松寿の采配(二)
二、
「前へ、前へ! 前へッ!」
将兵たちの掛け声が、曇り空の湿った空気を振るわせていく。
陣太鼓が高々と打ち鳴らされた。
勇ましい拍子が彼らの耳朶を震わせていき、前衛の足が一斉に前へと進められる。
「矢盾置けぇッ」
左右前方へと迫り出していった兵士たちが、侍大将の掛け声を合図に矢盾を地面に突き立て始める。
程なくして、松寿勢の陣形が出来上がる。
相手を包囲せんとする陣形、鶴翼の陣である。
これに対し、相合勢は衝軛の陣で待ち構えた。
「進めぇッ」
縦列に長く陣を布き、左右中央三列に分かれて松寿勢の最前列と向き合う。
こちらも大地に矢盾を突き刺し、盾の隙間から松寿勢を静かに窺った。
「……何だ、あの陣は……見たことねえぞ」
馬上の経友が敵の動きに目を丸くした。
経友は本陣備えに混ざっている。恐らくは、後列中央の自分よりも、前衛の兵士たちの方が驚いていることであろう。
何せ、魚麟を布いて正面突破を試みてくるだろうと予想していた敵軍が、見たこともない陣形を構築してきたのだ。
衝軛ということはこちらの攻撃を待ち構えるのか?
それにしたって、何故三列なのか?
人は未知のものを非常に恐れる。
当てが外れた将たちの間に緊張が走った。
「そっか、こう来るか……これじゃ、迂闊に分断も包囲もできないね」
松寿は本陣中央に陣取っていた。
敵味方双方の動きを皿のようにして見つめ、ぼそりと呟く。
彼女の言うとおり、この見慣れぬ陣形は松寿勢の動きを見事に押さえ込んでいた。
元より兵差が少ないために、相手が広がってしまえば包囲することは難しい。
各備えの厚みを増していることも、大きな意味を持っていた。
こちらが無理に包囲をそのまま続行しようとすれば、縦列陣の突破力を頼みに突撃を仕掛けてくることだろう。
(さらにあの『隙間』が厄介だ……)
三列の間は然程離れていない。
距離にしておよそ二、三十間といったところであろうか。
付かず離れず見張りあい、互いが互いを支えあい、分断されぬように保っている。
もしこちらが無理に軍をねじ込もうとすれば、たちまち挟撃の矢衾を受けてしまうことだろう。
「中備えを、前衛に合流させて向かい合ってくださいッ。 多少の隙間は構いません!」
松寿の命を伝令が各備えに伝えていく。
前衛の厚みを増すことで、敵の突破を食い止める算段だ。
伝令が戦場を駆け回り、中衛が前衛へと駆け寄っていく。
鶴翼はその姿を変えていき、相合勢と同じ衝軛陣を構築していった。
「互いが縦列に近い陣を強いられるとなると……これは我慢比べになるな」
「元から四郎君は、簡単に倒れる子じゃないよ」
こちらを見ずに、松寿が応える。
恐らく、頭の中では目まぐるしい勢いで試行錯誤が行われているのだろう。
瞬き一つしない彼女の瞳は、何処か暗く、淀んでいるように見えた。
◇
「射てぇッッ」
矢合わせが始まった。
両陣営から一斉に射切り矢が宙に飛び上がり、一拍置いた後に降りかかる。
まるで雨霰だ、と誰かが呟いた。
一つ一つが人を死に至らしめる力を持つ矢の嵐。
それらが、前衛の盾に、陣笠に、肩当に当たっては硬い音を響かせていく。
「ひぅっ……」
噛み殺したような悲鳴が上がる。
悲鳴の主は防具の少ない雑兵たちであった。
射切り矢は鎧武者を貫き通すのではなく、肉体を切り裂く用途で作られている。故に彼らのような小物にとっては、最も警戒すべき脅威の一つと言えるのだ。
「ぐぅっ」
雑兵の一人が矢に腕を切り裂かれた。
倒れた兵を、慌てて隣の者が笠を付き合わせて回収する。
