転生したら巻き込まれて追放されるモブ侍女でした。ご主人様を避けまくっていたら、かえって執着されました……助けて!
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、埃の舞う空気を金色に染めている。鳥のさえずりが遠く聞こえる、穏やかな朝。いつも通りの、変わり映えのしない一日の始まりのはずだった。
しかし、私の頭は、まるで嵐が過ぎ去った後のように混乱していた。ズキンズキンと脈打つ痛みに耐えながら、私はぼんやりと自分の手を見つめる。節ばった指、洗い物で荒れた肌。これは、私が知っている私の手ではない。
私が知っている「私」は、日本の都内で暮らす、しがないアラサーOLだったはずだ。朝は満員電車に揺られ、夜は残業に追われる日々。趣味は乙女ゲームと、週末に少し凝った料理を作ること。そして、不注意で交通事故に遭って……そこからの記憶が、曖昧だ。
その曖昧な記憶と、今、この瞬間に自分が認識している現実が、まるで別のパズルのピースのように、頭の中で無理やり組み合わさろうとしている。目の前が真っ白になった感覚。
過去の記憶の奔流が一気に押し寄せ、全てを思い出したのだ。自分がこの世界の「フレア」という名の、とある公爵家に仕える十九歳の侍女であると理解せざるを得なくなった。
この世界は、私が暮らしていた現代日本とはあまりにも違う。石造りの建物、ガス灯、そして、貴族や騎士が存在する、まるでファンタジー小説のような世界。夢か、昏睡状態での幻覚か、そう思いたかった。
だがこれは、夢でも幻覚でもない。私は、あの交通事故で死んだ後、かつて自分が熱中してプレイしていた乙女ゲームの世界に、この「フレア」というモブ侍女として転生してしまったのだ。
そのゲームのタイトルは……そうだ。『星降る夜のカヴァティーネ』。煌びやかな王宮を舞台に、平民出身の愛らしいヒロインが、攻略対象である魅力的な王子や貴族たちとの恋を育んでいく物語だ。
「よりによって、ここに転生するなんて……」
思わず声が漏れた。なぜなら、私が今いるこの場所は、ゲーム本編において、最も危険で、関わってはいけない人物の屋敷だからだ。
私の「ご主人様」であるエルネスト・クロード公爵。齢二十七にして冷徹無比と噂される、美貌の青年。
夜明けの空を映したような深い灰色の瞳、月の光を宿したような艶やかな銀色の髪、彫刻のように整った顔立ち。しかし、その完璧な美しさは、見る者に近寄りがたい冷たい威圧感を与え、感情の欠片も感じさせない無機質さを纏っていた。
彼は、ゲーム本編では攻略対象ですらなかった。にも関わらず、その近寄りがたい雰囲気と、悪役でありながらどこか影のある魅力に、一部のプレイヤーからは絶大な人気を誇っていた。
「なぜエルネスト様ルートがないんですか!」という悲鳴のような書き込みを、私はいくつも見たことがある。
そう、彼は「悪役」なのだ。ゲーム本編では、侯爵令嬢である悪役令嬢と結託し、ゲームヒロインを様々な手段で貶めようとする、非道な男として描かれている。
そして、物語の終盤、ゲームヒロインが真の身分を取り戻し、王子との愛を成就させた後、彼はその悪事の全てを暴かれ、「断罪」される。領地と爵位を剥奪され、辺境へと追放される、悲惨なバッドエンドを迎えるのだ。
そして、さらに問題なのは、断罪されるのは彼一人ではない、ということだ。彼の悪事に能動的であれ受動的であれ加担していた、あるいは見て見ぬふりをしていた屋敷の使用人たちもまた、まとめてお咎めを受け、解雇、あるいは酷い場合は公爵と共に追放されてしまう。
「フレア」である私は、ゲーム本編では本当に取るに足らないモブだった。公爵に直接関わるシーンなんて一つもない。
ゲームをプレイしていた時には、屋敷の使用人がまとめて追放される描写を見ても、「まあ、そうだよね」くらいにしか思わなかった。
だが、今、その「モブ侍女」になってしまった自分としては、たまったものではない。せっかく掴んだ二度目の人生が、悪役公爵の道連れになって、あっけなくバッドエンドを迎えるなんて冗談じゃない!
