最終話:香観師の約束
都の南、翡翠湖のそばにある孤児院。
静華は、香調司の随行とともに、そこを訪れていた。
依頼の少年――ユウは、沈黙したまま、誰の問いにも答えず、ただ空を見ていた。
彼の身元も記録も不明。
だが静華は、そっと一壺の香を取り出した。
玲華の残した“最後の香”。
それは母が未使用のまま残した調香であり、未だ誰にも分析されていない“無名香”だった。
(香は語る。たとえ言葉がなくても)
香を焚くと、柔らかくも懐かしい香気が満ちた。
──甘い橙の花、冬を思わせる冷たい白梅、そして遠く潮の香り。
静華の脳裏に、少年の記憶が流れ込む。
――海に沈む船。
――誰かの手。
――「ユウ、逃げなさい!」と叫ぶ女性の声。
その女性の髪は黒く、長く、香包を手に握っていた。
静華の目に涙がにじむ。
(彼は母に守られた……彼もまた、“香に救われた者”だった)
香の記憶が断ち切れると、ユウが小さく声を出した。
「……あったかい、匂い……」
それが、彼の最初の言葉だった。
静華はそっと微笑み、彼の手を握った。
「もう大丈夫。香はちゃんと、君の声を伝えてくれたよ」
――その後、ユウは徐々に記憶と言葉を取り戻し、香童として香調司で学ぶことになる。
静華は観香官として都の香事件を司りながら、
時に“香による観測”を通して、人の記憶と心を癒す役目を果たしていく。
母の遺志を継ぎ、
香で人を操るのではなく、香で人の“想い”を繋ぐために。
春の終わり、花の香る風が吹き抜ける中、静華は空を見上げてそっと囁いた。
「母さん、きっと私は……ここで香を守っていくよ」
物語は、香の彼方へと続いていく。
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