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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
18/22

松寿の采配(二)

二、

「前へ、前へ! 前へッ!」

 将兵たちの掛け声が、曇り空の湿った空気を振るわせていく。

 陣太鼓が高々と打ち鳴らされた。

 勇ましい拍子が彼らの耳朶を震わせていき、前衛の足が一斉に前へと進められる。

「矢盾置けぇッ」

 左右前方へと迫り出していった兵士たちが、侍大将の掛け声を合図に矢盾を地面に突き立て始める。

 程なくして、松寿勢の陣形が出来上がる。

 相手を包囲せんとする陣形、鶴翼の陣である。

 これに対し、相合勢は衝軛の陣で待ち構えた。

「進めぇッ」

 縦列に長く陣を布き、左右中央三列に分かれて松寿勢の最前列と向き合う。

 こちらも大地に矢盾を突き刺し、盾の隙間から松寿勢を静かに窺った。

「……何だ、あの陣は……見たことねえぞ」

 馬上の経友が敵の動きに目を丸くした。

 経友は本陣備えに混ざっている。恐らくは、後列中央の自分よりも、前衛の兵士たちの方が驚いていることであろう。

 何せ、魚麟を布いて正面突破を試みてくるだろうと予想していた敵軍が、見たこともない陣形を構築してきたのだ。

 衝軛ということはこちらの攻撃を待ち構えるのか?

 それにしたって、何故三列なのか?

 人は未知のものを非常に恐れる。

 当てが外れた将たちの間に緊張が走った。

「そっか、こう来るか……これじゃ、迂闊に分断も包囲もできないね」

 松寿は本陣中央に陣取っていた。

 敵味方双方の動きを皿のようにして見つめ、ぼそりと呟く。

 彼女の言うとおり、この見慣れぬ陣形は松寿勢の動きを見事に押さえ込んでいた。

 元より兵差が少ないために、相手が広がってしまえば包囲することは難しい。

 各備えの厚みを増していることも、大きな意味を持っていた。

 こちらが無理に包囲をそのまま続行しようとすれば、縦列陣の突破力を頼みに突撃を仕掛けてくることだろう。

(さらにあの『隙間』が厄介だ……)

