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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
13/22

昔日(一)

一、

 あれは幼さゆえのすれちがいか――

 ことの起こりは今から四年前に遡る。

 四月晦日(みそか)の日、経友は大内義興にあてがわれた宅地の庭で、弓の修練に励んでいた。

 季節は梅雨入り真っ只中であり、久方ぶりの晴れ間は経友に貴重な練習時間を提供してくれている。

 一寸たりとも時間を無駄にできない。

 寺の鐘楼が日没を告げる中、経友の弓を持つ手に力が込められる。

 すとん、

 経友が放った矢が、吊るされた的の中央へと突き刺さった。

 からからと揺れる的には同じように刺さった矢が八本。

 今放った矢と合わせれば、合計九本の矢が的の中心を捉えている。

 十中九発。いつもならば上々な成果と頬を緩ませていたであろう。だというのに、経友の心は少しも晴れてくれない。

 経友は険しい表情を崩さぬまま、汗ばむ指をぬぐって次の矢を番えた。

 すとん、

 突き刺さった反動で的がくるくると回る。矢は、中心から少し外れたところに突き刺さった。

「……くそっ、またやり直しか」

 苛立たしげに毒づく。

 外れた矢を忌々しげに睨みつけながら、経友は震える指を無理に伸ばして、再び矢を番えた。

 百発百中。

 それが、経友が己に課していた目標であった。いや、最低条件というべきか。

 三日前の馳せ馬の日、大内の当主は経友たちの集まっている場で賭弓の開催を高らかに宣言した。

 現在、参加を表明している若武者たちは、皆弓上手と称している者ばかりである。

 馴染みの山県重房などは元服間近にして既に八尺を扱い始めているし、石見の高橋や周防の内藤も油断のできぬ相手だ。

 彼らならば、調子次第で十中八九程度は軽くやってのけるだろう。

 本番たる端午の節句(五月五日)まで一週間も無いのだから、修練に力が入るのも無理からぬことであった。

「けれど、本当の敵はあいつらじゃない」

 弓を射ながら、同郷の元綱を思い浮かべる。

 毛利家の四郎元綱。彼は特別であった。

 経友よりも弓を手にしていた期間は短いはずなのに、まるで昇竜の如き速さで実力をつけていく。

 経友も追いつかれまいと鍛錬の回数を増やすなど必死の努力をしてみたが、その差は縮まる一方で……ついにはあえなく追い抜かれてしまったのだ。

 昨年正月の射礼(じゃらい)(正月に行われる年中行事)で、弓上手一番手として名を挙げられた若武者は――経友ではなく、元綱であった。

 思い出すたびに、経友の胸がちくりと痛む。

 理解している。これは嫉妬だ。

 目下であると思っていた者に、何時の間にやら差をつけられていた焦燥と妬みなのだ。

 何故、英雄の血を引いているはずの自分ではなくて、彼が一番になってしまうのか。

 経友は情けなさから、全身を投げ出したい衝動に駆られた。

「四郎は頭の回転も早いし、風雅も解している……それが何で、弓まで上手いんだッ」

 心の中に留めて置くべき言葉が、つい口をついて出てしまう。

 学才のない自分が恨めしかった。武芸ですら花開くことの無い自身の器を恨めしいと思った。

 そんな心境が結果に現れたのだろうか。

 すとん、

 放たれた矢は中心をわずかにそれた場所に突き刺さる。

「くそっ、くそっ」

 手元からこぼれ落ちた矢を忌々しげに蹴飛ばして、鼻をぐずらせた。

 射的に心の乱れは禁物だというのに、心に立ったさざなみは中々収まってくれない。

 心が苦しくてたまらない。

 何とかしてくれ。助けてくれと、自身の心が切に助けを求めてくる。

 だが、この暗い感情を消し去る術を、経友は持ち合わせていなかった。

