猿掛の松寿
水のせせらぐ音がする。 小川の流れは、少年の肌に程よく冷たかった。
「きゃッ」
か細い悲鳴が不意に上がる。幼い頃より聞き慣れた声に、少年は思わず苦笑いした。
「何やってんだよ」
振り返ると、盛大に転んで着物を盛大に濡らしてしまった少女が、顔を赤く腫らしている。
おおかた川の流れに足を取られてしまったのであろう。なぜなら彼女は非常にどんくさいのだ。
少年は水音をばしゃばしゃと立てて、さも面倒くさそうに駆け寄った。
瀬に身を半ばほどうずめた彼女は、はたから見ても面白いくらいに消沈している。その証拠に、いつもはふわりと浮き上がるような黒髪が、しゅんと元気を失くしていた。
この泣き顔も、既に見慣れたものである。
出会ってからもう何年になるかは覚えていないが、彼女ときたら始終こんな調子であった。
気づけば誰かにいじめられている。
もう、十を超えたと言う時分に、五つにも満たない幼子にいじめられていたのを発見した時には、ともするとこいつは独りでいても自分で自分をいじめてしまうのではなかろうか、と思ったものだ。
「だってぇ……」
いつもなら透き通るように輝いている瞳が、今はどんよりと陰っている。
それを見て、少年は困ったように口を尖らせた。彼はこの伏し目がちに悲しみを湛える仕草がたまらなく苦手であった。
「ほら」
「……千ちゃん?」
「おぶってやるから。山口の公方様はそうでもないけど、周防の御屋形様は遅刻に厳しいぞ」
と、赤くなっているであろう顔を見せまいと、背を向けて彼女に語りかける。
彼女の焦りが背中越しに感じ取れるが、知ったことではない。
何に焦っているかは分からないが、自分とてたまらなく恥ずかしいのだから、早くしてもらいたいものだ。少年は全身を襲うむずがゆさに身じろぎした。
と、背中にひんやりとした感触が預けられる。
意外な程に彼女の肌は柔らかかった。そう頭で認識した瞬間に、少年の胸が早鐘を打ち始める。
「ごめんね、千ちゃん」
彼女を背負い、やおら瀬から立ち上がる。
「久しぶりなんだろ? 兄貴と会うのも。だったら、遅刻なんて締まらないじゃないか」
背中にかかる息遣いで、彼女が同意してくれたのだと悟る。
柊の香りが鼻をついた。
彼女特有の匂いなのだが、少年はどうにも得意になれない。このツンとしていて甘い香りを感じるたびに、彼の胸はちくりと痛む。
「でも、兄様……私のこと忘れていたらどうしよう」
「なら、猿掛に戻るか?」
「お城は嫌。あすこはもう誰もいないもん」
力いっぱいかぶりを振ってくる。
彼女の両親は既にこの世を去っていた。仔細を存じているわけではなかったが、おおよその顛末は予想できる。
今の時世は、他者を虐げ、隣人を欺き、主を追い落とす無常がはびこっている。
戦が常となる時代。いわば戦国の時代と言えよう。
その渦中にあって、人一人が成し遂げられるなどあまりにも少ない。
そう、いくら彼女の一族が安芸有数の領主――毛利の一族であったとしてもだ。
「だったら……千ちゃんの来ている山口の方が良いよ」
毛利家は昨年先代を失い、混乱の真っ只中にある。吉田郡山の兄や腹心は家中の掌握に奔走しており、この非力な少女の心を慰める暇などないのだろう。
猿掛に、彼女の味方は一人もいなかったのだ。
彼女の悲痛な声色に、猿掛での生活を想起される。
心をしめつけられるような心地がした。
「そんな陰気臭い声出すなよ。こっちまで気が滅入ってくるだろ」
「だ、だだだってぇ……」
わざとらしく毒づいた少年に、思いの外狼狽する少女。
照れ臭そうに少年は、ぼそりと呟いた。
「お前をいじめる奴は、全員ぶっとばしてやるよ」
「ふぇ……?」
素っ頓狂な声が背中越しに聞こえてくる。少年は顔を真っ赤にしながら、先ほどの呟きをかき消すように声を張り上げた。
「俺は鬼ともまな板とも恐れられた爺の孫だぜ。悪党は皆ぶっとばしてやるって言ってんだ!」
大声が、長門の高い青空に吸い込まれるように昇っていく。
水しぶきが、彼を鼓舞するように力強く舞い上がった。
少年の盛大な啖呵に、彼女はびくっと硬直し、
「いつも思うけど、まな板って怖いのかな」
当然の如く、話の腰を折ってくれた。
「馬鹿、いい加減空気ってもんを理解しろッ」
「ご、ごごごめん……。でも……」
口から泡を飛ばす少年に、彼女は平謝りで頭を下げる。何度か背中を彼女の頭が叩いてきた後に、聞こえた言葉は、
「ありがとう」
涙交じりではあったが、嬉しそうでもあり、他の何がしかの感情が紛れているようでもあり――つまりは、彼の心を高揚させる類のものであった。
少年は照れ臭そうに頬を掻く。
「全く、お前は……松寿は何時になっても変わりゃしねぇ」
あまりにも弱々しくて到底放っておけるものではない。だから構う。
構ってやれば無邪気に喜ぶ。そして、彼女が喜ぶと少年の心が踊る。
そう、何時だって松寿は少年の心を縦横無尽に振り回してばかりだった。
出会ってからもう何年になるかは覚えていないが、彼女と自分ときたら始終こんな調子であったのだ。