様々な思惑(一)
一、
月明かりが群雲に覆われてにわかに翳りを見せる。
経友は険しい眼差しを峠の向こうへと投げかけた。
あの峠を越えることができれば、豊国たちの待つ場所まで辿りつくことができる。
だと言うのに、遅々として進まない歩みと、一向に目的地へと近づけない歯がゆさに強く歯噛みした。
(くそ、あと少しだというのにッ……)
忌々しげに視線を近傍の林へと落とす。
明かりの乏しい闇夜の山道。そのあちらこちらで、ゆらゆらと数多の人影がひしめいていた。
それらの動きに乱れはない。実に統制の取れた動きだ。まるで飢えた狼を思わせる。
「……松寿、伏せるぞ。近い」
経友の忍び声に松寿が小さく頷き、息を潜めて身を屈めた。
茂みを隔てて半歩先を、何者かが通り過ぎていく。
じゃりじゃりと落ち葉を踏み鳴らす音が、経友の心をいたずらにざわめかせる。
(追っ手か……?)
気配を殺して、様子を窺う。
その身のこなしは、機敏そのもので隙がない。恐らく彼らが厳しい訓練を受けた兵士であろうことは容易に想像できた。
全員が深めの笠をかぶっており、影の差した暗い面相の奥で、ぎらりと瞳を輝かせている。
その煌きたるや、まるで身の内に隠し切れぬ殺意が、止め処なくあふれ出ているようであった。
「――、情報では――こちら――」
経友の耳が彼らの会話を断片的に拾い取った。
何者かを追いかけている最中であるように聞こえる。
こんな夜更けの山道にいる者など限られている。恐らく山狩りの獲物は、経友たちであろう。
とすれば、彼らは元綱の手の者だろうか。
成る程、このまま松寿が郡山へと無事に生還し、式部たちと合流してしまえば、相合勢の目論見はもろくも崩れ去ってしまうに違いない。
ならば、血眼になって追っ手を差し向けるのも、理解できる話ではあった。
経友がそう結論付けようとしていた矢先、松寿が予想に反した見解を口にする。
「千ちゃん……あの人たち、安芸の民じゃないよ」
緊張に満ちた声色で松寿が耳打ちをしてくる。
「何だって……?」
眉を寄せ、再び彼らの言葉に耳を傾ける。
言われてみれば、確かに安芸の訛りではない。
だとすれば、一体何処の人間なのだろうか。経友の脳裏をいくつかの国名がくるくると去来していく。
「そうか、あれは――」
「うん……あれは出雲訛りだと思う」
しゃがみこんで様子を窺っていた松寿が、くぐもった声でそう答える。
「くそ、最悪だッ」
まさかの凶報に、経友は地面を殴りつけたい衝動に駆られた。
恐らく彼らは松寿を引き渡すために元綱が呼び寄せた連中であろう。
洞窟へと到着した彼らは、相合勢の骸を見て松寿の逃亡を察し、追跡を開始したのだ。
そう考えると、彼らに先んじて松寿を奪還できた分、これは間一髪の幸運であったと言えるのかもしれない。
だが、猿掛からの脱出がより困難になったことも確かであった。
「……真っ直ぐに帰宅とはいかないか」
苦々しげにそう言うと、経友は松寿の手を引いてきびすを返した。
音を立てぬよう、細心の注意を払って茂みの中をゆっくりと歩く。
あと少しというところで回り道を余儀なくされたことは腹立たしかったが、それでも手詰まりというわけではない。
何せ猿掛付近の山々は、幼い頃から遊び場にしてきた我が庭とも言えるべき場所である。
巨木のうろから、誰も知らない獣道。
一見降りられないような沢へと降りることのできるツタの道まで、経友の脳裏には鮮明に焼きついていた。
(易々と捕まるものかよ)
この国に不案内な他国の人間なんぞに遅れをとるつもりはない。
経友は吐き捨てるように内心呟いた。
細い獣道を通り、木々で作られた暗い緑の天幕を潜り抜ける。
密集した木々は、追っ手から身を隠すのに好都合であった。
何としてでも郡山へ松寿を届けねばならない――
樹間に密生する下草に夜露のひんやりとした冷たさを感じながら、経友たちは駆け足で麓を目指した。
◇
包囲網からの脱出を試みてより、一刻ほど過ぎた頃。
息を切らして駆け続ける経友の耳朶を、流れ落ちる水音と湿り気を含んだ風がかすかに撫でていった。
二人は急いていた歩みを一旦止め、音の出所へと耳を傾ける。
そう遠くないところに沢がある。
(どうする、沢を下りるべきか……?)