「千若様」

 そんな彼の耳に、今最も会いたくない者の声が届く。

 元綱の声であった。

 彼は縁側の柱に半身を預けながら、何処かばつが悪そうにはにかんでいた。

「四郎殿か」

 慌てて赤くなった目の下を袖で擦りながら、どうしてここにいるのかと問いかける。

「玖姫に伊勢物語の写しを返しに伺ったのですが……その、弓鳴りの音が気になりまして」

「そうか、邪魔したな」

 経友は口早にそう告げると、再び的へと視線を移し、弓を構えた。

 むくむくと胸の内にもたげてくる暗い感情を、何処かに追い払うために集中したかったのだ。

 しかし、彼の存在を意識の外へと追いやろうとしても、そんなことはお構いなしとばかりに声をかけてくる。

「鍛錬ですか?」

「そうだよ。悪いか?」

「いえ。ただ、今朝方も我らと共に鍛錬をしていたではありませぬか。一昼夜続けては流石に身体が持ちませぬ。そう根を詰めずとも……」

 眉をしかめて、経友の短慮を諌める元綱。

 彼の言っていることは至極正論だ。確かに身体を壊して明日の鍛錬に、後の本番に支障が出ては元も子もない。

 しかし、経友は彼の指摘に是と頷くことができなかった。

 元綱の口をついて出た――この一点が気に入らなくてたまらなかったのだ。

 だから経友は、

「俺の身体だ。勝手にさせてくれ」

 的に描かれた丸字を凝視したまま、苛立たしげに吐き捨てる。

 用事が無いなら声をかけるな。そう気持ちを込めた一言であった。

 自分でも情け無い姿だと自覚しているが、面と向かって悪し様に罵り始めるよりは幾分もましであろうと思い直す。

 これだけ“にべ”もない態度を取り続けていれば、何処か遠くへ行ってくれるだろう。

 少なくとも本番の五日まで――経友は彼の顔を見たくなかった。

 だというのに、元綱は短くため息をつくと、

「この弓、借りますね」

「え、おいっ」

 経友から距離を取るどころか、足元に放置してあった予備の弓を手に取り、弓の手入れをし始める。

 これには経友も面食らってしまった。

 好意を無碍にされてまで、他人にお節介を焼くことが不思議で堪らなかったのだ。

「その顔。千若様は、いつも他人に貴方がどう接しているのかご存じないといった風ですな」

「……? ……?」

 理解の追いつかない経友の表情を見て、くすりと笑った元綱は、そのまま弓の弦へと視線を落として、

「っと、荒々しく使いすぎでございましょう。これでは、弓の狙いが崩れてしまう」

 咎めるように声を大きくする。

 他人の弓に許可なく触れるだけでも無礼であるのに、弓の取り扱いにまで注意を受け、経友の頭にかっと血が上った。

 手入れをしていた元綱に掴みかかり、猛然と食って掛かる。

「か、返せよッ」

「いいえ、返しませぬ。貴方が身体を壊してしまえば、姉上が悲しむでしょうから」

「う……」

 胸倉を掴まれながら放たれた元綱の言葉に、経友の怒りが見る間に萎んでいった。

 幼馴染の少女のことを例に挙げられるのは非常にまずい。

 経友はぐうの音も言えぬほどに黙りこんでしまいながら、松寿の顔を思い浮かべる。

 目に浮かぶのは、形の良い眉を歪めて矢継ぎ早の小言を放ってくる幼馴染の姿であった。

 成る程、確かに松寿がこのことを知ったら、一日では聞かぬほどの長い説教をしかねない。

 その心労たるやいかほどのものであろうか、と経友の顔色は見る間に青ざめていった。

「くそっ……分かったよ」

 一旦頭が冷め始めると、意地を張っていた自分がどうしようもなく滑稽に思えてくるから不思議なものだ。

 経友は諦めたように舌打ちすると、その場にどっかと座り込み、自身もまた弓の手入れをし始めた。

 改めて見てみると、弦に染み込ませてあった漆の色が剥げてきている。

 恐らく狙いが定まらなかったのも弦が弱ってきていたためだろう。

