終章:「即位」
朝靄がゆるやかに晴れ、大和の地には透き通るような青空が広がっていた。都はすでに祝祭の熱気に包まれ、朝廷の宮殿周辺には絹の垂れ幕と五色の旗が風に舞い、瑞々しい空気を震わせていた。金色に輝く瓦屋根の上を、白い鳩が旋回しながら飛び立つ。東の空には朝日が高く昇りつつあり、その光は天と地を繋ぐように宮殿の露台を照らしていた。
露台にはひとりの若き皇子が立っていた。貢豊別尊 ―― かつて幼き日、神功皇后の膝に抱かれていたあの皇子が、今や凛々しき青年として朝廷の中心に立っている。
絹を幾重にも重ねた衣が風にそよぎ、額には細やかな銀の冠。彼の瞳はまっすぐ前を見据え、どこか遠い未来を見ているようでもあった。
貢豊別が五歳のとき、朝廷は彼の立太子を宣言した。神功皇后は摂政として、内政・軍事ともに鉄のごとき手腕で国を治め、息子にその姿を見せ続けた。皇子は、政の場で語られる言葉よりも、母の背に刻まれた孤独と強さに学んだ。
「民を守るということは、時に自らを消すことでもあるのです」
ある日、皇后はそう言った。夕暮れの中、母子が並んで歩いた宮殿の廊下。神功皇后の指は小さな皇子の手をしっかりと握っていた。
皇后は、しばしば語った ―― 大叔父・日本武尊の剛毅、倭国の巫女・陽見呼の慧眼と優しさ。戦場を駆け、海を越えて大陸の民を迎え入れ、そして神託に従い命を懸けた者たちの物語…。
「そなたは二人の魂を受け継ぐ者。剣と鏡、いずれも忘れてはなりません。そしてあなた自身が生まれながらにもつ稲穂の豊穣も」
貢豊別の心に、陽見呼の面影はやさしく、それでいて厳しく残っていた。まだ言葉を持たぬ頃から、夢の中で会った気がした。彼女はいつも森の奥、伊吹山のような深い気配の中で微笑んでいた。
その母・神功も、昨年、静かに天に召された。
宮の庭で最後に母が語ったのは
「道を恐れるな。汝の足はすでに天の導きに乗っている」
という神秘的な言葉だった。
今日、その導きが結実する。
民が集う中、貢豊別尊は露台の奥から一歩一歩、前へと進んでゆく。
金の欄干を越えて広がる大和の景色。見渡す限り、田畑の緑と川面の光。都の大路には紅と青の布が掛けられ、各地の使節たちが整列していた。
露台の脇には、白髪の宿禰が控えていた。武内宿禰 ―― 父・仲哀天皇にも仕え、神功皇后と幾度の戦を共にし、今なお貢豊別の忠臣として寄り添う。
「殿下…いや、失礼しました。陛下……お時間でございます」
宿禰の声は震えていた。目尻には涙が光る。思い出すのは、幼き日の貢豊別が病の床に伏したあの夜。ひとつの命を、国の未来を賭けて守った夜である。
貢豊別は露台の先端に立った。数万の人々が静かに息を呑むのを感じた。畿内の貴族、西国の豪族、遠く出雲や日向からの使者も見える。倭国の地を超え、民のすべてがその視線を皇子に向けていた。
彼は右手を高く掲げる。静寂が、大和の都を包み込んだ。
「この度、われは貢豊別の名を天に返し、新たなる御名を戴くこととなった」
その声は、風に乗り遥かまで響いた。力強く、揺るぎなく、どこか温かい。
「ここに応神天皇として即位し、民が安寧のうちに暮らせる世を、われは築いてみせる」
その瞬間、雷鳴のような歓声が湧き上がった。人々は拳を掲げ、涙を流し、神に祈り、歌を口ずさんだ。鼓の音が響き渡り、舞姫たちが衣をひるがえし、万歳の声が山にこだました。
応神天皇は静かに微笑んだ。その微笑みは、神功皇后の慈愛と、日本武尊の気高さ、そして陽見呼の祈りをそのまま受け継いだものだった。
―― その光景を、遠く天の上から見下ろす存在があった。
天照大神は、雲の向こうでその様子を見守っていた。隣には、瓊瓊杵尊の姿があった。
「応神は八幡神の化身……日出づる国を照らす者となるでしょう」
天照大神の声に、瓊瓊杵尊は微笑みを返した。
「そして、この子は、自らの意志で未来を選ぶことでしょう。もはや、我らの導きすら必要ないのかもしれません」
民衆の歓声が渦となり、空へと舞い上がる。白い鳩の群れが、まるでその声に呼応するかのように、天へと舞い上がってゆく。
応神天皇は、ゆっくりと天を仰いだ。遥かなる空に、確かに何かの光を見た気がした。母の笑み、大叔父の背、そして、あの巫女の眼差し。
「私は、道を照らす柱となる」
その心の声は誰にも聞こえなかったが、風がそれを伝えていた。
都に陽が差し込む。黄金色の光が、石畳の上に、民の顔に、露台の柱に、柔らかく。
何かが始まる予感と、何かが静かに終わる気配が、空に混じっていた。
やがて風は落ち着き、歓声もやや遠のき、白い鳩が再び上空を舞う。
その時、空の彼方から声なき声が響いた。
「今こそ、八幡の御子の世が始まる――」
―― 物語は、光の中に静かに溶けていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
物語はここで完結です。
最初、陽見呼(卑弥呼)の物語を描こうと考えたとき「陽見呼の成すことをどう集約するか」という視点で思い悩みました。そして陽見呼の英雄譚を描くのではなく、敢えて封印して応神天皇への「つなぎ」に徹するストーリー展開にすることを私のこの物語の進め方として取り組むことにしました。なので、卑弥呼が好きな方が読めば、あるいは少し物足りないテイストになったになっていたかもしれません。
それでも、最後に颯爽と即位する応神天皇が日本史においてとても重要な転換期をつくった人物であることは間違いありません。この時代の起点となる物語を神話との融合をお楽しみいただけたなら幸いです。
これからも歴史フィクションに限らず様々な可能性を求めて作品を発表していきたいと思いますので、これからも応援よろしくお願い致します。
本当にありがとうございました。




