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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
11/22

様々な思惑(二)

二、

「ようやく来たか」

 二人の行く手を野太い声が阻む。

 雲間に浮かぶ弓張り月が、経友たちの前方を淡く照らし出した。

 視線の先に、幾つもの死体が転がっている。

 身に纏う装備から察するに、彼らは安芸の民ではないようだ。

 周囲に飛び散った血飛沫は、まだ完全には乾ききっていなかった。もしかしたら、戦闘が終わってからそう時が経っていないのかも知れない。

 むせ返るような死臭に、経友は思わず顔を歪めた。

 野太い声の主が、つまらなそうに鼻を鳴らす。

 彼は数多の骸に囲まれていた。

 真紅の射篭手に、がっしりとした体格。

 一人の若武者が不機嫌そうな面構えで胡坐をかいている。

 見間違えようがない。

 眼前にいる大男は安芸武田家の武将、山県重房であった。

「重房……」

 重房は不貞腐れた様子で、こちらを睨み付けていた。

 身体のあちらこちらに散在する刀傷から血が滲み出ている。

 恐らく、周囲に転がっている集団と死闘を繰り広げた後なのだろう。

 よくよく見れば、重房は肩で息をついていた。

「どうした、吉川の。大分痛めつけられたようじゃないか、え?」

 重房が小馬鹿にしたような口調で笑った。

 経友はその声を受けて、松寿をかばうように前に出る。

 重房の発する眼差しは険しいことこの上なかったが、それでも殺気の類は感じられなかった。

 とは言え、武田の被官である彼がここで待ち受けていたと言うことは、武田家が元綱方に……いや、尼子方についたということは間違いない。

(ならば、松寿に対する害意は明らかか……)

 経友は覚悟を決めて、狐ヶ崎を重房に向けた。

 蒼い刀身が月明かりを受けて、ぎらりと煌く。

「ふん、この前とは打って変わって血気盛んだな。やはり、色に狂ったか」

 頬杖を突きながら投げかける重房の口調は、依然険しい。

「何だと?」

「よっと」

 重房が難儀そうに立ち上がる。

 彼の足元は若干ふらついており、先の戦いが激戦であったことを窺い知ることができた。

「俺の行動を安易だと諌めておきながら、貴様自身がこの体たらくだ。色に狂った、としか評しようがあるまい?」

 彼の嘲りを受けて、経友の脳裏にここ数日間の足跡が去来していく。

 今、ここに至るまでに経友が歩んできた道筋は、お世辞にも褒められたものではなかった。

 いくら仲の良い幼馴染のためとは言え、家を捨て、命をも投げ打って難題の解決に奔走するなど、正気の沙汰とはとても思えない。

 以前、重房の行動を『考えなし』と非難した人間が起こした行動にしては、あまりにも無責任が過ぎると言うものであった。

 前向きに評するにしても無謀というより他に無く、色狂いと難じられたところで、むしろ当然の帰結と言えるだろう。

 だが……それでも、経友は重房の言葉を否定した。

「いいや、違うね」

 松寿に対して欠片ほども好意がない……と言ってしまえば嘘になる。

 だが、それでも経友の胸中には、これを期に意中の女性と添い遂げたいだとか、自分を良く見せたいなどといった打算的な疚しい感情は存在していなかった。

 ただ、松寿が助けを求めているから――

 手を差し伸べる資格を有していたのが、自分であったからこそ動いただけなのだ。

 それ以外の感情を挟む余地など、経友にはなかった。

「ならば、貴様の目指している道は一体何だと言うんだ」

 だから、このような重房の詰問に対し、経友は真っ直ぐと相手を見返してこう言った。

「松寿の春であること。これが俺の、武士としての本懐だ」

 ――と。



「千ちゃん……」

 張り詰められた弓のようなぴりぴりとした空気が辺りを支配する。

 息をつくことすら許されない空間。

 二人の顔を交互に見ながら、どうしたものかと悩んでいた松寿でさえも、呼吸をすることを忘れたように黙り込んでしまった。

 にらみ合いが続く。

 しばし経った後、険を深めた重房の視線が不意に地面へと向けられた。

 それと共に、場の空気がつかえの外れた弦のように弛緩していく。

「本懐、か」

 難しい顔のまま重房がぽつりと呟いた。

 その声色は何故かとても寂しそうで、何処か苦悩を抱えているように聞こえた。

「俺はお前がうらやましいよ、千若……」

「重房――」

 山口に居た頃の、旧来の呼び方で呼びかけられて、経友は何事かとほんの少しの戸惑いを見せた。

 体格に恵まれた彼の身体が小さく見える。

(こんな弱い姿を見せる奴じゃないのに……)

