第一章「落日」:第二節 景行の決断
都・大和。
大殿の奥にて、景行上皇は一人、書物を広げていた。
文は唐や新羅から伝わった古い記録 ―― 海の向こうに広がる大国の興亡、そして神の加護によって繁栄したとされる帝たちの系譜。
景行は、戦に生き、民を従え、神の名を借りて国を築いた。力の時代の申し子であり、平和の世を夢見た矛盾の王でもあった。だからこそ、彼の築いた倭国は、未だ不安定で、未だ完成されていなかった。
「……倭もまた、神の国。だが、地は乱れ、民は離れつつある」
老いた目を細めながら、上皇は静かに呟いた。
この数十年で、朝廷の権威は著しく低下していた。大和の力は周辺の有力豪族に押され、九州や東国ではすでに朝廷の勅命が届かぬ地もある。
「このままでは、神の血を継ぐ我らの家も……ただの歴史になる」
その時、側近の舎人が入室し、深く頭を下げた。
「筑紫より使者が到着いたしました」
景行上皇は立ち上がり、深いため息を漏らした。
「日本武尊を呼べ。これより、乱れた地を正す策を授ける」
やがて殿内に、ひときわ長身の若者が現れた。鍛え上げられた体、鋭く光る双眸。彼こそ、倭の戦神として知られる日本武尊であった。
「父君、召されましたか」
景行上皇はしばし息子を見つめていた。その目には誇りと、そしてわずかな哀しみが浮かんでいた。
「お前はよく戦った。蝦夷を討ち、東国を従え、名声は天にも届く。だが……なぜか、私の心は晴れぬ」
「……父上」
「お前は剣の才に恵まれた。だが、政治においては ――」
「心得ております」
日本武尊は一礼し、声を落とした。
「わたしは、国を治める器ではありません。ただ剣で道を拓くだけです」
「そうか。……ならば、その剣で、もう一度この国の秩序を取り戻せ」
景行上皇は錆びた一振りの太刀を差し出した。それは、天孫降臨より伝わる神器ではないが、かつて天皇自身が九州遠征の際に佩いたものだった。
「九州へ行け。熊襲を討ち、再び倭の名を示してこい。お前の甥、足仲彦尊も同行させる。だが、指揮はお前に任せる」
足仲彦尊(仲哀天皇)は、武の家系に生まれながら、剣よりも琴に長けた男であった。文に優れ、政に通じ、民の声に耳を傾けることを恥とは思わぬ王。だが、それゆえに、神々の声にのみ従順というわけではなかった。
日本武尊はその言葉に眉をわずかに動かした。
「足仲彦を……?」
「あやつには政治の才がある。お前が剣となるなら、足仲彦は舵を取るだろう」
沈黙が流れたのち、日本武尊はゆっくりとうなずいた。
「承知いたしました。だが父上、ひとつだけ、お尋ねしたい」
「なんだ」
「この国において、天皇とは、“血”により継ぐべきか、それとも“力”により選ばれるべきか」
景行天皇は一瞬言葉を失い、やがて苦笑を浮かべた。
「……それを決めるのは、神ではなく、時だ。だが願わくば、お前が“その答え”を見つけよ」
皇居では、神功皇后が新たな命令の準備に追われていた。
夫・足仲彦尊の身支度を手伝いながらも、彼女の目は遠く西の地を既に見据えている。
神功皇后、彼女は倭国が誇る女傑である。
その目は、若くとも老成し、憐れみにも怒りにも濁らぬ光を湛えていた。少女のような柔らかさを残しながら、巫女として、妻として、そして一国を背負う帝の后としての覚悟が、その身に纏われている。そこに立つだけで場が静まるような威厳があった。
「あなたは政治を担い、日本武尊は剣を振るう。それは良いことです」
「……だが、どちらも彼の掌の上で踊らされているような気がしてならない」
「彼? お義祖父様のこと?」
「いや……叔父上だ。あの男には、何か得体の知れぬ“闇”がある」
神功皇后はその言葉に沈黙し、やがて言った。
「闇ではなく、神です。……そして私は、あなたの光になる。必ず、この遠征を実りあるものとしましょう」
その目に宿った強さは、すでに“ただの后”のものではなかった。
その翌月。
都から勅命を受けた仲哀天皇と日本武尊らが、九州への遠征に旅立つ。
九州の地は、荒ぶる民と神、そして“陽”を見る者 ―― 陽見呼によって、新たな運命へと導かれていくのであった。
西の果て、筑紫の地 ――
濃密な朝霧の中に浮かび上がる小高い丘の上から、陽見呼は静かに地を見下ろしていた。漆黒の髪を結い上げ、白い鹿革の装束を纏った彼女の姿は、まるで人ならぬもののようであった。
「また一つ、火が灯ったわ」
彼女の目に映るのは、山の向こうに立ち上る黒煙 ―― 国造同士の争いで村が焼かれているのだ。
「いずれ、天より遣わされし者が来る。…その時まで、私の役目は変わらぬ」
背後に立つのは、肥後の豪族・阿蘇の子である青年・猿麻呂。彼は幼き頃より陽見呼の力を間近で見て育ち、彼女に絶対の忠誠を誓っていた。
「陽見呼様、やはり戦が始まりました。肥前の者たちが我らの地にも迫っております」
「恐れることはない。彼らはまだ『形ある力』しか知らぬ。…神の意志は、もっと深く、静かに流れている」
陽見呼は、深く目を閉じた。そして胸の内に、何かに導かれるように囁いた。
「―― もう近い。あの者が、来る」