経友は記憶を辿りながら、逡巡した。
この先にあるのは、何度も魚釣りで訪れたことがある沢だ。
急勾配になっており、沢の近くまで下りるには一工夫がいる。そのため、物好きな釣り人が稀に到来するくらいで、里の人間は滅多に来ることはない。一旦下りることさえできれば、中々の釣果が期待できる場所であったと記憶している。
沢を下っていけば麓までは一本道になっている。
麓まで下りれば、人家があるから馬を借りれば郡山までさほど時間はかからない。
日中ならば、下山経路として十分に候補に入れてよい道であった。
「松寿……」
「うん、わかってる」
経友の声に松寿が頷く。
本来、足元のおぼつかない真夜中に沢下りをするなど、危険極まりない愚行である。
もし、濡れた岩や崩れやすい斜面から足を踏み外して、沢へと落ちてしまったら命の保証はない。
「行こうよ、千ちゃん」
だが、だからこそ敢えて沢を下ることに意味があった。
恐らく追っ手は山道を中心に、麓へと段々と下りるように捜索をしているはずだ。
沢の近辺は、その危険性故に追っ手も近づかないだろう。
自然の脅威と、人の手による凶刃、そのどちらを避けるか――
それは、なけなしの取捨選択であった。
「急ごう」
経友は松寿の手を取り、再び獣道を駆け出した。
鬱蒼とした木々が視界の端を流れていく。
やがて周囲にあった緑がまばらになっていき、眼下に大きな滝つぼが姿を現した。
辺りに漂うひんやりとした空気の中、経友が足元を見下ろす。
「仕方ないとは言え、ここを下るのか……」
うんざりとした表情で経友が毒づいた。
崖と表現して差し支えない急勾配の下で、水しぶきが盛大に飛び散っている。
月に照らされた水面のあちらこちらには鋭角的な岩が飛び出しており、その淵では急流が大きな白い渦を為していた。
崖の上から、沢の傍まで大体十間(約18メートル)ほどある。
この急勾配を下るのは、慣れた者でも相当難しいものがあるのだ。
いつもならば、さして困難とも思わないが、今回ばかりは松寿に加えて自分の怪我がある。
いつも以上に慎重にならねばならないだろう。
経友はごくりと唾を飲み込んだ。
「気をつけろよ」
松寿に注意を促しながら、掴まることのできるツタを探りながら絶壁を降下していく。
体重をかけすぎれば崩れ落ちてしまいそうな足元が、ひどく心もとない。
時折、松寿がずり落ちないように足場をしっかり踏み固める必要があった。
ツタが経友たちの体重を受けて、ぎりぎりと悲鳴を上げる。
手のひらから汗が滲み出た。冷や汗に類するものである。
経友は逸る気持ちを必死に抑えて、ゆっくり着実に進んでいった。
「松寿、大丈夫か?」
「……うん、これ、くらいならっ……」
そう応える松寿の表情は、苦悶で青ざめていた。
松寿は元々身体を動かすことが得意でない。
経友を心配させまいと強がっているのが、ありありと見て取れた。
ちらりと地面へ目を向ける。
随分と下まで下りてきた。後、もう二間ほども降りることができれば、大きな岩場へと足をつけることができるだろう。
さあ、あともう一息だ。
そう意気込んで、足を伸ばそうとしたその時――
そう遠くない場所で、激しい剣戟の音が鳴り響いた。
◇
「……刀の、音ッ?」
松寿が驚きの声をあげる。
山中をこだまする甲高い金属音は断続的に続いており、それが両者の力が拮抗していることを教えてくれた。
経友は困惑の表情を浮かべる。現状に理解が追いついてくれそうになかった。
(一体誰と誰が戦っている……?)
