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第5話 「香調司の闇、そして母の記憶」

香調司・本殿。


夜の帳が下りる頃、静華はたったひとり、そこに足を踏み入れた。

香壺がずらりと並ぶ石棚、微かに漂う龍涎香りゅうぜんこうの香り──


その中央で、長衣を纏ったひとりの男が香を調合していた。

玄月げんげつ。帝に香を献上する最高の香術師にして、静華の師。


「静華か。よく来たな」


男は手を止めず、まるで予期していたかのように言った。

調合していた香料の一部が、静華の鼻を打つ。


(これは……白檀、沈香、そして……涙香)


間違いない。宴で玉貴妃に使われた毒香と、同じ“癖”がある。


「やはり、あなたでしたか」


玄月の手が、ぴたりと止まる。


「香にすべてを聞いたか。……ならば、お前には、教える時が来たのかもしれんな」


玄月は棚からひとつの香壺を取り出した。


「“玲華の遺香”。お前の母の最後の調香だ」


静華の胸が波打つ。

その名を冠した香壺は、これまで開けることを禁じられていた。


「……なぜ、母は殺されたのですか?」


玄月は静かに座し、香壺の蓋を開けた。

すると、温かくも鋭い芳香が空間に満ちた。


「玲華は、“帝を欺く香”の存在を嗅ぎ取った。

――帝の側近にして宦官頭・鴻蘭こうらんが、涙香を使い帝の記憶を改竄していたのだ」


「帝の……記憶を?」


「そうだ。帝が寵愛を忘れ、判断を誤り、そして都合よく“新たな寵妃”を選ぶよう、香で操っていた。玲華はそれに気づき、香を以て真実を暴こうとした」


だが、玲華の行動は“国の根幹を揺るがす行為”とされ、密かに消された。

香で真実を伝えられぬよう、最期は“声”も封じられたという。


「そして……私は、それを黙認した。弟子として、彼女を守るべきだったが、私は国家の“安定”を選んだ」


玄月の言葉に、静華の目が揺れた。


「では、なぜ私を……?」


「お前は、玲華に最も似ている。目も、指先も、そして“香を読む力”も。

再び観測者が現れれば、同じ混乱が起きる。私は……その芽を摘まねばならなかった」


「……自分の手で、ですか?」


「そうだ。だが今、私は迷っている。お前はあの時と違う。“誰かを裁く”ためではなく、“誰かを守る”ために香を使っている」


静華は静かに香壺を受け取った。


「この香……母が最後に残した真実。私が嗅ぎます」


彼女は香を焚き、煙を吸い込んだ。

一瞬、頭がくらりとし──そして、映像のように、かつての記憶が香と共に流れ込んできた。


──“帝を欺く香”を知った夜、玲華は手紙を残していた。

それは「香は、人を縛るものではなく、人を解き放つものであれ」と結ばれていた。


静華は目を開け、静かに言った。


「私は観測者になります。香で人を裁くのではなく、人の声を聞き取るために」


玄月はゆっくりと目を閉じた。


「……玲華と、同じだな。いや、お前はあの人よりも、もっと強いかもしれない」


夜の香調司に、白檀と涙香が混ざり合う静かな香煙が漂っていた。

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