第二章「神託」:第四節 暗殺
仲哀天皇は神託を退け、熊襲への進軍を決意した。
その朝、香椎宮の空は、まるで事の重大さを知っているかのようにどこか重たく曇っていた。
薄明の光が朱塗りの柱に斜めの影を落とす中、天皇は静かに戦装束に身を包んだ。
鎧の音が、沈黙のなかに甲高く響いた。
神功皇后はすでに庭に出ており、揃いの黒衣をまとっていた。
その目には何かを悟った者だけが持つ静けさがあった。
日本武尊は、天皇の背後に無言で立っていた。
彼の装束は血を吸い込むような深紅。
だがその瞳には、揺れ動く水面のような感情の波があった。
天皇は二人を見やり、そして宮の方角を振り返った。
「我が命は、天と祖父より預かったもの。神託を信じぬことを、我が運命に問おう」
そう告げた声には、不思議なほど力がなかった。
まるですでに自身の終わりを知っているかのように…。
やがて軍勢が整い、香椎宮を出立する。
馬の蹄音が大地を揺らすなか、天皇は沈黙を守り続けた。
午後になり熊襲の地にほど近い森で、突然に進軍が停止した。
そのときだった。
仲哀天皇が、突如としてその場に崩れ落ちる…。
最初は毒か、あるいは長旅による発作かと周囲がざわめいた。
周囲の混乱の中、真っ先に駆け寄ったのは神功皇后だった。
皇后が天皇の顔を両手で支え、その目を見たとき、彼女は息を呑んだ。
「……目の光が……ない……」
彼の瞳は、すでにこの世を見てはいなかった。
その肌はすでに冷え始め、口元には血の泡が滲んでいた。
「……誰か……!」
声を張り上げかけた神功皇后は、そのとき隣にいた武に視線を向けて凍りついた。
「……武尊殿……?」
日本武尊は、刀をゆっくりと鞘に納めるところだった。
その手の甲には血がひとすじ、滴っている。
「……皇は信じなかった。陽見呼の神託を、神の意志を。 ならば、我が手で討たねばならぬ」
その声は冷たかった。
だが、耳を澄ませばその底に、消しきれぬ痛みと迷いが滲んでいた。
「これは……天命だ」
「……必要な死など、この世にあるものか……」
神功皇后の声は震えていた。
その目には涙がたまっていたが、決して落ちることはなかった。
「……それでも、結果に“意味”を持たせるのは、生きる者の責務だ」
日本武尊はそう言ったまま天皇の亡骸に視線を落とし、膝をついた。
「皇は、上皇の命に縛られ、己の意思を押し殺して生きてきた。だがそのままでは、この国は神の意志を見失う。甥を、天皇を、“終わらせる”ことで、私はその意思を正す道を選んだ。 ……たとえ、それが叔父と甥の絆を断ち切ることになっても」
神功皇后は、夫の亡骸に手を当てながら、静かに言った。
「ならば……私はその“意味”を生きることで証してみせます」
日本武尊の視線が皇后の腹に移った。
「皇子……」
「宿しております。あなたの見た神の意志、それは私の身に残されています」
風が吹いた。
遠く、山々の向こうで雲が割れ、わずかな陽が差し込んだ。
「この子が……この国の未来を背負うのなら。 私は、どんな役でも引き受けましょう。
復讐者であれ、母であれ、次なる王の導き手であれ……」
「あなたのその強さは、皇が愛したものでしょう」
「あなたがその手を血で汚すなら、私はその血を意味あるものにする。 それが私の、生き残った者の……天命です」
ふたりは、仲哀天皇の亡骸を前に、長い沈黙を共有した。
その沈黙のなかに、未来の胎動が確かに響いていた。