 それどころか、あのまま無心に引き続けていたら、遠からず弓が破損していたに違いない。

「あちゃあ、何で気づかなかったんだ……」

 すまなそうに、愛器に向かって合掌する。

 その様子を見ていた元綱から、押し殺したような笑い声があがったが、聞こえなかった振りをした。

「ようやく以前の千若様に戻られましたな。やはり、その方が“らしゅう”ございます」

「うるせえなあ」

 二人の間に軽口が飛び交い始める。

 他愛の無いよもやま話を続けながら、二人は弦の張り替えをし始めた。



 心地よい風が結実した梅の実を揺らし、二人の頬を撫でていく。

 手入れの途中で元綱の口から出てきた言葉は、経友を仰天させるに足るものであった。

「千若様。私は貴方を尊敬しているのです」

 一瞬、目の前の男が何を言ったのか理解できなかった。

 経友よりも才にあふれた男が、経友をさして尊敬していると言う。そんなことがありえるというのか。

 経友には、その言葉が真実であるとは到底思えなかった。

 だから、彼の言葉を世辞と受け取り、地べたに弓を押し付けながら、否定した。

「ん、そんな風には見えないけどな」

 が、彼にとっては世辞でなかったらしい。

 彼は経友の態度に心外だとばかりに憤慨しながら、声を大きくした。

「私がおべっかをこねているように見えますか? 私は貴方が西国で一番の武人である――乃至はこれからなるであろうと思っております。小手先の技量ではなく、そう……魂の部分において、貴方は既に尊いものを持っている。だって、そうではありませんか。山口に集った若人は山あれど、一昼夜弓馬の道に励んでいる者など他におりませぬ」

 強い口調で言葉を並べる元綱に気圧され、経友は思わず目を白黒させた。

 彼の瞳は真剣そのものである。確かに嘘偽りを並べ立てているわけではないようであった。

 経友は何だか照れ臭くなるのと同時に、いやそれ以上に自分が情けなくなってしまう。

 何故なら、彼の言うひたむきに武の道を走る経友の姿はまやかしであるからだ。

 経友は、元綱への嫉妬から鍛錬の頻度を増やしていただけに過ぎない。

 元綱の言うような高尚な魂など持ち合わせていないのだ。

 だから、嬉しいなどという感情が湧きあがってこず、ただ申し訳なさのみが先に立った。

「別に……俺はそんなんじゃない。要領が悪いから、他に能が無いから励んでいるだけだ」

 口を尖らせて、尚も否定する。

 しかし、元綱は頑として意見を曲げようとはしなかった。

「努力は人を裏切りませんよ」

 彼はにこやかに言ってのける。

 彼の笑顔は人好きのする真っ直ぐで清々しい笑顔であったのだが、経友にはそれがたまらなく傲慢なものに思えて仕方が無かった。

 『努力は人を裏切らない』。

 確かに、大事を為すのに修練は不可欠だろう。

 だが、元綱の言う『それ』は才ある者にのみ許された暴言ではなかろうか。

 いくら努力をしたところで乗り越えられない壁はあるのだ。

(俺と四郎の差が『それ』を証明しているじゃないか)

 心の中で独りごちる。

「結局のところ、人の心持ち次第なのですよ。できぬと思うからできないのです。壁を勝手に作ってしまっているのです。千若様の武に壁はない。だからこそ、このように励み続けることができるのです。」

 そんな経友の心中なぞには気づかずに、元綱は雄弁に自論を語り続けた。

 勝手に経友の姿かたちを描き出していく彼の瞳には少しも曇るところが無い。

 背筋はピンと天に伸び、はきはきとした声には希望と未来が満ち溢れていた。

(もうやめよう。結局のところ、こうも邪推してしまうのは俺自身の問題だ)

 彼のまばゆい姿に眼を細め、ゆっくりとかぶりを振る。

(こいつは、恐らくこれからもずっと自分の天道を疑うことなく進んでいくんだろうなあ)