 経友は、まさかの事態にかけるべき言葉を飲み込んだ。

 山県重房。

 いつも経友の元に争いごとの種を持ち込んでくる、まこと厄介な人間。

 その気性は猛々しく、他人にへつらうことのない……とても誇り高い男。

 そんな重房が、天敵ともいえる経友を前に、ここまで弱い姿を見せているのだ。

 経友が驚くのも無理からぬことであった。

「周りに転がっている木っ端兵士どもを見てみろ」

「ん」

 重房の伏目がちの視線が、辺りの骸へと向けられる。

 経友は、彼の視線を追うようにして、数多に散らばった死体へと注意を向けた。

「何処の手の者だと思う?」

「何処の手の者って……」

 経友は考え込んだ。

 安芸の者でないことは確かである。

 はじめは出雲の兵かとも思ったが、すぐに山中で出会った兵たちとは身なりが若干違っていることに気がついた。

 中々答えに行き着かない経友を尻目に、松寿がおずおずと声をあげる。

「もしかして……大内の?」

 その答えに、重房は是と頷いた。

「八本杉か、はたまた相良の頭でっかちか……詳しいことは分からんが、いずれにせよ大内の手の者に違いはない」

 経友は重房の返事を聞き、胡乱な表情を浮かべた。

 杉と相良、そのどちらも周防の大内家を支える将家の一つである。

 そのような名家の兵が、何故安芸の山中で暗躍していたのだろうか。

 これが尼子ならば話は分かる。相合勢と繋がりがあるからだ。

(ならば、大内は……?)

 次々と理解の外側に展開されていく事態に、経友の疑問は深まるばかりであった。

「お前は頭の回る時と回らない時の差が激しすぎるのが問題だな……」

 経友の不理解を感じ取ったのか、重房はくたびれたような表情でため息をついた。

「あの……狙いはやっぱり……」

「そう、あんただよ。松寿姫。安芸における影響力の確保が奴らの狙いだ」

 全く腹立たしい。重房は一言付け加えると、呆れたようにひらひらと手を振った。

「毛利家中の家督争い……相合元綱が勝ってしまえば、安芸国内における尼子家の影響力が強まってしまう。大内にとっては面白くないってことだろう」

 怒りをあらわにしながら説明を続ける重房。

 それを聞きながら、経友は驚きを隠せずにいた。

 縁談の誘いから始まった毛利家のお家騒動。

 幼馴染を窮地に陥れた今回の騒動は、何とその背後に大大名たちの覇権争いを抱えていたのだ。

「俺たちの一挙一投足は、全て大国の権益に繋がっている。だから、あいつらは俺たちの動きに目を光らせている。俺たちがあいつらに不利益をもたらす行動を起こさないようにな。今だって……何処かから俺たちのことを見張っているだろうよ」