断罪イベントまでの時間は、確かあと一年もないはずだ。ゲーム本編の進行具合を思い返せば、物語は既に中盤に差し掛かっている。残された時間は少ない。
私が取るべき行動は、ただ一つ。
エルネスト・クロード公爵に、絶対に、何があっても、関わらない。
目立たないように。空気のように。影のように。
存在感を完全に消し去り、断罪イベントの嵐が過ぎ去るのを待つ。そして、公爵がお一人で(悪役令嬢と共にかもしれないが)追放されていくのを、安全な場所から見送るのだ。
そうすれば、私はこのまま屋敷に残り、あるいは再雇用先を見つけ、平穏な侍女生活を送れるかもしれない。
よし、決意は固まった。今日から私は、徹底的に「モブ」に徹する。ご主人様である公爵閣下とは、物理的にも精神的にも、最大の距離を置こう。
そう心に誓った、この時の私は、知る由もなかった。
「避けよう」とすればするほど、彼の目に留まり、他の誰でもない、私にだけ、あの冷徹な公爵閣下が、異常なほどの執着を見せるようになるなどとは。
そして、その執着から逃れるために、いずれ心の底から「助けて!」と叫びたくなる日が来ることも――それが、恐怖からではなく、別の、全く予想もしなかった感情から来るとも知らずに。
これは、ゲームシナリオにはなかった、モブ侍女と悪役公爵の、誤算だらけの物語の始まり。
*
悪役公爵エルネスト・クロード閣下から身を守るため、私は「空気」になることを決意した。これは、モブ侍女としてこの屋敷で平穏に生き延びるための、私の唯一無二のサバイバル戦略である。
まず、閣下の動線を徹底的に把握する。執務室、食堂、庭園、自室。いつどこに閣下がいるかを他の使用人たちの情報や、かすかな気配から察知し、その場所から半径五メートル以内には近づかない。
いや、念には念を入れて十メートルだ。視界に入るのも危険かもしれない。廊下でばったり出くわしそうになったら、迷わず物陰に隠れるか、逆方向へ引き返す。
閣下と目が合うのは絶対に避けるべき事態だ。あの、底の見えない氷のような瞳に映り込んでしまったら、何をされるか分からない。
だから、閣下が近くにいらっしゃる時は、常に視線を伏せ、手元や足元を見ているか、他の侍女たちと当たり障りのない会話をしているふりをする。万が一、視界の端にあの端正な顔立ちが捉えられても、すぐに意識をそらす。
閣下から直接用事を言いつけられるのもNGだ。話しかけられれば、返事をしなければならない。会話が生まれれば、そこに「関わり」が生まれてしまう。
だから、もし閣下が何かお探しのご様子であれば、他の仕事で忙しいふりをするか、近くにいる別の侍女にアイコンタクトで「お願いします!」と念じる。
幸い、この屋敷には閣下に熱い視線を送る侍女も、恐れて萎縮する侍女も山ほどいる。私が一歩引いたところで、いくらでも代わりはいるのだ。
仕事はこれまで通り、真面目に、正確にこなす。しかし、決して「気が利く」と思われてはいけない。「優秀だが目立たないモブ」それが私の理想だ。
指示されたことだけを、迅速に、感情を挟まず機械のように実行する。余計な気配り?気が利く行動?そんなものは、私という存在を公爵閣下に印象付けてしまう可能性があるため、一切排除だ。
そんな私の徹底した空気化作戦は、誰に気づかれることもなく、粛々と実行された。
他の侍女たちは、私が以前にも増して無口になり、きびきびと仕事をこなすようになったことには気づいていたようだが、特に気にする様子はない。
元々、私はおしゃべりなタイプでも、目立つ容姿でもない、文字通りのモブだったから、自然な変化に見えたのだろう。
