第三章「告白」:第一節 新羅遠征
数日後 ――
香椎宮からの号令のもと、日本武尊と神功皇后を主将とした倭国の遠征軍は、九州北岸の港に集結した。朝靄に包まれる海辺には、大小およそ百隻に及ぶ軍船が並び、兵たちは甲冑を鳴らしながら出航の準備を進めていた。
潮騒に混じって聞こえるのは、矢を束ねる音、槍の穂先を点検する声、そして兵たちの間に走る緊張と興奮が入り交じったざわめきだった。
港の高台には陽見呼の姿があった。風に白き衣が翻る。彼女は静かにその光景を見つめていた。
視線は日本武尊ではなく、神功皇后の背中に注がれていた。凛として海風に立つ皇后の姿には、すでに人の世の者とは思えぬ気迫があった。
(……この地を離れし後も、お前の中に残る光が、未来を照らすのだ)
心の内でそう呟き、陽見呼は静かに踵を返した。
軍船は一斉に帆を張り、重々しく海を滑り出した。空は晴れ渡り、東シナ海の碧に、白い帆がいくつも連なってゆく。彼方にはまだ見ぬ大陸の影が霞んでいた。
―― 新羅。未知と恐怖と期待が交錯するその名を、兵たちは胸中で繰り返していた。
新羅の海岸に到達したのは、出航から三日後の夜明けだった。
海岸線は入り組んだ岩礁が続き、背後には濃緑の山々が屏風のように連なっていた。砂浜は狭く、上陸には慎重を要する地形であった。
甲板に立つ日本武尊は、朝靄の中に浮かび上がる新羅の山並みに目を細めた。
「……この地を、我が足で踏むことになるとはな」
その背後から、甲冑を身にまとった神功皇后が静かに歩み寄った。
「船団はすべて無事に到着しました。兵も士気高く、万端整っております」
「攻めるか、和するか ――」
「いいえ。あなたが信じた“神託”が、正しきものであるならば……すでに答えは決まっているはずです」
神功皇后の声には、凛とした確信が込められていた。だがその奥には、どこか焦りのような影が潜んでいた。
その時、海岸の岩陰から、白い布を掲げる一団が現れた。
「……降伏の使者か?」
「早すぎる……」
神功皇后は眉をひそめ、軍船の端に立って様子をうかがった。
白布を掲げた一団は、豪奢な衣を纏い、慎重な足取りで浜へと降りてきた。そして自らを新羅の貴族と名乗り、整った発音で倭語を話し始めた。
「我らは新羅王に仕える者。貴国との戦は、我らの望むところにあらず。背後には唐の圧が迫り、この地の存続は、貴国との友好に懸かっております」
新羅は古より半島の東に位置し、山に囲まれ、海に守られていた。しかし同時に、それは孤立を意味した。隣国との盟はもろく、見誤りひとつで国を砕く時代 —— それが半島の現実だった。
彼らは、戦の回避を願う意志とともに、倭国への臣従を誓い、贈り物として土地と財宝を差し出すと申し出た。そして、人質としての王女も…
「戦わずして得る勝利……理想ではあるが、現実はそう甘くない」
神功皇后は、使者の後ろに控える従者たちの中に、刀を帯びた兵士らしき影が混じっているのを見逃さなかった。
「これは計略か、あるいは時間稼ぎ……」
降伏とは名ばかり。実際には、新羅はその王女を人質に差し出すことで、国を守る盾を得たいのだ。降りながら、生き残るためであることを皇后は見抜いていた。
だが日本武尊は、静かに言った。
「彼らが恐れているのは、我らの軍ではなく、神の威光だ。陽見呼が指し示した道に、偽りはなかったのだ」
皇后の目に、一瞬黒い影がよぎる。
(―― だとすれば、仲哀様の死も、また“神の意志”だったのか……?)
軍議の後、神功皇后は一人、貴族らが設けた饗応の席を早々に抜け出した。
新羅の空は蒼く、月の光が山の稜線を淡く照らしていた。
皇后は腹に手を添え、そっとつぶやいた。
「……あなたが見ていた“未来”とは、こういうものだったのか、陽見呼」
彼女の腹の内には、新たな命の鼓動があった。
だが同時に、皇后の地位は揺らぎ始めていた。
陽見呼が“女王”と宣言された儀式以降、朝廷内でも神功皇后に対する視線が微妙に変化していた。
「陽見呼様の御神託があれば、軍を動かすことも容易でありましょう」
「皇后殿は、もはやお体をお大事にすべきでは」
そうした言葉が、まことしやかに囁かれるようになっていたのだ。
神功皇后は、自らの中に沸き起こる焦燥を噛み殺しながら、再び軍の中心へと歩みを進めた。
そのころ、九州 ―― 香椎宮。
夜明け前の微かな光の中、陽見呼は社殿の奥で祈りを捧げていた。
その声は古の神語であり、ただ神に捧げるためのものだった。
彼女の前に現れたのは、霧のように揺らめく存在 ―― 瓊瓊杵尊であった。
「……瓊瓊杵尊よ」
『祖母上は、時を誤ったかもしれませぬ…』
「いいえ。国を導く者は選ばれました。天の剣は手にされています。あとは……器が育つのを待つのみ」
『剣の者が、天を誤ることはないのですか?』
「そのために、私がここにいるのです」
霧はやがて風に溶け、社殿の中には静寂だけが残った。
陽見呼は目を閉じ、胸に手を当てた。
「……素戔嗚尊よ。あなたの子孫は、やがて“争い”を知るでしょう。けれども、“争い”を経なければ、民は安寧を知らぬ」
その声は、遠い未来に向けた祈りであった…。