 重房の言葉に背筋の凍るものを感じ、経友は慌てて周囲を見回した。

 深い暗闇が支配する猿掛の山中は、相も変わらず静寂そのものだ。

 自分たち以外の誰かが身を隠しているといった気配は感じられない。

 しかし、それが余計に不気味でもあった。

「高々小娘一人の身柄を巡って、西国を二分する大勢力が睨み合う。全く、情けなくて涙が出るぜ」

 重房が苦笑いを浮かべる。

 自分よりも遥かに大きい存在に対してであっても、彼の無遠慮な態度は少しも収まることがない。

 ぎろりと光るどんぐり眼に、大きな失望がちらついて見えた。

 だが、そうした彼の不遜な態度も、じきに自嘲気味なため息に塗り替えられていく。

「……いや、奴らよりも俺の方が情けないか」

「重房……」

 忌々しげな舌打ちと共に吐き捨てられる。

 そして、重房の目がまっすぐと経友を見据えてきた。

「此度の騒動、武田は尼子に合力することに決まってな。松寿姫の確保に俺が駆りだされることになった」

 経友は得心がいったように、成る程と呟いた。

 武田と尼子は、反大内と言う一点において利害が一致している。

 両家が何らかの盟約をすでに結んでいると言うならば、盟友に対して与力することは極自然な流れだと言えるだろう。

 重房のような若手が単独で派遣されたのは、恐らく体面の問題だ。

 盟友との信義を考えるならば、表立って相合派の支援を表明し、戦に介入してしまえば良い。

 それができないのは、大内の動きを慎重に窺っているが故。

 そして、万が一松寿派が勝ってしまった場合を視野に入れているためであろう。

 安芸国内に波風を立てぬ程度に支援を抑え、それでいて信義を疑われぬ程度に優秀な人材を送らなければならないとするならば、自然と支援の幅は狭まってくる。

 今を時めく若手の一人たる重房の派遣は、まさに適材適所であると言えた。

「成る程、土地勘のない者よりよっぽど適役だな」

「当たり前だ。この俺以外に斯様な大役が務まるものか」

 と、つまらんことを言うなと噛み付いてくる。

 自分が選ばれたことに対して不満を抱いているわけではないようだ。

「ならば、何が不満なんだよ」

 経友がそう問いかけると、重房は苛立たしげに頭を掻いた。

 綺麗に剃られた重房の頭に、引っ掻き痕が赤く浮かび上がる。

「他国の奴に顎でこき使われると言うのが、どうにも我慢がならんのだッ」

 重房が声を荒げる。

 彼の巨体から吐き出される炎にも似た怒気に周りの空気がびりびりと震えた。

「御屋形様の命ならば、別段命を捨てたところで惜しくはない。惜しくはないのだが……」

 それでも好かんものは好かんのだと、重房は辛そうに喉から言葉を搾り出す。

 彼の肩は大きく震えており、その両拳は硬く握り締められていた。

「俺には政の才が無いから、こんな不満は筋違いかも知れん。だが、それでも……御屋形様なら……御屋形様ならば、この安芸を誰にも媚びへつらうことのない立派な国にしてくれると信じていたのだ」

 そう言い終えると、重房はひどく気落ちした様子で、がくりと肩を落とした。

 重房の憐憫を誘う姿は、常ならば絶対に見ることができないものであっただけに、彼の失意がいかほどのものか、経友には痛い程良く分かった。



「なあ、松寿姫」

「うん」

 重房が俯いたまま松寿に語りかけた。

「どうやら、あんたはそこの千若に武士の本懐を授けたらしい。ここは一つ、俺の問いかけにも答えてはくれないか?」

「……分かった」

 松寿がこくりと縦に頷く。

 彼女の瞳には若干の不安が見え隠れしていたが、それでも馴染みの知人のためにできる限りの助力をしてやりたいとおもったのだろう。

 彼女の返事はとても早かった。

「あんた、この国のことをどう思う? この国に住む、大国の顔色を窺いながら、右往左往することしかできない俺たちをどう思う? いつまで俺たちは俯いていなければならんのだ……?」