ご主人様であるエルネスト・クロード閣下も、私の変化には全く気づいていないようだった。彼の視線は常に遠くを見つめているか、目の前の書類に向けられている。
使用人一人一人の動きなど、彼の関心の範疇外なのだろう。悪役街道を邁進するお方に、モブ侍女が一人、コソコソと避け回っていることに気づくはずがない。
私は内心、ほくそ笑んだ。この作戦、大成功だ。このままゲームのイベントが進行し、閣下が無事に断罪・追放されるまで、私はこの屋敷の片隅で安全に過ごすのだ。あの恐ろしい巻き添えエンドは、私には訪れない。
そうして空気としての日々を送る中で、私は時折、遠目に閣下の姿を目にすることがあった。もちろん、すぐに視線を逸らすのだが、一瞬だけ捉える彼の様子は、ゲームで描かれていた「冷徹非道な悪役」というイメージとは、少し異なるように感じられることもあった。
ある晴れた日の午後、私は庭園の近くで掃除をしていた。公爵閣下は庭園の一角にある東屋で、執事と深刻そうな顔で話し込んでいる。私は気づかれないよう、気配を消して作業に集中していた。
その時、一羽の小鳥が、何かにぶつかったのか、弱々しく地面に落ちた。ピィ……と、か細い鳴き声が聞こえる。私は思わず、その小鳥に目を向けた。
公爵閣下も、どうやら小鳥の鳴き声に気づいたらしい。執事との会話を中断し、顔を上げた。彼の視線が、小鳥が落ちた方へと向かう。
私は慌てて視線を逸らし、掃除に戻ろうとした。関わってはいけない。目立ってはいけない。
だが、チラリと盗み見た公爵閣下の横顔は、いつもの冷徹なものではなかった。眉間に刻まれた皺は消え、その瞳には、わずかな心配の色が浮かんでいるように見えた。
彼は執事に何か指示を出し、執事は慌てて小鳥の元へと駆け寄った。
公爵閣下は、執事が小鳥をそっと抱き上げる様子を、静かに見守っていた。
その表情は、悪役令嬢と悪巧みをする時の冷たい笑みでも、邪魔者を排除する時の無慈悲なものでもなく、ただ、弱く小さな命を案じる、一人の人間のものだった。
私は、その意外な一面を見て、思わず息を呑んだ。ゲームでは、彼はこんな顔を見せなかった。冷酷で、目的のためなら手段を選ばない男。そんな彼が、傷ついた小鳥を気遣う様子を見せるなんて。
もちろん、だからといって彼が悪役ではないということにはならない。ゲームのシナリオは知っている。彼が最終的に断罪されるほどの悪事を働くことも。
しかし、その冷徹な仮面の下に、こんな人間的な感情があるのだという事実は、私の心に小さな波紋を立てた。
また別の日、私は夜遅くまで続く閣下の執務を終えた後、部屋の掃除を任された。当然、閣下が部屋から出て行かれてからだ。部屋にはまだ、閣下の纏っていた冷たい空気が残っているようだった。
積み上げられた書類の山、飲みかけの紅茶。そして、執務机の端に、一枚の絵が伏せて置いてあるのに気づいた。片付けの邪魔にならないよう、そっと絵をずらそうとした、その時。
絵の端が少しめくれ、描かれているものが視界に入った。それは、華やかさはないが、どこか温かみのある、小さな村の風景だった。夕陽に照らされた教会、畑、そして、そこで働く人々の姿。
公爵閣下が、こんな絵を持っていたなんて。彼の部屋にあるのは、高価な美術品や、権威を示す調度品ばかりだと思っていたのに。
私は好奇心に駆られながらも、すぐに絵を元通りに伏せた。いけない。関わってはいけないのだ。彼の私的なものに触れるなんて、もっての外だ。
だが、あの冷徹な公爵閣下が、なぜこんな絵を大切に持っているのだろう? 彼にとって、何か特別な意味を持つ風景なのだろうか?