再び刀と刀がぶつかりあう音が木々をざわめかせる。
経友にはその火花が飛び散る様までも容易に想像することができた。
しかし、その刀を持つ者たちの姿かたちを思い浮かべることができない。全く想像すらつかなかった。
片方は山狩りをしている連中で間違いないだろう。
けれども、もう片方に推定できる集団にはとんと心当たりがない。出雲の――あの尼子の兵に戦を仕掛けるような無謀な輩が、この安芸にいるとは思えなかった。
と、不意に音が鳴り止んだ。
戦闘が終ったのだろうか。
経友がそう口に出そうとした瞬間、今度は頭上から大量の足音が聞こえてきた。
乱暴に下草を踏み抜いていく集団が、まっすぐこちらへと向かっている。
(まずいッ)
慌てて周囲を見回し、死角となるべき場所を探す。
頻繁に崖崩れを起こしているであろう急勾配の途中には、身を隠せるような茂みは生えていない。
後もう少し下ることができれば、岩場の物陰に隠れることもできるかもしれないのだが、何にせよ今はとにかく急ぐしかなかった。
「松寿、急ごうッ……!」
「う、うんっ……」
経友は飛び上がりそうになる心臓を押さえつけながら、松寿に小声で呼びかける。
だが、ただで慣れない運動をしている上に、急な事態に対応できるはずがない。
松寿の困惑は更に深まるばかりで、
「あっ……」
ついには足を踏み外し、ツタから手を離してしまう。
岩場目掛けて松寿が滑り落ちていく。
経友の顔から血の気が失せていった。
松寿の身体を繋ぎとめるべく、無我夢中で手を伸ばす。
「松寿ッ……!」
ずしっと、彼女の体重を左手に感じる。
奇跡的に、経友の手は松寿の腕を掴むことに成功した。
自らの手に感じる命の重み。
二人分の体重を受けてツタを持つ手が引き裂かれるように痛んだが、それでも経友は彼女を決して手放すまいと、彼女の細い腕を強く握った。
二人の身体が、宙吊りに揺れる。
額からぽたりと汗が流れ落ちていった。
辛うじて、最悪の結果だけは避けることができた。だが、それでも危機的な状況であることに変わりはない。
現在二人は宙吊りの状態で、手にしているツタに全体重を預けている。
松寿を助けた拍子に、その体勢を大きく崩してしまったのだ。
早急に立て直したい所だが、それには崖に足をつけて身体を安定させる必要がある。
足を壁につけてしまえば、嫌が応にも物音が生じてしまうだろう。
経友は痛む腕のことを極力考えないようにしながら、真上を見上げて様子を窺った。
足音はすでに途絶えている。
山狩りの集団は経友たちの真上で立ち止まり、何事かを話し合っているようであった。
声と気配は感ずれども、彼らの姿は視界に映らない。
どうやら、上手い具合に連中のいる場所からは死角になっているらしい。
不幸中の幸いと言える。経友は安堵の吐息を吐いた。
(けど、無闇に物音は立てられないか)
経友は覚悟を決めて、このまましばらく息を潜めてやり過ごすことにした。
(頼むから……早く、立ち去ってくれ)
心中で切に祈る。
痛む腕は耐えれば良い。それよりも心配なのは、経友が必死にしがみついているツタの方であった。
今まで以上の負荷を受けたツタは、ぎちぎちと徐々に引きちぎれて行く。
彼らがこの場から立ち去るまで、果たしてツタが耐えられるかどうか。
云わば、これは時間との勝負であった。
(頼むッ!)
ツタが千切れぬよう、何度も願いを込める。
刹那の一瞬が、まるで永劫のように感じられた。
心臓の鼓動がたっぷりと三十回は脈打った。
まだ立ち去ろうとしてくれない。
更に三十回。
未だ、何かを探している。
心臓の鼓動が速くなっていく。
まだ動かない。
(まだかッ!)
そんな経友の焦りが災いしたのか――
かすかに触れた崖の土壁から、小さな土の破片が崩れ落ちた。
経友の表情が絶望に染まる。
転がり落ちていく破片を凝視しながら、経友はせめて岩場に衝突した際に生じる音が小さなものであるようにと祈った。
破片が岩場を目指して落ちていき、そして地面にぶつかり盛大に破砕する。
音は――響かなかった。
「――ッ!」
再び遠くで聞こえる剣戟の音。
あの甲高い金属音が、土くれの破砕音をかき消してくれたのだ。
山狩りの集団から発せられる殺気が一段と濃密なものに変わる。
彼らはこちらに気づく様子もなく、音のする方向へと山野を駆けていった。
体勢を立て直した経友たちは、新手がやってこない内にと急いで下りていく。
二人の両足が地面に着いた途端、経友は腰が抜けそうになりながら、長いため息をついた。
「……心臓に悪いだろうが」
魂が抜け落ちるほど長いため息が、急流にかき消されていく。
この調子ならば、少々物音を立てたところで崖の上までは届かないだろう。
経友は川下へと視線を向けた。
山中に響き渡る剣戟の音など、理解の及ばないものは甚だ多いが、ひとまず当面の危機は回避されたと言って良い。
ならば、郡山を目指すだけだ。
経友は松寿の手を引き、川下へと歩き出した。