 面を上げて、力なく問いかけてくる。

 重房の瞳は暗く淀んでおり、縋りつくものを捜し求めている風であった。

 この国をどう思うか。いつまで自分たちは俯いていなければならないのか。

 経友も彼の問いかけを反芻するように、心の中で繰り返す。

 とても難しい問題だ。

 大内と尼子。西国を二分する大勢力の存在は、圧倒的なまでに他者の追随を許さない。

 経済基盤、軍事力、外交能力……。

 そのどれをとっても卓越しており、並みいる国人領主がどんなに背伸びをしたところで、多少団結をしたところで対抗できるものでない。

 安芸国内でも一、二を争う力を秘めている武田や小早川ですら、両家の顔色を窺う日々が続いているのだ。

 他の国人たちが右往左往している現状は致し方ないものであると言えた。

 経友がどう考えたところで、重房に満足のいく回答を与えられそうにはなかった。

 自然と松寿へと視線が向けられる。

 彼女は静かに目を閉じて、深く物事を考えていた。

 時折、言葉を紡いでいるかのようにかすかに薄紅色の唇が開く。

 重房の問いに対して真摯に応えようとしている。そう思わせる仕草であった。

 しばしの沈黙の後、彼女はゆっくりと眼を開き、彼の問いに答えを示した。

「安芸の国は……私たちは、決して弱くないよ」

 力強い眼差しで、はっきりと言い放つ。

 彼女の透き通った声が、経友たちの脳髄を奮わせる。

 単なる慰めの言葉ではない、確信に裏付けられた何かを感じさせられた。

「それは慰めか……? 俺たちのような小物が強者相手にどうやって勝てる」

「弱者が強者に勝てないなんて誰が決めたの?」

 重房の言葉に、松寿はにっこりと微笑んだ。

 その微笑みに、経友の心が揺り動かされる。

『至弱とて、至強を食らうことがあるのだ』

 出雲の国主・尼子経久の言葉が思い起こされる。

 それと同時に、松寿の姿とかの謀聖の姿が重なって見えた。

「百万一心、だよ」

「ひゃ、百万、一心……?」

 重房が戸惑いながら鸚鵡返しに聞き返す。

 経友にとっても聞き慣れない言葉であった。

 二人は呆気にとられたように口を開き、彼女の言葉を待った。

「そう、百万一心。私たち一人一人の力はまだ弱いかもしれないけど、皆で力を併せれば何だってできるんだよ」

 第一、と続けながら松寿は人差し指をぴっと立てる。

「絶対に勝てないなんて結論に達しちゃうのは、大内家や尼子家の力の根幹を測り違えているからだと思う」

「測り違え……?」

 思わぬ指摘に重房は狼狽する。

 六尺を超える大男が、か弱い少女に対して及び腰になっている光景は、まさに異様そのものであった。

「国の根幹は人に在り。まつりごとも、兵家のことも、それを左右するのは人の力。彼らが強いのは、私たちよりも人の力を集めやすい環境にあるか、もしくは集める術に長けていただけなんだ」

 滔々と語る松寿の言葉には、端から端まで精気が宿っていた。

 彼女の指摘は経友たちが考えたこともないような斬新な視点に基づかれたものであったが、その全てに確信をもたらす説得力があり、経友は一々納得させられてしまう。

 これほどの器であったのか。二人の口から感嘆の息が漏れ出でた。

『俺たちのような猪武者は、戦の巧拙でそのものの価値を計りがちだ。その視点をもてる人間てのは中々いないものよ』

 松寿の演説を聴きながら、経友は祖父の言葉を思い出していた。

(成る程、確かに松寿は俺たちとは何か別の景色を見ているのかもしれない)

 今まで彼女のことは、出来の良い弟に隠れた、引っ込み思案な少女であると思っていた。

 自分と一緒であると思っていた。

 だが、その認識は改めなければなるまい。

 自分は今まで彼女の一面だけしか見ていなかったのだ。

 経友は内心、自身の不覚を深く恥じ入ると同時に、幾ばくかの寂寥感を抱いていた。

 そんな経友の心中の遥か遠くで、松寿に秘められた才はこれでもかと言わんばかりに輝きを放ち続けている。

「安芸にはね。いっぱい優秀な人が眠っているよ。そんな人たちが、力を合わせることができたら……他国に怯える毎日を過ごす必要なんてない。私たちは自信を持って良いの」

「む、う……」

 気圧されたように重房は黙りこくると、顎に手を当てて何事かを真剣に悩み始めた。

「百万、一心……百万一心……。そうか……百万一心か」

 再び面を上げた時、重房の瞳は眼前の霧が晴れ渡ったかのように澄み切った色になっていた。

 興奮収まらぬと言った風に見える。

 彼は眉を持ち上げながら、身を乗り出して経友に語りかけてきた。

「千若」

「ん」

「今回は見逃してやる。疾く郡山へと急げ」

「良いのか?」

 経友が不安げに確認する。

 重房の行おうとしていることは、明確な命令違反である。

 何処に誰の目があるとも知れぬ現状において、それはあまりにも危うい橋を渡る行為だ。

 だというのに、心配げに問いかける経友を尻目に、重房は迷いのない実に爽やかな表情をしていた。

「ああ、俺はこれから御屋形様の元へ向かい、松寿姫から得た答えを以ってお諌めしてくる」

「馬鹿なッ!」

 慌てて経友は声を荒げた。

 そんなもの通じるわけがない。

 御家のことは、単なる思い付きで生まれた代物ではない。家中一同がよくよく話し合って決定されたものだ。

 それをやり遂げぬばかりか、真っ向から諫言しようなど……命が幾つあっても足りるものではない。

 経友は必死に制止したが、重房は頑として譲らなかった。

「良いんだ。俺は元々器用な人間ではない。納得のいかぬものを無理矢理納得させて命をこなすなどという芸当は、土台からして俺には無理な話だったのだ」

「だが……」

「良いから行け。腹を切ることになるかも知れんが、そうであったとて悔いはない。安芸の行く末、俺も楽しみになってきおったわ」

 重房は心底嬉しそうに腹を抱えると、経友に帰還を促した。

 こうなっては重房は何と言っても聞き分けてくれないだろう。

 経友は悔しそうに唇を噛むと、せめてもの無事を祈ることにした。

「分かった。だが、決して命を粗末にするんじゃないぞ」

「阿呆、日頃より命を奪い合う敵にかける言葉か」

「だからこそだ。俺の知らぬところで勝手に死ぬんじゃない」

 経友は険しい顔でそう告げた。

 重房は肩を竦めて笑い飛ばすと、話はこれまでとばかりに踵を返した。 

 経友も松寿の手を取り、先を急ぐことにする。

「そう言えば」

 すれ違いざまに、重房が思い出したようにぽつりと呟いた。

「麓でお前の馬が待っていた。奴らは利口だな。山の空気を敏感に察知して、その場から離れたのだから」

「そうか」

 経友は一言礼を口にして、そのまま振り向きもせずに麓を目指した。

 重房と再び相見えることが出来るよう切に願いながら。

 