その絵に込められた思いを想像すると、彼の人物像が、私の知っているゲームの悪役とは少しずつずれていくような、奇妙な感覚に囚われた。
私の空気化作戦は順調に進んでいる。公爵閣下は、私の存在に気づいていないように見える。私は安全だ。そう、安全なのだ。
しかし、遠目に、あるいは意図せず垣間見る彼の意外な一面は、私の心に静かな疑問を投げかけていた。本当に彼は、ゲームで描かれていた通りの、純粋な悪役なのだろうか?
この時点では、まだ彼の人間的な側面に触れただけ。恋愛感情なんて、かけらもない。恐怖と、巻き添えへの警戒心が、私の心を支配している。
ただ、あの冷徹な公爵閣下の、世間が知らない素顔を、私だけが知っているかもしれない――そんな、ほんのわずかな、知的好奇心だけが、私の胸に芽生え始めていた。
それが、これから起こる、私の空気化作戦が盛大に失敗する、最初の兆候だったとも知らずに。
*
空気のように、影のように。私は徹底して公爵閣下の視界から自分を消す努力を続けた。
幸い、閣下は多忙を極めており、モブ侍女の些細な行動など気に留めるはずがない。ゲーム本編でも、彼はゲームヒロインや攻略対象との駆け引きに忙しく、使用人など名前すら覚えていなかったはずだ。
――そのはず、だったのに。
ある日のこと。私は廊下の端を足早に歩いていた。公爵閣下の執務室から出てきたらしい執事と、何事か話している閣下の姿が遠くに見えた。いつものように、気づかれないうちに角を曲がって姿を消そうとした、その時だ。
「フレア……と言ったな」
低い、しかしよく通る声が、私の名を呼んだ。
思わず、心臓が跳ね上がった。頭の中が真っ白になる。呼ばれた? 私が? あの公爵閣下に?
固まった私に、執事が訝しげな視線を向けたのが分かった。逃げることもできず、私は恐る恐る、声のした方を振り返る。
そこには、夜明けの空のような灰色の瞳と、月の光のような銀色の髪を持つ、彫刻のような美貌の公爵閣下がお立ちだった。
いつも纏っている冷たい威圧感が、今日の彼からは少し薄れているように感じられたのは、気のせいだろうか。
「……はい、閣下」
掠れた声で答えるのが精一杯だった。体が震えそうになるのを、必死に堪える。
なぜ、私の名を? 私が閣下と直接関わるような出来事など、これまでの侍女生活で一度たりともなかったのに。
公爵閣下は真っ直ぐに私を見つめていた。その視線に、逃げることも隠れることも許されないような、強い意志を感じる。
「以前、私の部屋の掃除を任せた際、何か変わったことはあったか」
「……変わりは、ございませんでした、閣下」
私は正直に答えた。あの、小さな村の絵のことだろうか? いや、あれは「変わったこと」ではなく、閣下の私的なものだった。何かを動かしたわけでもない。
公爵閣下は僅かに眉をひそめた。不機嫌、というわけではない。何かを探るような、興味を惹かれたような、そんな複雑な表情に見える。
「そうか」
それだけ言うと、彼は私から視線を外し、再び執事と話し始めた。会話の内容は聞こえなかったが、閣下の様子から、私の返答に納得がいっていないことは明らかだった。
私はその場に立ち尽くすこともできず、許可も得ずにそっと一礼し、その場を離れた。心臓がバクバクと鳴り響き、冷や汗が止まらない。
なぜ? なぜ、あの時のことを? そして、なぜ私に? あの部屋の掃除をした侍女は、私だけではなかったはずなのに。
その日以来、公爵閣下の視線を感じることが増えた。
廊下を歩いていると、遠くの執務室の扉が開いて、視線が飛んでくるような気がする。
食堂で食事の準備をしていると、いつの間にか視線を感じ、そちらを向くと、閣下が私の方を見ていたりする。すぐに視線を逸らされるのだが、その頻度は明らかに増えていた。
以前は、完全に私の存在を認識していなかったはずだ。それが、今では意識的に「フレア」という名の侍女を見ている。私の「空気化」作戦は、完全に失敗しつつあった。
――どうして、こっちを見るんですか!?
