家は、安芸の国人領主たちを取りまとめる代表者のような存在である。

 経友と松寿。二人の関係が良好であることは、両家にとっても望ましいものであったのだ。

「もっとも、やましいことなど何もなく……あいつは手のかかる妹のようなものなんだよな」

 と、大人たちの下世話な配慮を思い出しながら、馬上の経友はつんと口を尖らせた。

 宮島で手に入れた髪留めを懐に仕舞い込み、疾風が土を巻くように馬を走らせる。

 視界の隅を、景色がぐんぐんと駆け抜けていく。まるで自身の逸る気持ちが表れているようだ。

 経友の両眼は目的地である吉田の地をしっかりと見据えている。

 更にその先には浮かび上がるは松寿の姿。

 想像の中の彼女は、少しやつれているように思えた。

「気落ちし過ぎてなきゃいいけど」

 山口にいた頃は毎日のように一緒に遊んでいた彼女であったが、安芸に帰ってからこの方、ほとんど顔を合わせる機会がなかった。

 既に二人とも成人しており、軽率な行動が許される年齢をとうに過ぎているのだ。

 今回のことであっても、それは例外ではない。

 毛利家当主である興元の早世。

 本来ならば、当主の不幸には家を代表して弔意を示さなければならない。

 正式な弔問は長兄か次兄のいずれかが派遣される予定であり、その前に安易な訪問をするなどもってのほかだと言える。

 であるから、経友が松寿の元へと駆けつけたいと両親に相談した時、彼らには当然の如く渋い顔をされた。

 平常ならば、こうして彼らの反対を押し切って松寿の元へ向かうなど考えられなかっただろう。

 居ても立ってもいられなくなった――というのが正直なところであった。

 何せ松寿の毛利家中における立ち位置は非常に危うい。

 意見の二分した毛利家中で、片翼の御輿である彼女は、今も相合元綱を次代当主へと推薦する家人たちから執拗な嫌がらせを受けているはずである。

 当主としての資質……。大内につくか尼子につくかといった外交方針の行く末……。

 彼女を攻撃する材料は山ほど存在する。

 経友は、肉親を失った上に政治的抗争の矢面に立つ羽目になった彼女の胸中を慮って、心痛に唇をきゅっと強く噛み締めた。

「この髪留めが慰めになってくれりゃ良いんだが……」

 懐に手を当て、ささやかな目論見の成功を祈る。

 そうこうしている内に、潮の香りが大分薄れてきた。

 周囲の景色が移ろっていき、潮気に強い黒松の林に代わって、(なら)の木が目立ち始める。

「っと、ようやく佐東に着いたか」

 経友はやや緊張感を孕んだ声色で、一人呟いた。

 安芸の国佐東郡。

 湊のあった佐西郡に隣接するこの地域は、安芸国内でも比類なき家勢を誇る武田家が治めている。

 街道沿いに郡山を目指した場合、必ずこの佐東を通ることは避けられないだろう。

「行きは上手い具合に見つからずに抜けることができたが……」

 視線を地面に落として、しばし熟考する。

 この地を治める武田家と、経友の属する吉川家は数年前から小競り合いを繰り返していた。

 もし、経友の姿を武田家の人間に見咎められれば、ただでは済まないだろう。

 迂回すべきか、直進すべきか。

 二者択一を迫られた経友は、

「まあ、考えたところで仕方がない。なるようになるか」

 一寸の躊躇いの後、そのまま直進することを選んだ。

 損得勘定よりも、一刻も早く松寿の元へと駆けつけたいという気持ちが勝ったのだ。

「熊谷、香川、山県……せめて、面倒な奴に見つかりませんように」

 心中で武田家の諸将を指折り数え挙げながら、経友は何事もなく通り過ぎれるよう切に願った。


二、

「そこ行く若造。しばし待てぃッ!」

 懐に髪留めを仕舞い込み、疾風が土を巻くように馬を走らせる経友を野太い声が呼び止めた。

「やはり、吉川の小僧か。貴様誰の許しを得て、この佐東の地を我が物顔で走っている」