 ふうとため息をつく。

 羨ましい。自分もできることならば、かくありたかった。

 経友は憧れにも似た感情を胸に、眼前に座り込んでいる年下の顔をまじまじと見つめた。

 そんな経友の仕草が気になったのか、元綱は不思議そうに首をかしげる。

「私の顔に何かついておりますか?」

「いや、別に」

 どうせ言っても分からないだろうと、苦笑いする。

 経友は諦めたように表情を緩め、作業を続けることにした。



 弦の張替えを無事終える。

 素引きを行い具合を見てみると、力強い音と共に弓が跳ねてくれた。どうやら調子は戻ったようだ。

 額に滲み出していた汗を袖で拭う。

 気づけば、先ほどまで胸の内に渦巻いていた嫉妬の感情は何処へと消え失せてしまっていた。

 経友は満足げに頷くと、元綱に向き直って礼を言う。

「すまない、助かったよ」

「いえ、私は特に何も……。貴方の悩みがいかなるものか察することはできませなんだが、千若様ならいずれご自身で解決なさったことでしょう」

 はにかみながら返してくる元綱。

 そのまま思い出したように声をあげると、途端に表情を曇らせた。

「そうだ、悩みが解決したのならば玖姫にもお顔を見せてあげてください。彼女も千若様のことを気にしておりました。何でも、最近顔を合わせていないとか」

「玖が?」

「ええ、彼女も今は大変な時期ですし。ほら、その……彼女はまだ山口に慣れていないので」

 元綱の言葉に経友も表情を険しくする。

 経友の妹である玖姫は、昨年からここ山口に移ってきたのだが、新しい環境に馴染むことができずに、周囲から浮いた存在となってしまっていた。

 元より、彼女はあまり他人と話したがらない性分だ。何せ家族でさえも祖父母か経友くらいとしかまともに話せる相手がいないのだ。彼女の内気はまさに筋金入りであった。

 そんな彼女が見知らぬ他人が集う山口に上手く順応できるはずが無い。

 彼女の症状は、山口に来てからさらに悪化しているようであった。

 そんな最中に、松寿や元綱には大変良くしてもらっている。

 松寿には、彼女が他の姫たちに疎まれないように配慮をしてもらっているし、元綱は玖にとって数少ない遊び相手の一人だ。

 最近、自分のことで手一杯になりがちな経友にとって、彼の代わりをこなしてくれる毛利姉弟は、まさに足を向けて眠れない存在であると言えた。

「ああ、そう言えば……礼を言う。この間虐められていた玖を助けてやったんだって?」

「あんなものは助けた内に入りませぬ。ただ、彼女たちに苦言を呈しただけです。ああいうのは、許せませぬ」

「あいつは人付き合いが苦手だからなあ」

 露骨に眉をしかめて苦々しげに呟く元綱に対して、仕方ないといった調子で経友が返す。

 すると、元綱が不満げに異を唱えてきた。

「いえ、彼女は周りよりほんの少し聡いだけなのです。だから、他人の気持ちも殊更に透けて見えてしまい、心を通わそうと言う気になれないのでしょう。私にも少し、気持ちが分かります」

「気持ちが?」

「はい、私の場合はすぐに吹っ切れてしまいましたが」

 そう言うと彼は過去に思いを馳せるように視線を遠くへと流した。

 熱の篭った口調で、絞り出すようにして続いた言葉は、

「私は玖姫にも壁を乗り越えてもらいたいのです」

 馴染みの少女に対する切な期待であった。

「そうか」

 かけるべき言葉が分からず、経友は短く相槌を打つ。

 明晰な者には明晰であるがゆえの悩みがあるのかもしれないが、経友には彼が抱いていた悩みを推し量ることができない。

 そもそもの頭の出来が違いすぎるからだ。

 だから、経友は妹のことをこれだけ案じてくれているという点に感謝の念を抱きつつ、深く頭を下げた。

「分かった、玖の所に顔を出してみるよ」


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