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第五章「再生」:第一節 霊峰 伊吹

近江国・伊吹山 ――。

古くより神域として畏れられ、荒神の棲む霊地とされてきたその山は、今も人を寄せ付けぬ孤高の姿で空を突いている。嶺には雲がかかり、稲光のような冷気が木々の間を走る。風の音すら神語のように聞こえ、踏みしめるたびに大地が呻き声をあげるようだった。


日本武尊は、その険しい山道を一人、黙々と登っていた。

かつて、幾多の戦場で剣を振るい、倭を平らげてきた英雄でありながら、今の彼の歩みはゆるやかで静かだった。それは老いではない。自身が“人”としての限界に達しつつあることを、心の奥底で悟っていたからだ。

―― 陽見呼との約束を果たすために。

この霊山で、彼は最後の使命を果たす。神の領域に踏み入れ、神の声を聴くということ。それは、死よりも遠く、深い場所に魂を運ばれることを意味していた。


山の中腹にさしかかった頃だった。

不意に、空気がざらついた。風が一瞬止み、木の葉の震えが収まった次の瞬間、黒い影が目の前に降り立った。

―― 黒鴉くろがらす

神の使いとされる霊獣。全身が煤のような黒羽に覆われ、翼は広げると人の背丈の三倍に及ぶ。嘴は鉈のように太く、瞳は赤く燃えていた。


「我が魂を試す気か」


日本武尊は腰の剣に手をかけたが、すぐには抜かない。黒鴉は人語を喰らうという。剣の代わりに、心の静けさで対抗するのが常道だった。


「静まれ」


そう呟いた瞬間、黒鴉は甲高く啼き、翼を広げて風を巻き起こした。彼の周囲に飛び散る木の枝と落ち葉。その中で、彼はただ立ち、気を沈めていた。やがて、黒鴉の叫びが収まり、その瞳に僅かな敬意が宿った。

黒鴉は翼をたたみ、一礼のような動作で去っていった。


次に彼を待ち受けていたのは、岩肌の割れ目から這い出るように姿を現した巨大な蛇だった。

―― 岩蛇いわおろち

その鱗は黒曜石のように艶やかで、目は翡翠を思わせる。口からは硫黄のような蒸気が立ち上り、大地に触れた岩が砕けていく。

蛇神の使い ―― 地の力そのもの。

日本武尊は剣を抜いた。静かに、確かに。そして、一歩を踏み出す。


「汝が道を阻むのならば、我が魂をもって証としよう」


岩蛇はその長大な身体をしならせ、彼に襲いかかってきた。

瞬間、剣が閃いた。光が走り、蛇の身体を切り裂く。だが一度の斬撃では倒れない。何度も襲いかかる蛇、そしてそれを受け止め続ける日本武尊。剣筋は次第に鋭さを増し、やがて蛇の動きが止まった。

最後に、岩蛇は地へと沈み、砂と岩の塊へと戻った。その場所にはただ、赤い木の実がひとつ残されていた。それを手にしたとき、日本武尊の疲労は不思議と癒えていた。


山頂を目前にして、霧が濃くなる。白い光が辺りを包み込み、道も輪郭を失う中、彼の前に現れたのは …。

―― 霧鹿きりしか

銀色の角をもつ霊獣。気配を読ませず、まるで夢の中から現れたような佇まい。鹿は彼を見つめたまま、ひとつの問いを心に投げかけてくるようだった。


「その剣を、何のために振るうのか」


言葉はない。だが確かに、そう問われた気がした。

日本武尊は剣を鞘に納め、膝を折って静かに言った。


「己がためならば、すでに捨てた。民のためでもない。これは、姉上との約束を果たす剣だ」


霧鹿は一瞬だけ、まばたきのような動作をして、ふっとその姿を霧の中に溶かしていった。

そして、その霧が晴れたとき ――

山頂が姿を現した。


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