 経友の表情がうんざりしたように歪む。

 吉田郡山への道中、この声だけは聞きたくないと思い描いていた声の一つが耳に届いたからである。そう、坂の上から経友を呼び止める馬上の武者は見知った顔であった。

「……何だ、重房しげふさか」

 馬首を返して、声の主をねめつける。

 男は神経質そうな顔に似合わぬ大きな体格に、色鮮やかな赤い射篭手を身につけていた。

「何だとは何だ、この野郎ッ!」

 経友の反応に、男は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしてくる。

 この男の名前は山県重房。

 武田家の重鎮である山県重秋やまがたしげあきの息子であり、明日の武田家を背負って立つ若手筆頭の一人である。

 重房と経友は、まだ両家の関係が悪くなる前に山口で知り合って以来、何度も戦場で顔を合わせていた。

 いわば腐れ縁と言っても差し支えのない間柄である。

「狩りの途中か」

「おうともよ。狙いは貴様だ。クソガキめ」

 八尺を超える大弓を構えて狙う先は、紛うことなく経友の喉元であった。

「小僧、小僧と……お前だって似たようなもんじゃないか」

「阿呆。我が山県家は、守護様の被官。周防のごうつくばりの腰巾着とは格と言うものが違うのだ」

 呆れた口調で返す経友の態度など気づいていない様子で、重房は鼻を高くして胸を張った。

「はぁ……そうか」

 経友はため息をつくと、馬の腹を軽く蹴って歩みを促した。

 これ以上は関わっていられないと判断したのだ。

 だが、歩みを進めようとしたその瞬間、重房から放たれた矢が馬の足元に深く突き刺さる。

「動くな、阿呆がッ!」

 苦楽をともにした名馬でなければ、今の射撃で恐怖に立ち竦んでしまったことだろう。

 経友は、青鹿毛を揺らして主人の判断を待つ愛馬に感謝の念を送りつつ、事を荒立てぬように言葉を選びながら静かに口を開いた。

「見逃せ、重房。俺は見ての通り戦に来たわけじゃあない。ただの通りすがりなんだ。武士が戦場以外で功を立てたところで意味はないだろう」

 経友の言葉に、重房は荒々しく鼻を鳴らして唾を飛ばした。

「何を馬鹿なことを……こそこそと領内を嗅ぎまわるネズミを捨て置く奴がいると思っているのか」

 憎々しげにこちらを睨み付ける彼の態度には、塵ほども取り付くしまがない。

「お前なぁ……」

 経友は嘆息しつつ、自分の不運を深く呪った。

 これが経験を重ねた壮年の武将相手だったのならば、まだ交渉の余地もあったかもしれない。

 しかし、重房は経友と三つと違わない年齢である。

 重房の瞳の奥底でめらめらと燃えている感情は、少しも揺らぎを見せることがなかった。

 元々、昔から何かと競争の種を持ち込んでくる男であった。

 剣の腕を競おうと持ちかけてきては喧嘩になり、馬術を競おうと言えば取っ組み合いになり……今ではそれが命の取り合いにまで激化している。

 先例を踏襲するならば、今回も小競り合いになるのだろう。

 経友は半ば絶望的な気持ちで肩を落とした。

「ネズミ、ネズミと……お前、ネズミ苦手だっただろ」

「馬鹿野郎、それは言うなッ!」

 不意にでた言葉に、重房が豪腕を振り回して、まるで火がついたように怒り狂う。

 どうやら、触れてはいけない部分であったらしい。

 経友は痛くなってきた頭を抱えつつ、それでもなんとか話の切り替えはできないものかと糸口を探った。

「馬鹿はお前だ。考えもなしに戦を起こす奴があるか」

 と、強い口調で言い放つ。

 山口に居た頃ならばまだしも、今はれっきとした敵同士である。

 戦場以外で個々人が勝手に争うことの意味を重房だって弁えているだろう。

 自分と相手だけの問題ではない。経友はそう強く目で訴えかけた。