心の叫びは、もちろん声には出さない。ただひたすらに、いつも通りの、しかしこれまで以上に「目立たない」侍女であるように振る舞う。
だが、そうすればするほど、彼の視線は私に注がれているような気がして、全身が強張るのを感じた。
公爵閣下は、私のことを「他の者とは違う」と認識したようだった。
他の侍女たちは、彼と目が合えば顔を赤らめるか、恐れて震えるかのどちらかだ。しかし、私は目を合わせないように努め、必要最低限の受け答えしかしない。その「無感情」に見える態度が、彼の興味を引いたのかもしれない。
ゲーム本編のキャラクターたちは、公爵閣下の「悪役」としての側面や、その魅力に、それぞれの反応を示していた。だが、私は違う。前世の記憶がある私は、この世界の人間とは根本的に異なる反応をする。それが、ゲームのシナリオにはない「誤算」として、彼の興味を引いてしまったのだろうか。
公爵閣下の執着は、徐々に形を変えていった。
以前は悪役令嬢が頻繁に屋敷を訪れ、閣下と何やら密談を交わしていた。しかし、最近は悪役令嬢が来ても、閣下は上の空であることが増えた。
悪役令嬢がゲームヒロインを貶めるための計画を話している最中に、閣下がぼんやりと窓の外を見つめているのを、私は何度か目撃した。その視線の先に、たまたま私が庭の手入れをしている姿があった時、私は慌てて物陰に隠れた。
悪役令嬢が苛立ちを募らせているのが分かった。彼女はゲームヒロインの断罪という目的のために動いている。それなのに、肝心の協力者である公爵閣下の関心が、自分ではないどこか別の場所へ向いているのだ。
閣下は、悪役令嬢との密談よりも、私に些細な用事を言いつけることを選ぶようになった。他の侍女でもできるような簡単なことだ。
書類を運ぶ、庭の花を摘んでくる、紅茶の準備をする。だが、それを命じる時、彼は必ず私の名を呼ぶ。そして、私と二人きりになった時、何気ないように見えて、どこか探るような視線を向けてくる。
「この花は、何という名前だ」
庭から摘んできた名もなき雑草のような花を前に、彼はそう尋ねた。ゲーム本編の公爵閣下なら、そんなことに興味を示すはずがない。
「……ただの、雑草でございます、閣下」
私は感情を込めずに答える。関わらない。深入りしない。
「雑草、か」
彼はその花を指先でそっと撫でた。あの冷たい指先が、小さな花に触れる。その光景に、私は思わず息を呑んだ。あの、傷ついた小鳥を見ていた時と同じ、ゲームでは見せなかった人間的な側面。
「……それでも、懸命に生きている」
公爵閣下はそう呟き、花から視線を私に移した。
「……お前も、そうだろう」
その言葉に、私の心臓は大きく跳ね上がった。「懸命に生きている」とは、私のことだろうか? 私が、この悪役公爵の屋敷で、目立たず、空気のように息を潜めて生き延びようとしていることを、彼は見抜いている、とでも言うのだろうか?