 三列の間は然程離れていない。

 距離にしておよそ二、三十間といったところであろうか。

 付かず離れず見張りあい、互いが互いを支えあい、分断されぬように保っている。

 もしこちらが無理に軍をねじ込もうとすれば、たちまち挟撃の矢衾やぶすまを受けてしまうことだろう。

「中備えを、前衛に合流させて向かい合ってくださいッ。 多少の隙間は構いません!」

 松寿の命を伝令が各備えに伝えていく。

 前衛の厚みを増すことで、敵の突破を食い止める算段だ。

 伝令が戦場を駆け回り、中衛が前衛へと駆け寄っていく。

 鶴翼はその姿を変えていき、相合勢と同じ衝軛陣を構築していった。

「互いが縦列に近い陣を強いられるとなると……これは我慢比べになるな」

「元から四郎君は、簡単に倒れる子じゃないよ」

 こちらを見ずに、松寿が応える。

 恐らく、頭の中では目まぐるしい勢いで試行錯誤が行われているのだろう。

 瞬き一つしない彼女の瞳は、何処か暗く、淀んでいるように見えた。



「射てぇッッ」

 矢合わせが始まった。

 両陣営から一斉に射切り矢が宙に飛び上がり、一拍置いた後に降りかかる。

 まるで雨霰だ、と誰かが呟いた。

 一つ一つが人を死に至らしめる力を持つ矢の嵐。

 それらが、前衛の盾に、陣笠に、肩当に当たっては硬い音を響かせていく。

「ひぅっ……」

 噛み殺したような悲鳴が上がる。

 悲鳴の主は防具の少ない雑兵たちであった。

 射切り矢は鎧武者を貫き通すのではなく、肉体を切り裂く用途で作られている。故に彼らのような小物にとっては、最も警戒すべき脅威の一つと言えるのだ。

「ぐぅっ」

 雑兵の一人が矢に腕を切り裂かれた。

 倒れた兵を、慌てて隣の者が笠を付き合わせて回収する。

 盾にの下に身を隠し、彼らは脅威が過ぎ去るのをただひたすらに待ち続けた。

「次の矢ぁッ」

 再び放たれる矢の嵐。

 幾度となく交わされる矢合わせの中で、両陣営は確実に傷ついていく。

 だが、致命傷ではない。

 備えの厚さが、両者の被害を軽微なものにしていた。

「馳せ組、始めぃッ」

 陣のほころびを引き出そうと、中衛から騎馬武者が左右十騎ほど駆け出していく。

 矢盾の合間を縫うように敵を射ち、埒の明かない現状を崩そうと言う心算だ。

 土煙を巻き上げて、彼らは敵の両側面へと回りこんでいく。

 騎馬武者の一人が、弓をしならせた。

 雑兵の放つ矢よりも重々しい『それ』が、一直線に盾持ちの首筋に向かっていく。

 とすっ、と肉の裂ける音がする。

 声も上げずに崩れ落ちていく兵士。

 鮮血が辺りに飛び散った。

「んっ」

 馬上の武者が拳を固めて、命中を喜んだ。

 鈴を括りつけた大身槍を背中に背負い込み、次の獲物を探している。

「国司だ、国司が混ざっておるぞ! 迎え撃てッ」

 警戒を孕んだ叫び声が上がる。

 程なくして騎馬武者を迎え撃つべく、敵も騎馬武者を繰り出してきた。

 両者の間で始まる壮絶な打ち合い。

 全身に着込んだ具足を最大限に活用し、互いが弓を射ち、刀を振るい、敵を討たんと奮戦する。

「ちぇ、中央に動きは無し、か。しばらくは肩慣らしだな」

 鈴をちりりとかき鳴らし、槍に持ち替えた若武者――助六が馬上で大きく槍を旋回させた。

「おお、雨ではなくて矢が降ってきた。今日は本当に良い日だな」

 飄々とした声をあげ、助六は馬を駆けさせ迎撃の矢を避ける。

「国司を討ち取れぇッ」

「へへ、来た、来た、来たぁっ」

 幾人の騎馬武者が得物を片手に追いかけてくる様を流し見て、助六は嬉しそうに双眸を細めた。

 くんと戦の匂いを感じ取り、馬を翻して敵と相対する。

 まずは長巻(柄の長い大太刀)を持った武者。

 これに狙いを定め、馬を並べて打ち落とす。

 意識を失い落馬していく敵の姿を、心底嬉しそうに見届ける。

「あ、やべ。ぞくっときた。とにかく、まずは一つ目の手柄っ」

 更に数多の弓をかいくぐり、次に狙うは太刀持ちの騎馬武者。

「どうだ、二つ目っ――と、あれ?」

「そうは行くかよ、助六め! ここで貴様の素っ首打ち落としてやるッッ――」

 助六の初撃を受け流した壮年の武者が、返す刀で斬りつけようとし――そのまま、力を失い落馬した。

 旋回させた槍の余勢を利用して、石突の連撃を敵の脳天に打ちつけたのだ。

 まさに目にも留まらぬ早業であった。

「よし、二つ目は雑魚じゃなかったから、大手柄だな。やったぁ!」

 無邪気に笑みを浮かべる助六。

 戦の空気に当てられず、ただ敵の命を刈り取っていく様はさながら鬼神のようであった。

 戦況は助六等の活躍もあって、松寿勢優位に進められた。