 だが、重房にこちらの意図は伝わらなかったようだ。猛獣の笑みを浮かべて再び矢をつがえると、ぎりぎりと弦を引いてこちらに狙いを定める。

「なに、狩りの獲物と間違えられて、吉川のガキが討ち取られるだけだ。あわよくば、孫煩悩の爺が悲嘆にくれて昇天でもしてくれれば御の字だがな」

 その形相はまさに野獣のそれであった。

 常人ならば震え上がりそうな殺気を一身に受けながら、

「やはり、打物(うちもの)振るうも止むなしか」

 経友は諦めたように肩を落とすと、

「仕方ないな……」

 絞り出すように言葉を紡ぎ、深く息を吐いた。

 この山県重房は武田家中においても有数の荒武者だ。生半可な覚悟で太刀打ちできる相手ではない。

 立ち合うならば、それ相応の覚悟をもって臨まねばならないのだ。

 下腹に力を込める。全身の血が冷たくなっていくのを感じ、周囲の風景がにわかに色褪せ始める。

 これ以後、ここは血煙の舞う戦場となる。この場で色持つ者は自分と眼前の敵だけだ。

 覚悟が決まった。

「お前の我侭聞き入れてやろう。千若経友推して参るぞッ!」

 叫んで、馬の腹を力いっぱい蹴り飛ばす。馬は主の意を汲むと、大きくいななき蒼いつむじ風と化した。

「おう、来いよ千若ッ!」

 構える敵に目掛けて、経友は一直線に坂を駆け上がっていく。

 瞬く間に縮まっていく敵との距離。

 重房の矢をつがえる手に力が込められた。

 強弓は折れかねんばかりに湾曲し、経友を射殺す期を虎視眈々と狙っている。

 対する経友も相手の一挙手一投足に注意を張り巡らせ、期を計る。

 両者の距離が更に縮まっていく。

「つまらぬ諍いに使って良い刀ではないがッ……」

 経友が先祖伝来の刀を抜き放つ。

 名刀狐ヶ崎――鎌倉の世より吉川家に代々伝わる三日月刀である。陽の光を受けて鈍く輝くその刀身は、数多の戦を潜り抜けてきた凄みをかもし出していた。

 じきに、両者必殺の間合いに入る。

 経友が狐ヶ崎の切っ先を敵に向け、自身の身体を半身はんみに深く沈み込ませた。

 往古より伝わる一騎打ちの作法である。

 射向(いむ)けの(そで)がないことが悔まれるが、この際致し方あるまい。防具がなくとも、これで大分敵の狙いは大分狭まるはずだ。

「ふん、古臭い型をッ!」

 重房の手から、矢が放たれる。

 射切り矢が螺旋を描きながら風を切っていく。その甲高い音は敵に死をもたらす黄泉の調べを思わせた。

 思わず息を呑む。

 そして、考えるより先に身体をそらした。

 風が身体をすり抜けて、肩口が大きく裂ける。それに伴い、鮮血が飛び散った。

 完全に避けたつもりであった。計算の狂いに歯噛みする。

「重房も修練を欠かしてこなかったということか……だが、この勝負もらった!」

 自身を鼓舞するようにそう叫ぶと、経友は馬足をさらに速めて相手へ肉薄する。

 そして、すれ違いざまに一閃。

 刀は三日月の軌跡を描き、弓の弦を断ち切った。

「ぐっ……」

「遅いッ!」

 すぐさま太刀を抜き放とうと動く重房を制するように、返す刀を浴びせかける。

 だが、重房もただやられてはいない。弓を槍のように振り回し、経友の切っ先を逸らそうと試みる。

 沈み込むような硬い音が辺りに響き渡り、草木が恐怖に揺れる。

「せいやッ」

 歯を食いしばって、太刀を上方に振り抜く。

 重房の弓の姫反りが切り飛ばされ、勢い良く宙を舞った。憤怒に満ち溢れた表情に一筋の焦りが流れる。

 後は振り上げた太刀を力一杯打ち下ろすだけで、この戦いは終わる。

 経友が確信を持って柄に渾身の力を込めた刹那、

「お、おのれぇっ!」

 やけくそ気味に放たれたけん制の蹴りが、経友の胸を突いた。

 胃液の逆流するような痛みに、経友の顔が歪む。

 馬が察して体勢を傾けてくれなければ、あばらの二、三本は折れていたかもしれない。

