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第四章「朝廷」:第三節 野心

大和を目前にしたある夜 ――


濃い闇の中、ただ風の音が草を撫でる音だけが聞こえていた。月は雲間に隠れ、空は墨のように暗かった。日本武尊は、戦の疲れもあって早くに床についたはずだったが、ふと気づくと、どこか見知らぬ場所に立っていた。

そこは、懐かしくもあり、遠く隔たった場所のようでもあった。柔らかな陽光が差し込む草原の上。背の低い木々が風にそよぎ、花の香りが漂う。だが、そこに在る景色はあまりに静かで、現実のものとは思えなかった。


「……夢、か?」


呟いたとき、彼の目の前に一人の男が現れた。

それは、かつての父、景行上皇だった。威厳と慈しみを併せ持つ、若かりし日の姿。上皇は静かに佇み、そして日本武尊を見下ろしていた。


「お前は、まだ分かっておらぬ」


懐かしくも厳しい声音。日本武尊は思わず声を上げた。


「父上……?」


「剣で国を治めたつもりでも、それは一時の平穏にすぎぬ。力は民を従わせるが、繋ぎはせぬ」


日本武尊は言葉に詰まった。無数の戦を勝ち抜いてきた己の足跡が、否定されたような気がした。


「……俺は、間違っていたのですか。剣を掲げ、敵を討ち、乱を鎮め……それが、国を守る道ではなかったのですか?」


上皇は答えなかった。ただ、柔らかに眉を下げ、遠くを見やった。


「陽見呼が語る“未来”の意味を、見誤るな」


「未来……?」


「国は血でつくられるものではない。魂でつくるのだ。人の心と心を結び、託し、繋げていくこと。それを成せるのは剣ではない」


景行上皇の姿は、次第に薄れていった。


「魂を ―― 託される者。よく、見よ」


その言葉を最後に、景色は淡く、白く、霞んでいった。


夢から目覚めた日本武尊は、額に汗をにじませながら身を起こした。

夢の内容は鮮明で、まるで本当に父と語り合っていたかのようだった。彼はしばらく茫然と天幕の中に座り込み、天井の布越しにぼんやりとした星の瞬きを見つめていた。

心が騒いでいた。


「剣では、国を繋げられぬ……?」


胸の奥に、重く鋭い棘が刺さっていた。これまで、彼は己の剣をもって、乱を鎮め、敵を屈服させてきた。それが国に秩序をもたらし、人々に平穏を与える唯一の道だと信じていた。

だが、父は違うと告げた。陽見呼の語る未来を見誤るなと ――。

夢の記憶が、陽見呼の言葉と重なる。


「俺は……器ではないのか?」


思わず口をついて出た言葉に、自ら驚いた。彼の胸の内にずっと燻っていた想いと願い。

気づかないふりをしてきたが、はっきりしている。それは、いずれ国を託される“器”となることだった。戦で得た誉れも、民の尊崇も、全てはそのためにあったのだと今なら信じられる。

だが、その想いが間違いだったとするなら ―― 自分は何のために戦ってきたのか?

日本武尊は静かに立ち上がり、夜の帳を抜けて、陽見呼のもとへと向かった。


陽見呼の幕舎は、月明かりの中に静かに佇んでいた。

彼女はすでに目覚めていたのか、それとも彼の訪れを予期していたのか、扉の前に立つと、すぐに中から声がした。


「お入りなさい」


日本武尊は黙って戸を開けた。香木のかすかな香りが漂い、柔らかな布の帳が風に揺れていた。蝋燭の炎が彼女の影をゆらめかせている。

陽見呼は床に膝をつき、静かに彼を見上げていた。


「……夢を見た」


それだけ告げると、日本武尊は彼女の前に座った。


「父が、現れた。俺は“器”ではないと、言った」


陽見呼は一瞬、まばたきをしてから、小さくうなずいた。


「ええ。あなたは“器”ではありません。あなたは“柱”なのです」


「柱……」


その言葉は、以前にも彼女の口から聞いたことがあった。だがその意味を、深く問い直すのは初めてだった。


「なぜ、俺が器ではないのか。なぜ、俺以外の誰かが“国”を託される存在で、俺は“支え”に過ぎないのか。俺は誰よりも、多くの戦を経てきた。俺の剣が、幾度もこの国を守ってきたはずだ」


その言葉には怒りも、悲しみも、あるいは諦念すら混じっていた。陽見呼は黙って耳を傾けていたが、やがて静かに口を開いた。


「器とは、受け取る者。民の願い、魂、祈りを受け止め、抱き、育てる者。あなたの剣は強く、鋭く、美しい。でも、それは“抱く”ことを知らない。あなたは、剣として生きてきた」


「……ならば、俺はどうすればよい。斬るしか能のない俺が、どうすれば民の魂を抱けるというのだ」


陽見呼はそっと目を伏せ、そして穏やかな声で言った。


「あなたは、斬ることで国を守ってきました。それは尊いことです。でも、国を“つくる”のは、別の力です」


「つくる、力……」


「あなたが“柱”であるとは、国の屋台骨であるということ。誰よりも高く立ち、誰よりも重みを支える者。剣の魂であっても、柱として立つことはできる。ただし ―― 覚悟がいる」


「覚悟……?」


「自分の野心を捨てる覚悟。剣としての誇りを支えに変える覚悟。王ではなく、民の礎となる覚悟です」


その言葉は、日本武尊の胸に深く突き刺さった。

自分の野心を捨てる?

それは、あまりに重い問いだった。


幕舎を出た日本武尊は、夜の丘に一人登った。

冷たい風が草を揺らし、闇の中に彼の影を伸ばしていた。

野心はあった。否定はしない。戦を経て力を得るたび、民がその名を称えるたび、彼の中には確かに“上”を目指す心が芽生えていた。

陽見呼のそばに立ち、共に国を導く存在として ―― いや、いずれは自らが頂点に立つことすら、夢見ていた。


「だが、それは叶わぬ夢だったのか……」


剣は剣でしかない。

戦では勝てても、国は作れない。

戦で築いた平和は、やがてまた血に染まる。

父が語った未来、陽見呼が見つめる国 ―― そこに自分の居場所はあるのか?

夜が明け始めていた。

空は白み、遠くの山々がゆっくりと輪郭を取り戻していく。日本武尊はその光景を見つめながら、拳を握りしめた。


「俺は……柱になる」


その言葉は、苦く、だが確かに胸の奥から湧き上がるものだった。


「国を抱く器ではなくても、支える柱にはなれる。いずれお前が立つなら、俺は倒れぬように、足元を固める」


それが、己の生の意味ならば ――。


「剣として、魂を捧げよう。お前が国を抱くなら、俺は命をかけて、その国を支える」


風が吹き抜けた。

新しい夜明けが、始まろうとしていた。


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