舞妓、湯楽苑に行く
「今どき『お風呂入り』なんかしたら、大問題になるだろう?」
舞妓は強張らせていた身体からそっと力を抜いた。まだ指先がかすかに震えている。湯楽苑──温泉を使ったプール施設に行こうと客が言い出したものだから、身構えてしまった。
花街で長らく慣習とされてきた「お風呂入り」というしきたりが内部告発されたのは、つい最近のことだ。界隈は騒然とし、世間では「パパ活とか援交と大差ないじゃん」といった冷たい視線が向けられるようになった。
当たり前だ、と梅奴は思う。舞妓は十代の者がほとんどだ。
一方で、お座敷遊びをする富豪たちは、父親より歳上の者が多い。そんな相手とお風呂に入り、身体を洗わされる──性被害でなくてなんだと言うのだろう。
梅奴の脳裏に、歳上の芸妓が「お風呂入り」から逃がしてくれた苦い記憶が蘇った。
「湯楽苑だから、水着は着てな。……どうだろう?」
梅奴と一緒にお座敷にあがったきよ葉はそっと目配せをしてきて「水着着てるんやったら、まあ……」と言葉を濁した。梅奴が徳利を手に取る。客のお猪口に酒を注ぐ手は、まだ少し震えていた。
数日が経って、舞妓一行は湯楽苑に連れ出された。夏らしく空が高く、あたりに蝉の鳴き声が響いていた。お稽古にお座敷にと花街での暮らしは忙しいから、なんだか新鮮だな、と梅奴はまぶしさに目を細めた。
梅奴は微笑みを作りながらも、その裏できゅっと頬に力を入れた。今日は着物を着ていないし、カツラもかぶっていない。梅奴の長い髪が、まだ警戒を解けずにいる彼女の表情を隠した。
きよ葉などは浮き輪を持って、楽しむ気満々だ。
水着に着替えた梅奴は、パレオでそっと脚を隠すと、プールへと向かった。脚を出すのは慣れない。
湿気と塩素の臭いが漂っていたロッカールームと違い、外は明るく、開放感にあふれている。
隣をきよ葉が早足で駆けていって、シャワーに「冷たいぃ!」と騒いでいる。「プールサイドで走らないでください」と、近くで走っていた子供たちと一緒に監視員から注意されている。
アロハシャツを着た富豪がゆっくりと現れ、それを笑いながら見た。梅奴は隣に並んだ富豪に、あいまいな笑みを返した。
「梅奴も、今日は好きなものを食べて遊びなさい。羽を伸ばすと思ってな」
プールサイドには浮き輪を持った家族連れ、ビーチボールを持った若者たちもいて、誰も彼も満面の笑みを浮かべている。
緊張しているのは自分だけかもしれない──。
梅奴は舞妓として歩くときと同じく、パレオから脚が見えないように、楚々とした足取りでプールサイドに向かった。
「梅ちゃんも! 早く!」
一足先にプールに入っていたきよ葉がぶんぶんと手を振る。梅奴がシャワーを浴び、そろそろとプールに脚を浸す。きよ葉が水をばしゃばしゃとかけてきた。
「きよちゃん、えらいはしゃいでまあ」
「せっかくプールに来たんやから、楽しまんと損やわ」
ちらりとプールサイドの様子をうかがう。富豪は日よけ傘の下、サングラス姿でビーチチェアに寝そべっていた。
流れるプールに浮かんで何周かするうち、きよ葉は浮き輪に飽きたらしい。梅奴は渡された浮き輪で浮かびながら、ゆったりとした時間を過ごした。パレオの端がクラゲのように、水の中に浮かんでいた。
定時の休憩時間が来た。梅奴は勢いよくプールから上がると、富豪のいるビーチサイドに向かった。足元からひたひたと水の音がする。富豪はサングラスを外すと、テーブルに置いてあったドリンクを飲んだ。
プールの確認作業が終わるのを待ちきれず、きよ葉はぐっすりと寝込んでしまったらしい。ビーチチェアの上で口を開けて眠っているのを見て、思わず梅奴は吹き出した。
「顔にタオルかけたろかしら」
「縁起でもない。ラッシュガードにしときなさい。ほれ」
富豪から受け取ったラッシュガードをきよ葉の頭にかけて、梅奴はビーチチェアに寝そべった。パレオの裾から脚がのぞいていたことに気がついて、そっと直す。
「これもなかなか、乙なもんだね」
富豪の言葉に、梅奴はわずかに首を傾げてつづきをうながした。
「舞妓の素の笑顔は値千金だよ。ほんとに」
誰かのところから転がってきたビーチボールがてんてんと跳ねて目の前を横切り、誰もいないプールに静かに飛び込んだ。
【おわり】