 両者の間合いが再び離れた。

「今一度ッ」

 すうと、精一杯に息を吸い、太刀を構えた重房と対峙する。

 そして、打ち合いに臨むべく再び馬を走らせようとした、その時――

「なッ」

 何処からか放たれた矢が二人の戦いに終わりを告げた。

「新手かッ……!」

 すぐに経友は周囲の気配を探る。

 四人から五人といったところか。騒動を聞きつけた武者たちが集結しつつあるようだ。

「口惜しいが、この勝負預けるぞ、重房ッ」

 ただでさえ、豪傑重房の相手をしているのだ。新手に囲まれてはひとたまりもない。

 経友は迅速に馬首を返すと、一気にこの場から離れようと馬を走らせた。

「ま、待て! おのれ、どこのどいつだ。折角の勝負に水をさした馬鹿野郎は!」

 激昂する重房には悪いが、すでに相手の弓の弦は切った。もう、追いかけてくることも叶わないだろう。

 武者の本分に最後まで付き合えなかったことは心残りだが、もとより今の自分には他にやるべきことがある。先を急がねばなるまい。

 重房の怒号が段々と遠ざかっていく。

「誰だ。迂闊者はこの俺が叩き切ってやるッ!」

 重房の怒りたるや尋常なものではなかった。恐らく、この怒りを収めるだけでも一苦労だろう。

 そのようなことを考えていると、遠くかすかに聞こえる押し問答の中に重房の狼狽したような声を聞き取った。

「お、親父殿……」

 その声を耳にして思わず後ろを振り返る。

 新手の顔ぶれには、重房の父である山県重秋が混じっていた。豊かにたくわえた口ひげを揺らし、鋭い眼光をこちらに向けている。

(息子を守ったのか? あの重秋殿が……?)

 山県重秋は勇猛果敢で豪快な性格で知られていた。息子の大勝負を邪魔するような無粋な真似をするはずがないと思っていたのだが……。

「まあ、考えたところでしょうがないか。さあ、ぐずぐずしていては松寿のところに辿りつくまでに日が暮れてしまう。急いでくれ、豊国ッ!」

 豊国と呼ばれた馬が、その声に応えるように青鹿毛の体躯を揺らして大きく飛び上がる。

 目指す先は吉田郡山。幼馴染のいる毛利家の本城である。

 経友は文字通り人馬一体となって、佐東の地を一気に駆け抜けた。


三、

 吉田郡山城は、安芸北部にそびえたつ毛利氏の本城である。

 二つの川に挟まれた天然の要害であり、猿掛などの支城と合わせて鉄壁の防備を敷いていた。

「吉川の千若経友である。門を開けてくれッ!」

 経友が声を張り上げると、間を置かずして矢倉門が開かれた。

 吉川と毛利の仲は良く、家中の者とも顔見知りである。彼らの変わらぬ対応に、経友はいくばくかの安堵を覚えた。

「千若丸か。久しいの」

「志道殿か。元気そうだな」

 家人たちに囲まれながら、出迎えに現れたのは、毛利家の宿老である志道(しじ)広良(ひろよし)だった。

 舟形に折りたたまれた烏帽子が、年齢相応の深い皺の奥に光る理知的な瞳に良く似合っている。

「松寿は元気にしているか?」

「健やかではあるよ。じゃが、今は『来客』があっての」

「来客?」

 胡乱げな瞳で屋敷の玄関を見やる。この時期の来客というと、兄の弔問といったところであろうか。

 経友が思索を巡らせていると、用事を終えたらしい『来客』たちが姿を現した。

 『来客』は三人。そのいずれも身なりが整っており、大層な身分であることが容易に見て取れたが、特に中心の一人は頭抜けていた。

 肩ほどにかかる長髪に、切れ長の瞳。一見女性と見紛うその相貌は他と比べようがない。

 松寿の弟、相合四郎元綱である。

「これはこれは……千若殿ではありませぬか」

「四郎殿。久しいな」

 元綱が扇子を口元に当てて微笑む。常に笑みを絶やさぬその表情は気品に満ち溢れており、何とも艶やかな色気を放っていた。

(だからこそ、周囲から『今義経』などと誉めそやされるのだろうな)

