第四章「朝廷」:第二節 皇子
戦の果て、纏向の宿営地に戻った神功皇后は、静かな朝の光の中で一人佇んでいた。
彼女の腕の中には、すやすやと眠る幼子 ―― 皇子の姿があった。
赤子の肌は柔らかく、まるで朝露のように瑞々しかった。
皇后はその小さな額に口づけながら、ふと自身の腹に手を当てた。
「……違和感…」
呟くような声だった。だが、それは確かなものだった。
「彼女が……私に、命を分け与えたあの日から、腹に違和がある」
その言葉に応えるように、背後から静かな足音が聞こえた。
振り返ると、陽見呼がそこに立っていた。
「感じているのですね」
皇后は頷いた。
「この子は……何かが違う。ただの皇子ではない。まるで……天と地の間に“結び目”ができたような感覚」
陽見呼はゆっくりと近づき、皇子を覗き込んだ。
「この子は、“繋ぎ”なのです」
陽見呼の声はどこまでも静かで、そして深かった。
「あなたの腹を通して、天の血が地上へと還った。その血は、神代の記憶を抱いて、この地に根を張ります」
神功皇后は、眠る皇子の頬にそっと手を添えた。
「名を与えねばなりません。誉田別……。けれどもそれだけでは足りぬ気がする。何か、この子自身が持つ意味を……」
陽見呼は目を細めた。
「彼には“貢”の名が相応しい。天と地を結ぶ貝。これは、地上から天への祈りであり、また天より地への贈りものの印」
「……貢豊別」
神功皇后は小さく呟いたその名を口に出しながら、目を閉じた。
「天の意を汲み、豊かな稔りを持って、民に貢ぎを返す子。よい名です」
「このこはかつて瓊瓊杵に携えさせた”稲穂”となるでしょう」
腹の奥底から、わずかに痛みが湧いた。
それは出産の後遺でもなく、病でもなかった。
―― 命が、内から外へと完全に移り変わった証。
陽見呼は皇后の様子を見つめながら、言葉を続けた。
「この子が、やがてこの国の礎を築きます。けれども、そのためには“私”がこの国にとどまってはなりません」
神功皇后は、目を見開いた。
「……え?」
皇后のその反応に、陽見呼は柔らかく微笑んだ。
「私は、天照の化身。太陽の道を逆にたどってこの倭国に至った者。けれども、もうその役目は終わりに近づいています」
「なぜ? 今、まさにあなたの力が必要なのでは……」
陽見呼は首を振った。
「太陽は一つでなければならない。あまりに永くこの地にあれば、光は陰を焼き、秩序は崩れる。私は、導き手としての務めを果たしました。次は……人の世に委ねるとき」
皇后はしばし沈黙し、やがて陽見呼の手を取った。
その手は温かく、まるで春の日差しのようだった。
「そのときまで、あなたの代わりにこの国を守ります」
陽見呼はその言葉に応えるように、皇后の掌を両手で包み込んだ。
「あなたなら、きっと大丈夫。神の子を抱き、民を導く力が、あなたにはあります」
幼き皇子 ―― 貢豊別は、その小さな手を空へと伸ばしていた。
まるで、遥か天の光に触れようとするかのように。
香椎宮の空には、雲間から差す一条の陽が、二人と一人を静かに包み込んでいた。




