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第二章「神託」:第三節 皇の迷い

陽見呼が香椎宮に姿を現してから、わずか数日。だが、その存在がもたらした波紋は宮中を越え、九州一円の空気までも変えていた。

筑紫の空に漂う霞のように、薄く、しかし確かに人々の心に不安と期待を滲ませていた。


仲哀天皇は、日毎に胸の内の重圧を強めていた。香椎宮の奥、玉座の間に一人座すその姿は、帝と呼ばれる者の威厳を湛えながらも、どこか翳りを帯びていた。


「神託など、ただの民間伝承にすぎぬ……。征伐の命は祖父・景行上皇より賜ったもの。今さら引き返せるものか」


そう繰り返してはみるが、言葉は虚しく、風のようにその場に消えていった。

玉座の天井に描かれた天の図。その中央には天照大神が描かれ、その光はまっすぐ地上を照らしていた。だが仲哀天皇の目には、その光はどこか冷たく、無慈悲にさえ映った。

祖父・景行上皇。倭の最大の勢力を統べた男。その威光は未だに天皇の背後に重くのしかかる。


(私は……あの人の、影だ)


幾度もそう思った。自らの治世が始まってなお、朝廷の実権の多くは上皇の意志の延長線上にあり、彼の意向なしに何一つ決断できない事実。仲哀天皇は知っていた。自らが“名ばかりの帝”にすぎぬという現実を。


「戦うことが……本当に、国を治める手段なのか? それとも、滅びへの道なのか……」


言葉は吐き出されながら、答えを持たぬまま空へと消えた。香椎宮の風がふと止まり、夜がやけに静まり返るたび、耳に残るのは陽見呼の言葉だった。


「戦う相手を間違えては、国が滅びます」


何度も、何度も、夢の中で囁かれる声。陽見呼の澄んだ瞳が脳裏に焼きついて離れない。彼女の目は、まるで未来を見ているようだった。仲哀天皇はそれを“畏れ”と呼ぶしかなかった。


そんな夜、香椎宮の庭に月が昇り、白砂に淡く光を落としていた。神功皇后はその静寂の中に立ち、夜風に揺れる梅の香を感じながら、夫を見つめていた。


「御心が揺れているようにお見受けします」


「……当然だ。あの巫女の言葉には……何か、“真”がある。否定しきれぬ。だがそれを認めれば、祖父上の命に背くことになる」


仲哀天皇の声には、苛立ちと哀しみが入り交じっていた。


「さらに言えば、叔父上 ―― 日本武尊が、あの女に心を奪われている。それもまた、癪に障るのだ」


「それは、嫉妬でしょうか」


神功皇后は柔らかく微笑みながらも、その眼差しは鋭く夫を見据えていた。


「叔父上はかつて、“東征”をなし遂げ、民の英雄となりました。あなたが帝となられても、民の視線は未だ彼に向けられております。それを、あなたもまた知っておいでなのでしょう」


「……そうだ。あの男の背中には、民の信頼がある。だが私には“命令”しかない。私は、上皇の代弁者。彼の望む征伐の実行者にすぎぬ。天皇とは名ばかりだ……!」


吐き出した声が、庭の木々を震わせた。神功皇后は一歩近づき、夫の手にそっと自らの手を重ねた。


「ならばこそ、あなた自身の意思で国を見極めてください。“上皇の命”で動くだけの御方であられぬと、私は信じております」


彼女はさらに言葉を重ねた。


「陽見呼は、私の身にも手を当てて申しました。“この腹に、大いなる皇子が宿る”と。そしてこうも……“この子が、十五代目の皇となる”と」


仲哀天皇は目を見開き、しばし絶句した。


「……それは……どういうことだ」


「私は確かに感じました。陽見呼は、未来を知る者です。私たちが思う以上に、“神”に近しい存在です」


「それがなおさら……恐ろしいのだ」


仲哀天皇はそう呟いた。陽見呼 ―― その存在が、人間である限界を超えているのではないかという不安。神でも巫女でもなく、“神意そのもの”が彼女を通して語りかけてくるのだとしたら。


「私が畏れているのは、熊襲ではない。陽見呼の言葉なのだ。彼女は、国の未来を語り、私の血までも……支配しようとしている」


「いいえ、違います」


神功皇后は力強く首を振った。


「彼女は、“導こう”としているのです。あなたの手でこの国を救えと。信じるかどうかは、あなた次第ですが……私は、信じます」


庭に風が戻り、月明かりがふたりを包んだ。


その夜 ――

香椎宮の本殿では、陽見呼が一人、灯火の前に座していた。夜の帳が深まり、宮中の音がすべて消えたかのような静寂が支配していた。


「いよいよ成る時が来た。国の夜明けは近づいている…」


両の手を胸に当て、彼女は祈りを捧げる。額には玉のような汗が滲み、着物の裾が微かに揺れていた。

その瞬間、祭壇の火が一つ、また一つと燃え上がり、空間の空気が張り詰める。


「天のの星、地に落ちし時、風は西より来たる。皇は叔父に殺され、女は神を孕む」


彼女の声は囁くようでありながら、空間すべてに響く力を帯びていた。

誰にも聞かれぬ神の書が、まるでその声によって開かれたかのようだった。

静かに夜に溶けていくその言葉 ―― それはすでに、歴史となる“予言”だった。


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