 と、一人納得する。

 経友の妹も「顔はすこぶるよろしい」と大絶賛していたのをふと思い出した。

「今日はどうしたんだ?」

「これは異なことを。我々は毛利家臣であり、私は血族ではありませんか。家族が家にいることを不思議に思うのは、魚が川に住むことを疑うようなものでしょう」

 口に出してから、我ながら間の抜けた質問をしたものだと後悔する。

 志道が『来客』などと他人行儀な呼び方をしていたから、それに引っ張られてしまったのだ。慌てて頭を下げ、それを取り繕う。

「まあ、千若殿らしゅうございますな……」

 くすりと笑う元綱とは対照的に、傍に控えた一人が不機嫌そうに眉をしかめた。

 毛利家の重鎮、坂広秀である。

「むしろ、吉川の御曹司が何故郡山に居られるのか、手前としてはそちらが気になりますな」

「止めよ、広秀。客人に失礼であろう。千若殿、まこと申し訳ありません」

 皮肉を投げかける広秀を、元綱が強い口調でたしなめる。

 もっとも、経友としては広秀に文句を言う気にはなれなかった。

 本来ならば、吉川の代表がしかるべき手続きを踏んで弔問すべきなのだ。

 その前に、こうして何の約束もしていない者がみだりに顔を出している時点で、礼儀に反している。

 こちらに非があるのは自明の理であった。

 謝らねばならない。経友が声をあげようとしたその矢先、傍仕えのもう一人がゆっくりと口を開いた。

「四郎。いたずらに時を使うものではない」

 それは小さな声であったが、とても力強く、この場を制するには十分すぎるものであった。

 声を発した男の名前は渡辺(すぐる)

 鬼殺しの血を引く歴戦の勇者である。毛利家中でも最強の一角に置かれる渡辺党を率いる彼の名は、秋の国中に知れ渡っていた。

 元綱は勝の声に頷くと、経友に向かって優雅に一礼した。

「どうか、今までのように自分の家だと思って、ごゆるりとお過ごしください。では我々はこれで失礼いたします。行くぞ、広秀、勝!」

 声に応じて、傍に仕えた二人が元綱に付き従っていく。志道を見やると、何とも複雑な表情をしていた。

「それでは上がってもいいか?」

「ああ、ゆっくりしていくが良い。松寿様もお喜びになることじゃろうしな」

 志道が元綱たちから視線を離さずにそう答えた。彼の眼差しは、家中の同朋に向けるものとは思えないほど険しいものを秘めており、経友は内心引っかかるものを感じながらも、その場を後にした。



「せ、千ちゃん。どうしたの……?」

 先刻の戦いを振り切って、吉田郡山の領主屋敷にたどり着いた経友を出迎えたのは、松寿の驚いた顔であった。

 久方ぶりの再会だというのに、随分と間の抜けた言葉を投げかけてくる。

 経友は面倒くさそうに頭を掻きながら、横目で彼女を見た。

 想像していたほどではなかったが、しばらく見ないうちに少し痩せたように見える。

 目の下にも大きなくまができていた。恐らく、人には言えない苦労をいくつも抱え込んでいるのだろう。

「決まっている。泣き虫の面を拝みにきた」

 照れくさそうにそっぽを向いてこう返す。

 松寿は驚いたように目を丸くした。何といって良いものか決めかねているといった様子だ。

「お父様の用事とかでなく……?」

「違うよ。うちの親父は追って正式な使いを出すはずだ」

 言いながら、何故か祖父の姿が脳裏に浮かんできた。常日頃祖父がそらんじている古典の一説に、用がないのに訪ねる云々を謳ったものがあった気がする。

「だが、用もなく訪ねてきたわけじゃないぜ。俺はそんなにあつかましくない」

 身振り手振りを交えて泥沼の訂正を積み重ねる経友を見て、松寿は表情をころっと変えて、嬉しそうに微笑んだ。

「……ありがとうね。千ちゃん」

 心をわしづかみにされるような笑顔であった。

 薄く紅を引いた唇が白い肌に良く映えている。

 数ヶ月ぶりに見た松寿の笑顔を見た気がするが、その威力は以前より更に増しているような気がした。

 元より物腰は柔らかかったと思うが、それに何処となく色気が備わってきているように感じられる。

 従来の仕草ですら、心鎮めて相対することができなかったのだ。当然、彼女の変化を前にして経友が冷静でいられるはずもなかった。 

(……こいつ、こんな色っぽかったかな)