 経友たちが重房と対峙していた頃。

 坂の居城から数里ほど北に位置する草原を、六騎の騎馬武者が駆け抜けていた。

 夜風を切るようにして先頭を走るは、相合勢の旗頭たる相合四郎元綱である。

 女と見紛うほどに端正であった面持ちは、今や不快げに大きく歪んでいた。

 彼の内面に蓄えられていたどす黒い感情を覆い隠すものは既にない。

 心なしか、彼に付き従う家人たちが距離を置いているように見えるのは気のせいであろうか。

 元綱が身に纏っている殺気は、家人にすら恐怖を催す類のものであった。

「くそッ、盆暗が余計な手間をかけさせるッ!」

 元綱が恨みがましく舌打ちする。

 彼らは雪崩のような勢いで猿掛の地を目指していた。

 松寿の逃亡。

 伝令の報告を聞いた時、元綱は眩暈を起こすほどの衝撃を受けた。

 彼には自信があった。

 松寿を人質に取り、尼子の迎えを待つという対応は、今回の事態における最適解であったと確信している。

 松寿派の家老たちが迅速に動いたことは計算外ではあったが、それでも彼らを完封することができていたことがその証となろう。

 尼子への連絡とて、事件のその日の内に行ったのだ。遅きに失したと言うことはない。

 そう、全てにおいて抜かりはなかった。

 恐らくは今夜中にも、尼子の兵が松寿を出雲へと連行してくれたはずなのだ。

 そうして、今回の家督争いを無傷で収めた元綱は、晴れて毛利家を率いて雄飛していく……はずであった。

「それをッ、それをッ!」

 彼の目論見は音を立てて崩れ去ってしまった。

 全ての元凶は、吉川の三男坊である。

 理性的とは言えない彼の面相が、眼前に浮かんでくる。

 吉川経友。

 祖父の薫陶を受けているせいか、武勇においては着目すべき点もあったが、それでも元綱と比べれば、取るに足らない凡人であった。

 山口で顔を合わせていた頃から、学においては比べるべくもなかったし、弓の腕においてさえ元綱が勝っていたのだ。

「あいつは、何故……いつも私の邪魔をするのだッ!」

 幼い頃の記憶が思い起こされる。

 元綱にとっては、忌まわしい記憶である。

 どんなにその才を磨いたところで、出自と言う名の壁が立ちはだかってくることを痛いほど分からせてくれた一件であった。

 元綱は頭にもたげてきた記憶をかき消すようにかぶりを振ると、前方を睨みつけた。

「犠牲を払わずになどと甘いことはもう言わぬ……姉上ともども必ず殺してやるッ」

 そして、憎しみを込めて吼える。

 彼の咆哮は風に逆らい、猿掛へと目指していった。 

 ――その時、元綱の鼓膜が咆哮を切り裂いてこちらへと飛来してくる何かの存在を感じ取った。

 元綱は頭だけ動かし、闇夜を切り裂く飛来物を避けて見せる。

 背後で骨の砕けるような鈍い音がした。

 飛来物を頭に受けた家人の一人が、力を失い落馬していく。

「やっぱり来た」

 前方から年端も行かない少女の声が聞こえてくる。

 その声色は可憐ではあったが、感情の篭っていない無表情なものであった。

「君は……」

 雲の切れ間に顔を覗かせる弓張り月が、淡く前方を照らし出した。

 月明かりに照らされて可憐な少女の姿が浮かび上がる。

 身に纏うは色鮮やかな単衣(ひとえ)

 動きにくいことこの上ないはずのその装束を、彼女は金色のたすきでまとめあげていた。

 朱色の(おどし)紐で彩られた具足は、昨今見なくなった古風な大鎧を模しているようだ。

 あまりにも場違いでちぐはぐな風体であるというのに、不思議と彼女にはそれが似合っていた。

「何時から斯様に(かぶ)くようになったので?」

 元綱が皮肉を込めて問いかけると、少女の何処か眠たげな猫目がぎらりと煌いた。

 少女が半歩前に出る。

 手に持つ槍の切っ先は元綱の首筋へと向けられていた。

 二人の距離はまだ大分離れている――

 だと言うのに、辺りにはまるで互いの喉元に短刀を突きつけ合っているような、肌のひりつく緊張感が色濃く漂っていた。

 一触即発の空気の中、対面した二人は互いの名前を呼び合った。

「やはり君か。玖姫」

「久しぶり、四郎」


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