第一章「落日」:第一節 乱世
日の本の地に、かつて神々が降り立ったという神話の残滓が、今なお風に残る。
だが、人の世に神は影を落とすのみであり、もはや導くものではなかった。
三世紀、倭国 ―― 葦原中国。
天照大神の血を引く天皇家は、古の威光を徐々に失いつつあった。
大和の宮廷では、かつての中央集権は見る影もなく、地方豪族たちが独自の武力と権力を築いていた。
特に西の果て ―― 九州はその混乱の極みであった。
かつて、葦北、火の国、豊の国と呼ばれた地には、数十に及ぶ小国家がひしめいていた。
それぞれの国には「君」や「臣」と呼ばれる族長が存在し、互いに盟を結び、裏切り、血を流し合っていた。
「日向の太陽は、もはや天を照らさぬ」
そう囁かれたのは、筑紫の北端、香椎の地。
そこは、海を渡る者たちが必ず通る地であり、交易・軍事の要衝でもあった。
この地を治めていたのは、不比等の名を冠する一族であった。
その主、不比等麻呂は五十に手が届こうかという年齢ながら、今なお剣を振るうことができる老将であり、九州におけるもっとも古い血統の一つとされた。
麻呂は、ある夜、自邸の奥座敷で家臣たちと膳を囲んでいた。
「また、日向の奴らが水争いを起こしたと聞く」
「はい、殿。阿蘇の源流を押さえられたため、肥後の農地が干上がっております」
「奴らは山の神に守られていると信じて疑わぬからな。だが、水は神よりも高き理で動くものよ」
静かに杯を傾ける麻呂。その目は決して老いてはおらず、むしろ鋭く、野獣のような光を湛えていた。
麻呂の隣に控える若者 ―― 名を彦忍という。
若き家臣ながら、聡明にして胆力があり、麻呂の信頼を一身に集めていた。
「殿、このままでは筑紫の安寧も脅かされましょう」
「ふむ……確かに、倭の都も手をこまねいておる。景行の帝も、政に疲れ果てておるのやもしれぬな」
「九州をまとめる者が現れねば、東の民草も、この地に背を向けるやもしれませぬ」
麻呂はうなずき、扇で膝を打った。
「その“まとめる者”よ。―― それが神ならば、人は従おう。神でなければ、神に近しき者よ」
「……殿、それは“あの女”を指しておられますか」
「ふふ……さすがだ、彦忍。香椎の森に住まう、呪いと神託を操る女。民は“陽見呼”と呼んでおる。あれは只者ではない。あの女が九州を導く“器”となるやもしれぬ」
彦忍の瞳に疑念の色が浮かんだ。
「だが、あの女は一切の政にも、戦にも関心を示しませぬ。ただ山で、神と語らい、生贄を捧げ、死者の言葉を聞くのみ」
「だからこそ良いのだ」
麻呂の声が低くなった。
「人が人を統べようとすれば、血が流れる。だが、“神”が人を導くという形を取れば、人は自ら頭を垂れる。―― あの女は、神の代行者としての“器”として用いればよい」
そう、麻呂の考えは明白だった。
陽見呼は、決して自ら権力を求めない。
だが、彼女を「神の声を聞く者」「神の器」として担ぎ上げれば、九州の他の豪族たちは争うことなく従う可能性がある。
問題はただ一つ ――
“神の器”を、どう導くか。
あるいは、どう使うか。
麻呂の目に、再び野心の光が灯った。
「帝は熊襲の地に目を向けておると聞く。武の皇子、日本武尊が出向けば……あの女も動くやもしれぬ」
「はっ」
その夜 ――
香椎の奥の森にて、陽見呼はひとり焚き火の前に座していた。
火の向こう側に、誰かが立っているような気がする。
だが、その姿は炎に遮られ、よく見えない。
「……来るのだな」
陽見呼は静かに囁いた。
「天つ神の子が。―― だが、戦は血を呼ぶ。血は呪いを呼ぶ。呪いは神にすら届く」
風が舞い、焚き火の火花が宙を舞う。
陽見呼の瞳が、火の粉とともに金色に染まった。
「私は……“再びこの国を照らすため”に、この地に留まりて待っていた。そろそろ、時か ――」