盾にの下に身を隠し、彼らは脅威が過ぎ去るのをただひたすらに待ち続けた。
「次の矢ぁッ」
再び放たれる矢の嵐。
幾度となく交わされる矢合わせの中で、両陣営は確実に傷ついていく。
だが、致命傷ではない。
備えの厚さが、両者の被害を軽微なものにしていた。
「馳せ組、始めぃッ」
陣のほころびを引き出そうと、中衛から騎馬武者が左右十騎ほど駆け出していく。
矢盾の合間を縫うように敵を射ち、埒の明かない現状を崩そうと言う心算だ。
土煙を巻き上げて、彼らは敵の両側面へと回りこんでいく。
騎馬武者の一人が、弓をしならせた。
雑兵の放つ矢よりも重々しい『それ』が、一直線に盾持ちの首筋に向かっていく。
とすっ、と肉の裂ける音がする。
声も上げずに崩れ落ちていく兵士。
鮮血が辺りに飛び散った。
「んっ」
馬上の武者が拳を固めて、命中を喜んだ。
鈴を括りつけた大身槍を背中に背負い込み、次の獲物を探している。
「国司だ、国司が混ざっておるぞ! 迎え撃てッ」
警戒を孕んだ叫び声が上がる。
程なくして騎馬武者を迎え撃つべく、敵も騎馬武者を繰り出してきた。
両者の間で始まる壮絶な打ち合い。
全身に着込んだ具足を最大限に活用し、互いが弓を射ち、刀を振るい、敵を討たんと奮戦する。
「ちぇ、中央に動きは無し、か。しばらくは肩慣らしだな」
鈴をちりりとかき鳴らし、槍に持ち替えた若武者――助六が馬上で大きく槍を旋回させた。
「おお、雨ではなくて矢が降ってきた。今日は本当に良い日だな」
飄々とした声をあげ、助六は馬を駆けさせ迎撃の矢を避ける。
「国司を討ち取れぇッ」
「へへ、来た、来た、来たぁっ」
幾人の騎馬武者が得物を片手に追いかけてくる様を流し見て、助六は嬉しそうに双眸を細めた。
くんと戦の匂いを感じ取り、馬を翻して敵と相対する。
まずは長巻(柄の長い大太刀)を持った武者。
これに狙いを定め、馬を並べて打ち落とす。
意識を失い落馬していく敵の姿を、心底嬉しそうに見届ける。
「あ、やべ。ぞくっときた。とにかく、まずは一つ目の手柄っ」
更に数多の弓をかいくぐり、次に狙うは太刀持ちの騎馬武者。
「どうだ、二つ目っ――と、あれ?」
「そうは行くかよ、助六め! ここで貴様の素っ首打ち落としてやるッッ――」
助六の初撃を受け流した壮年の武者が、返す刀で斬りつけようとし――そのまま、力を失い落馬した。
旋回させた槍の余勢を利用して、石突の連撃を敵の脳天に打ちつけたのだ。
まさに目にも留まらぬ早業であった。
「よし、二つ目は雑魚じゃなかったから、大手柄だな。やったぁ!」
無邪気に笑みを浮かべる助六。
戦の空気に当てられず、ただ敵の命を刈り取っていく様はさながら鬼神のようであった。
戦況は助六等の活躍もあって、松寿勢優位に進められた。
騎馬武者が突き崩した陣の綻びに、空から矢雨が降りかかる。
徐々に、徐々に左右翼が相合勢を押していく。
将兵の表情に浮かび上がる勝利の確信――
趨勢が一変したのは、そんな時であった。
◇
戦が始まり、数刻後。
戦場に松寿勢とも相合勢ともつかぬ法螺貝の音色が響き渡った。
「な、何だ。この音はッ」
井上元兼が驚きの声を上げる。
法螺貝の音は……松寿勢の背後から聞こえてきた。
「伝令、背後に敵の援軍現れたり! その旗印は『三つ引両に九曜紋』でございまするッ」
「な……三つ引両に九曜紋……だと……?」
その報告を聞き、誰よりも驚いたのは経友であった。
顔面を蒼白にし、唇をわなわなと震わせる。
「み、見間違いではないのか……?」
「それがしも確かに拝見しましてございます。あれは確かに……『吉川』の軍勢ッ」