 平静を装うとする経友の苦闘がよほど滑稽に映ったのか、松寿がくすくすと小さな笑い声を上げる。

「別に用がなくても良いんだよ。むしろ用もないのに訪ねてきてくれた方が嬉しいの」

「あ、それだ」

 松寿の言葉に先ほどの疑問が解決した。照れ隠しも兼ねて、それを口に出す。

「何が?」

「うちの爺さんが似たようなこと言ってた」

「論語の一説ね。吉川のお爺様は博学でいらっしゃるから」

 言って、松寿が論語の一説をそらんじてくれた。

 経友は思わず感嘆の声を上げる。この娘ときたら、行動はいちいちどんくさいくせに頭の回転はすこぶる速いのだ。

「しかし、訪問と言うのは用がない方が良いのか。失敗したな……」

 懐の髪留めを出す機会を逸してしまい、経友は困ったようにあさってを見つめた。

 その様子を見て、松寿が怪訝そうに首をかしげる。

「千ちゃん、さっきからどうしたの?」

「あ、いや……」

「懐をちらちらと気にしているし、お菓子でも持ってきてくれたとか? それならお茶か白湯を用意するよ?」

「違う、これは……」

 彼女に目ざとく懐のものを見つけられてしまい、退路を立たれる。

 あれこれとごまかした所で、賢い松寿には見抜かれてしまうであろうし、何より隠し事をする人間だと思われるのも癪というものだ。

 ここにいたっては、致し方ない。勇気を振り絞って、懐から髪留めを取り出した。

「あ、髪留め……すごく可愛い……。もしかして、これ私に?」

「ん、あー……そうだな」

 照れくさそうに答え、ぶっきらぼうにそれを渡す。

 予定が狂い、経友は混乱していた。

 本来、髪留めに期待していた役割は子供の玩具である。

 松寿は恐らくいつものように泣きじゃくっているはずだ。だから、それをからかいつつ、贈り物で驚かせて泣き止ませれば良い。

 そのようなことを考えていたのだが、松寿は泣いていなかった。その上、懐中に秘めた策も暴かれてしまう始末だ。

 あまりの恥ずかしさに顔に血が上ってくる。まともに松寿の顔が見られない。

 これでは意味がない――そう思っていた矢先、彼女に変化が訪れた。

 予期せぬ変化であった。それが経友を驚愕させる。

「……あ、あ、ありがとう……」

 その声を聴いた瞬間、経友の顔から血の気が引いた。

 松寿は泣いていた。髪留めをぎゅっと握り締め、大粒の涙をぽろぽろとこぼして嗚咽している。

 これでは本末転倒だ。なんのために大金を払って、髪留めを手に入れたのか分からないではないか。

「お、おい!」

 己の迂闊さを深く悔いる。考えが上手くまとまらない。

(くそっ、なんたる失態だ)

