第6話 「帝の記憶と、香に潜む影」
帝宮・御香殿。
夜半を過ぎた頃、香調司の許可を得た静華は、帝の元へ向かっていた。
帝の寝所に入ることは本来、香童ごときに許されるものではない。だが――
「……この香が、すべてを語ります」
静華は、母・玲華の遺香を焚くため、帝に拝謁を求めた。
玉座の奥、柔らかな薄絹に包まれた帝は、病に伏したように虚ろだった。
その側には、年老いた宦官・**鴻蘭**の姿があった。
「帝は今、ご気分が優れぬ。香など、無意味だ」
「いいえ。今こそ、香が必要なのです」
静華は強く言い放ち、香炉に火を灯した。
玲華の遺香が、静かに広がる。
それは、記憶を呼び覚ます香――「回帰香」。
白檀と涙香、そしてほんのわずかな甘い梅香が、帝の鼻腔をくすぐる。
しばらくすると、帝がゆっくりと目を開いた。
「……これは、玲華の香りか……?」
鴻蘭の表情が、わずかに強張る。
「記憶が……戻る?」
静華は深く頷いた。
「帝、過去に“寵妃が急に冷遇される事件”が、幾度も起きました。
そのたびに、誰かが“涙香”を焚いていた。記憶を変え、人の情を塗り替える香。
それを調香したのは、鴻蘭様。あなたの側近でした」
「嘘だ!」
鴻蘭が叫ぶ。「私が帝に尽くして何十年――香で帝を操るなど、馬鹿げた陰謀だ!」
だが静華は、さらに香壺を取り出す。
「これは、先の玉貴妃が倒れた時に使われた香と、全く同じ“香の癖”を持つものです。
玄月様が調香師として録香していた過去の記録に、“鴻蘭様が依頼した特殊香”と同じ配合でした」
帝の目が、細められる。
「……私が……妃を忘れていたのは、香のせいだったのか」
鴻蘭の顔が蒼白になる。
「帝、違います。私は、ただ……帝の心を軽くしようと……御心を守るために……」
「私の心を“偽る”ことでか?」
帝はゆっくりと起き上がった。
かつての威厳が戻るその声に、鴻蘭は言葉を失う。
「帝……私は、ただの宦官です。香に触れすぎ、あなたの“心の香り”すら、読めてしまった。
だから、寵妃を忘れさせれば、悲しみも消えると……!」
「――それは私の“悲しむ自由”を奪ったということだ」
帝の言葉に、沈黙が落ちた。
鴻蘭はすべてを悟り、頭を垂れた。
「……香は、やはり、怖ろしいものだな」
静華はそっと香炉の火を消した。
「香は人を操る道具ではありません。
想いを伝える“記憶の橋”です。人を縛るものではなく、解き放つものであってほしいのです」
帝は静華を見つめ、かすかに微笑んだ。
「玲華の娘よ。……よくぞ、戻ってきてくれたな」
静華の胸に、かすかな熱が灯る。
母が果たせなかった役目を、今、自分が引き継いだのだ。
香の真実は、すでに漂いはじめている。