伝令の言葉を皮切りに、火が付いたように元兼の罵声が放たれる。
太刀を引き抜き、野獣のような怒りを経友の身に打ち付ける。
峰と具足がぶつかり合う音が、陣中の動揺をさらに深めた。
「貴様、裏切ったのか!」
「そ、そんなわけがあるかっ!」
首筋に刀を突きつけられながら、経友は必死に否定する。
――吉川が相合勢に与力する――
まさかの事態に経友の脳は思考停止にまで追い込まれた。
(な、何で……)
真っ白になった頭で、改めて必死に理由を探し求める。
吉川と毛利家の関係は良好そのものであったはずだ。
兄は毛利の嫁を取っているし、自分と松寿の関係もある。まさに盟友以上の存在であるはずであった。
更に玖が言っていたではないか。
『吉川は毛利の援軍要請を断った』と……。
不義理を為すわけには行かないからこその『静観』をあえて崩した理由とは何か。
何らかの利を見出したか。または元綱の外交手腕か。それとも――
――あ。
経友の脳裏で一つの結論が導き出された。
「尼子経久かッ!」
歯をぎりぎりと噛み鳴らし、全霊の怒りを込めた瞳で宙を睨みつける。
吉川ほどの家を、心変わりさせることのできる圧力を与えられる存在。
それは尼子の他に考えられなかった。
よくよく考えてみれば、吉川は尼子と繋がりを持とうと考えていたわけで、尼子がそこにつけこむことは当然と言える。
そして、此度の家督争いで尼子が応援しているのが相合勢……
いつぞやの夜が思い起こされる。
あの時、何故猿掛に尼子の兵がいたのか。そして、武田の家臣である重房が待ち構えていたのか。
そう……松寿の拉致から、ここに至るまでのすべての策謀に、尼子は一枚噛んでいたのだ。
「くそっ、くそっ、くそっ! 悪い、悪い、悪い!」
耐え難い口惜しさに身を打ち震わせる。
まさか松寿の運命を決するこの大一番で、自分の身内が敵に回るとは考えてもいなかった。
篭手で固めた拳で何度も額を殴りつけながら、松寿への謝罪を繰り返し続けた。
「落ち着いてッ。千ちゃん、落ち着いてッ! まだ負けてないんだよ!」
松寿の叱責が飛ぶ。
彼女はそのまま何時になく切迫した声で、
「両翼を以って、背後の敵を包囲します! 伝令はその旨を前衛に伝えてください」
「そ、それでは本陣が手薄になりまする!」
「構いませんッ」
伝令の悲鳴をかき消すように、折れぬ闘志を更に燃え上がらせる。
「井上様……少しの間だけ、本陣備えが突出します。状況が改善するまで、しばし耐えてください」
「くそが、わしとしたことが下手を打ったか。この埋め合わせは必ずして下されよ、女当主殿ッ!」
元兼が太刀を掲げて、兵を鼓舞する。
「者ども励め。安芸で最も強き我々の力。身の程知らずに見せ付けてやろうぞ!」
「おうッ!」
当主の鼓舞に呼応するように、井上党の猛者たちが獲物を掲げ、勇ましい声をあげる。
「千ちゃん……」
「――ッ、分かってるッッ!」
松寿に言われずとも分かっていた。
「吉川の。ここに至って、小便漏らして裏切りなぞするんじゃねえぞ!」
「吉川の、吉川のと……一々うるせえッ!」
どんな冷たい冬の風が彼女に向かって吹き付けてこようとも。
どんな過酷な運命が待っていようとも。
松寿自身が諦めない限り、自分は松寿を守らなければならないのだ。
『松寿の春』としての役割を全うするため、経友は弓を掲げて雄たけびをあげた。
「敵が誰だろうが、俺が何だろうが関係ない。松寿を傷つける奴は、俺がゆるさねえからな!」
重々しい足音と共に、天を穿つ杉林がやってくる。
――渡辺党が突撃を開始した。