第二章「神託」:第一節 預言者
香椎宮は筑紫の海に面した聖地であり、海を渡ってくる者を迎える「門」でもあった。幾多の神が降り、幾多の王が逗留したという言い伝えが残るその地に、日本武尊たちが宿営したのは、初夏のある朝だった。
仲哀天皇が命じて築かせた仮の行宮は、香椎の浜辺を背に木材で組まれた簡素なものだったが、天皇の威光は隠せない。百余の兵が警護し、神功皇后が布陣を整えるなか、日本武尊はただ黙して海を見つめていた。
その姿は、まるでこの地に来るのを予期していたかのようだった。
「叔父上、潮の香に飽きましたか?」
仲哀天皇が笑って近づくと、日本武尊は振り向きもせず答えた。
「……いや。この風はどこか、懐かしい」
「懐かしい? 以前にもここに参られたことがあるのですか?」
「記憶にはないはずなのに、魂が疼くのだ。この地には……何かが眠っている」
着陣した日本武尊と仲哀天皇のもとへ、さっそく九州の豪族たちが挨拶に訪れる。
その中の一人、肥前の豪族・阿利麻はこう告げた。
「関東を従えたと聞き及びまするが、この九州は一筋縄では参りませぬぞ、武尊殿」
日本武尊は眉一つ動かさず、答える。
「我が剣が鈍ることはない。熊襲もまた従うべき時が来たのだ」
声に迷いはない。しかし、その裏で日本武尊の視線は、常に“別の場所”を追っていた。
それは香椎宮の裏手 ―― 社の奥。
古くから神託を受けるとされる場に、ひとりの女呪術者が留まっているという噂を聞いたからだ。
そこに、使者が駆け込んできた。
「筑紫の呪術師、陽見呼という女が参上を願っております」
「呪術師?」
神功皇后が目を細めた。
「この地には祭祀を司る巫女が多いと聞きますが、なぜ我らのもとに?」
「“神より神託を受けた”と申しております」
仲哀天皇は即座に拒もうとしたが、日本武尊が手を上げて制した。
「通せ。…その者、俺が会おう」
陽見呼が香椎宮を訪れたその時、空は薄曇りだった。だが彼女が歩むたびに、海風が静まり、波の音さえ遠のいていくようだった。
白鹿の皮を纏い、髪に藤の花を飾った女 ―― 彼女の姿を目にした瞬間、日本武尊の胸がざわついた。
彼は知らずに拳を握った。敵意でも、恐怖でもない。ただ、本能が何かを警告していた。
「お前は……何者だ?」
日本武尊が問いかけると陽見呼は微笑まず、ただその金色の瞳で彼を見つめた。
「我が名は陽見呼。天照大御神の言葉を聞く巫女にして、“日見する者”。ただ、名など借り物にすぎませぬ。私を呼ぶ声が、時にそのように響くだけのこと。……して、あなたはなぜここに参られた?それに ――」
と言いかけたところで、少し言葉を置き、陽見呼は彼の胸に手を当てた。
「……あなたは、“荒御魂”の化身。素戔嗚尊の魂を受け継ぐ者」
日本武尊は目を見開き、咄嗟に陽見呼の手を払いのけた。だが、その手は触れる寸前に消えるように引かれていた。
「貴様、何を ――!」
「われは戦を勝ち取るために、神託が欲しい。ただそれだけだ」
日本武尊は大袈裟に反応してしまった自身を落ち着かせるかのように、あえて静かにそう答えた。
「それだけでは、ありますまい」
「あなたの魂が知っている。私が誰で、あなたが何であるかを」
日本武尊はその言葉にわずかに反応し、足を踏み出した。
「……貴様、何を知っている?」
仲哀天皇と神功皇后がその異様なやり取りを見守る中、空気は張りつめ、時が止まったようだった。
陽見呼は静かに一礼し、三歩下がって言った。
「我が神よりの神託を申します」
「神託だと?」
仲哀天皇が眉をひそめた。
「筑紫の地を治めし熊襲は、もはや討つに足らぬ。真の敵は海の向こう、新羅にあり ――」
「新羅だと?」
「この国の未来は、大陸に通ずる道を持つ者によって開かれる。熊襲はその障壁ではない。あなた方が戦うべきは、まだ姿を現していない“外の力”です」
仲哀天皇は苦笑し、首を横に振った。
「それはおかしい。私は熊襲討伐の命を受けてこの地にきたのだ。それなのになぜ、見も知らぬ国を討てというのだ」
「神は、見えぬものを見るものです」
その言葉に、神功皇后の表情が微かに動いた。まるで、何かの記憶を引き戻されたかのように…。
陽見呼が香椎宮を去ったその夜、日本武尊は眠れず、月を仰いでいた。
ふと、背後に気配を感じた。振り向くと、神功皇后が立っていた。
「お義叔父様、あなたも眠れぬのですか」
「……あの女、陽見呼とか。何者なのでしょう」
「神の器だ」
武尊は即答した。
「俺にはわかる。あの目を見た時、俺の中の何かが……目を覚ました気がした」
「あなたは信じるのですね。彼女がいう神託を」
日本武尊は答えず、ただ夜空を見つめた。
そして言った。
「だが、皇には……信じられぬだろう」
神功皇后は目を閉じ、微かにうなずいた。
「―― では、その時が来たなら、どうしますか?」
「……俺が、国を変える」
その言葉はまるで、自身の意思というよりも、遥か遠くの神意を代弁するように響いた。
夜の香椎宮には、神と人、そして運命の波が静かに打ち寄せていた ――。