 彼女の嗚咽は一向に止まる気配が見られない。大粒の涙が畳に染み込んでいく。

 経友はどうして良いか分からずに頭をかきむしった。

「な、なあ。泣き止んでくれよ」

「ううん。ううん、違うの……違うの。これ、私嬉しくて……」

「へ?」

 よくよく見ると、松寿は泣きながら微かに笑顔を浮かべていた。潤んだ瞳に映った感情は、悲しみだけではないように見える。

「私……まだ、独りじゃなかった……千ちゃんがいてくれて、本当に良かった……」

 松寿は涙を指でぬぐいながら、その顔を喜色に染めて何度も何度も礼を言ってきた。

 これには、経友もたまらない。

「ま、まあ喜んでくれたなら良かったよ」

 こうも喜んでもらえると、全身を無性に掻きたい衝動に駆られるが、流石にこうした空気の中で掻くこともできない。

 恐らく自分は何とも珍妙な表情をしているはずだった。

「千ちゃん」

「ん、どうした?」

 訳が分からずに問いかける。

「今日ね、尼子経久様の使いの方が来たの。内容は縁談のお誘い」

「え、縁談ッ?」

 思わず、身を乗り出して聞き返す。尼子と毛利が婚姻するとなれば、安芸国内に与える影響は計り知れない。いや、そもそも誰と誰が婚姻すると言うのか。

「うん、私ももう年頃だからって。経久様の息子の興久おきひさ様の嫁に来てはくれないかって」

「しょ、松寿が、か?」

 青天の霹靂とはこのことだろうか。あまりに突然の出来事であったため、経友は何といって良いか分からずに口をパクパクさせた。

「毛利家にとっても良い話だからって。四郎君は賛成していて」

「そ、そうか」

 話が耳から耳に突き抜けていく。心が離れて言葉が頭に残らない。 

「千ちゃんは……どうした方がいいと思う?」

「へっ? あ、そ、それを俺に聞くのかッ?」

 急に話を振られて、経友は盛大にうろたえた。

 興久と言うのは、恐らく尼子家の三男塩冶興久のことだろう。祖父の交友関係を通じて、何度か顔をあわせたこともあるので面識はあった。

 年の頃は、経友とさほど変わらない。顔の作りも端正だし、武者としての気概も持ち合わせている。少々、気位の高さが鼻についた気もしたが、そもそも尼子家の息子たちは、そのいずれも立ち振る舞いが洗練されている。だから、気位の高さも立つべきところに立てば長所になりうるだろう。

(そういや、妹も『顔はとても素晴らしい』と言って、いたく気に入っていたな)

 青年と松寿が並び立って夫婦となっている様を思い浮かべてみる。

 なるほど、物静かな男女と言うことで、確かにお似合いのような気もする。

「千ちゃん……?」

 だが、どうにも気に入らない。

 毛利家にとって、尼子とつながりを深めることはそう悪いことではない。

 周防の大内はいい顔をしないだろうが、それは吉川とて同じだ。吉川は大内側に属していながら、尼子とは血縁関係にある。要はどちらへも転がることのできる体制を整えて置けばよいのだ。

「だが……」

 しかし、先述したように尼子家の男子は気位が高く、そして厳格だ。仮にそのような家に鈍臭い松寿を放り込んでみるとする。松寿は果たして耐えられるだろうか。いや、そもそもいじめられたりするんじゃなかろうか。

 悩むたびに、想像が悪い方向へと進んでいく。

「千ちゃん、どうしたの?」

「へっ? ああ、おうっ。ちょっと考えていた」

「答え、出た……?」

 松寿がこちらをおずおずと見上げながら訪ねてくる。その瞳は小刻みに揺れており、今回の件について戸惑っているように思えた。

 それに気づいたとき、経友は得心がいった。

(ああ、松寿も困っているのか)

 ならば、答えは決まっている。気弱な彼女が迷いを胸に秘めて、何処かへ行けるものか。

「んー、合わない気がする、かな」

「結婚するべきでないってこと?」

「ああ、うん。そうなるの、かな」

「そっかぁ……」

 松寿が深いため息をついた。胸の辺りで髪留めを抱きしめるように両手を当て、そっと目を閉じる。

 心底安堵していると言った風に見えるその仕草は、経友の返答が正解であったと確信させるに十分なものであった。

「分かった。私、縁談断るね?」

「お、おい。こんな簡単に決めて良いのかよッ?」

「うん、良いの」

「そ、そうか。なら良いんじゃねえの?」

 関心が無いといった態度を取り繕って、経友が視線を逸らしてぼそりとそう呟く。

「千ちゃん」

 聞き慣れた細い声が、いつもより近くで聞える気がして、内心慌てた。

 見れば実際に両者の距離が狭まっている。

 正確には、触れ合っていた。彼女が頭を経友の胸に預けるときは、いつも決まって安心した後だ。

「ありがとう」

 彼女のふわりと柔らかい黒髪が揺れ、いつも鼻をくすぐってくる柊の香りが、今日は殊更に強く感じる。

 自ずと、顔から湯気が立ち上るくらいに赤面した。

 人の心を縦横無尽にかき回す。これだから、自分は松寿は苦手なのだ。

 出会ってからもう何年になるかは覚えていないが、彼女と自分ときたら始終こんな調子であった。

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