 騎馬武者が突き崩した陣の綻びに、空から矢雨が降りかかる。

 徐々に、徐々に左右翼が相合勢を押していく。

 将兵の表情に浮かび上がる勝利の確信――

 趨勢が一変したのは、そんな時であった。



 戦が始まり、数刻後。

 戦場に松寿勢とも相合勢ともつかぬ法螺貝の音色が響き渡った。

「な、何だ。この音はッ」

 井上元兼が驚きの声を上げる。

 法螺貝の音は……松寿勢の背後(、、)から聞こえてきた。

「伝令、背後に敵の援軍現れたり! その旗印は『三つ引両に九曜紋』でございまするッ」

「な……三つ引両に九曜紋……だと……?」

 その報告を聞き、誰よりも驚いたのは経友であった。

 顔面を蒼白にし、唇をわなわなと震わせる。

「み、見間違いではないのか……?」

「それがしも確かに拝見しましてございます。あれは確かに……『吉川』の軍勢ッ」

 伝令の言葉を皮切りに、火が付いたように元兼の罵声が放たれる。

 太刀を引き抜き、野獣のような怒りを経友の身に打ち付ける。

 峰と具足がぶつかり合う音が、陣中の動揺をさらに深めた。

「貴様、裏切ったのか!」

「そ、そんなわけがあるかっ!」

 首筋に刀を突きつけられながら、経友は必死に否定する。

 ――吉川が相合勢に与力する――

 まさかの事態に経友の脳は思考停止にまで追い込まれた。

(な、何で……)

 真っ白になった頭で、改めて必死に理由を探し求める。

 吉川と毛利家の関係は良好そのものであったはずだ。

 兄は毛利の嫁を取っているし、自分と松寿の関係もある。まさに盟友以上の存在であるはずであった。

 更に玖が言っていたではないか。

 『吉川は毛利の援軍要請を断った』と……。

 不義理を為すわけには行かないからこその『静観』をあえて崩した理由とは何か。

 何らかの利を見出したか。または元綱の外交手腕か。それとも――

 ――あ。

 経友の脳裏で一つの結論が導き出された。

「尼子経久かッ!」

 歯をぎりぎりと噛み鳴らし、全霊の怒りを込めた瞳で宙を睨みつける。

 吉川ほどの家を、心変わりさせることのできる圧力を与えられる存在。

 それは尼子の他に考えられなかった。

 よくよく考えてみれば、吉川は尼子と繋がりを持とうと考えていたわけで、尼子がそこにつけこむことは当然と言える。

 そして、此度の家督争いで尼子が応援しているのが相合勢……

 いつぞやの夜が思い起こされる。

 あの時、何故猿掛に尼子の兵がいたのか。そして、武田の家臣である重房が待ち構えていたのか。

 そう……松寿の拉致から、ここに至るまでのすべての策謀に、尼子は一枚噛んでいたのだ。

「くそっ、くそっ、くそっ! 悪い、悪い、悪い!」

 耐え難い口惜しさに身を打ち震わせる。

 まさか松寿の運命を決するこの大一番で、自分の身内が敵に回るとは考えてもいなかった。

 篭手で固めた拳で何度も額を殴りつけながら、松寿への謝罪を繰り返し続けた。

「落ち着いてッ。千ちゃん、落ち着いてッ! まだ負けてないんだよ!」

 松寿の叱責が飛ぶ。

 彼女はそのまま何時になく切迫した声で、

「両翼を以って、背後の敵を包囲します! 伝令はその旨を前衛に伝えてください」

「そ、それでは本陣が手薄になりまする!」

「構いませんッ」

 伝令の悲鳴をかき消すように、折れぬ闘志を更に燃え上がらせる。

「井上様……少しの間だけ、本陣備えが突出します。状況が改善するまで、しばし耐えてください」

「くそが、わしとしたことが下手を打ったか。この埋め合わせは必ずして下されよ、女当主殿ッ!」

 元兼が太刀を掲げて、兵を鼓舞する。

「者ども励め。安芸で最も強き我々の力。身の程知らずに見せ付けてやろうぞ!」

「おうッ!」

 当主の鼓舞に呼応するように、井上党の猛者たちが獲物を掲げ、勇ましい声をあげる。

「千ちゃん……」

「――ッ、分かってるッッ!」

 松寿に言われずとも分かっていた。

「吉川の。ここに至って、小便漏らして裏切りなぞするんじゃねえぞ!」

「吉川の、吉川のと……一々うるせえッ!」

 どんな冷たい冬の風が彼女に向かって吹き付けてこようとも。

 どんな過酷な運命が待っていようとも。

 松寿自身が諦めない限り、自分は松寿を守らなければならないのだ。

 『松寿の春』としての役割を全うするため、経友は弓を掲げて雄たけびをあげた。

「敵が誰だろうが、俺が何だろうが関係ない。松寿を傷つける奴は、俺がゆるさねえからな!」

 重々しい足音と共に、天を穿つ杉林がやってくる。

 ――渡辺党が突撃を開始した。 


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