恐怖だった。私のささやかな抵抗が、この恐ろしい悪役の目に留まり、彼の興味を引いてしまった。最悪の事態だ。このままでは、断罪イベントに巻き込まれるどころか、ゲームにはない形で、彼に破滅へと引きずり込まれてしまうかもしれない。
……しかし、恐怖と同時に、私の心には別の感情も芽生え始めていた。
それは、戸惑いにも似た、微かなときめきだ。
冷徹と恐れられる公爵閣下が、傷ついた小鳥を案じ、名もなき雑草に生命の輝きを見出し、そして私にだけ、探るような、しかしどこか特別な視線を向けてくる。
彼の冷たい仮面の下に隠された、ほんのわずかな人間的な温かさや、私に向けられる「他の者とは違う」という関心。
ゲームでは決して見られなかった彼の姿に触れるにつれて、私の心は、一方的な恐怖だけでなく、彼の意外な一面への興味、そして、自分に向けられる(それがたとえ歪んだ形であれ)「執着」への、抗いがたい魅力に、徐々に囚われていった。
この感情は危険だ。悪役である彼に惹かれてしまうなんて、ゲームのシナリオから見ても、私の生存戦略から見ても、これ以上ないほど間違っている。
分かっている。分かっているのに――
公爵閣下の、私だけに向ける、あの探るような、熱を帯びた視線から、もう、目を逸らすことができなくなっていた。
それは恐怖だけではない。彼の冷たい外見とのギャップ、私に向けられる特別扱いの奇妙な感覚、そして垣間見た人間的な側面に触れた好奇心。それらが混ざり合い、私の心を強く引きつけていた。
公爵閣下のアプローチは、露骨なものではなかった。しかし、着実に、そして確実に、私の「空気」としての立場を揺るがし始めていた。
例えば、侍女たちの間で仕事を分担している時、本来なら他の者が担当するような、閣下の私室に関わる仕事を、いつの間にか私が任されることが増えた。
閣下の朝の身支度、午後の執務室の清掃、夜の寝室の準備。以前はベテランの侍女たちが担当していた領域に、新人でもない、特別優秀でもない私が割り当てられる。
他の侍女たちは不思議がっていたが、公爵閣下の意向には逆らえない。彼女たちの訝しげな視線を感じながらも、私は粛々と職務をこなした。
閣下の私室での仕事中は、常に緊張の連続だ。いつ閣下が入ってくるか分からない。幸い、作業中に閣下が入室されることは少なかったが、それでも、あの完璧に整頓された部屋に一人でいると、まるで彼の思考の中に立ち入ってしまったような、落ち着かない気持ちになった。
ある時、執務室を掃除していた私は、机の上に置かれたままの、読みかけの本に気づいた。難解そうな哲学書か、歴史書だろうと予想していたのだが、タイトルを見て目を剥いた。それは、隣国で出版されたばかりの、最新の恋愛小説だった。しかも、身分違いの恋を描いた、かなり甘めの内容らしい。
あの冷徹な公爵閣下が、恋愛小説? しかも、甘めの?
思わず二度見した。信じられない。ゲーム本編の彼は、そんな人間的な、ましてやロマンチックなものに興味を示すタイプではなかったはずだ。彼の辞書に「恋愛」などという言葉はないと思っていた。
私は慌てて本を元通りに戻し、何事もなかったかのように掃除を続けた。しかし、あの冷徹な仮面の下で、彼は一体何を考えているのだろう? そんな恋愛小説を読んで、何を思うのだろうか? その疑問が、私の頭から離れなかった。
また別の日には、庭園で作業をしていると、散歩に出られたらしい公爵閣下とばったり出くわした。いつものように視線を逸らそうとした私に、彼は立ち止まった。
「庭の手入れは、好きか」
突然話しかけられ、またしても心臓が跳ね上がる。
「……はい、外の空気は気持ちが良いので」
当たり障りのない返事をする。
公爵閣下は何も言わず、じっと私の顔を見つめた。その視線に、隠し事が全て見透かされているような、奇妙な感覚に襲われる。あの灰色の瞳の奥に、何か深い感情が宿っているように見えたが、それが何なのか、私には分からなかった。
「そうか」
短い返答の後、彼はそのまま歩き去った。しかし、私の中に残されたのは、彼の視線の強さと、あの言葉の真意を探ろうとする思考だった。
彼は本当に、ただ庭の手入れが好きかと尋ねただけだろうか? それとも、私が「外の空気は気持ちが良い」と言ったことに、何か意味を見出したのだろうか?
彼の言動の一つ一つが、私にとって謎となり、その謎を解き明かしたいという衝動に駆られるようになっていた。そして、その衝動は、彼を「避けたい」という当初の決意とは裏腹に、彼へと私の意識を強く向かわせた。
公爵閣下の執着は、他の人間にも明らかになりつつあった。
悪役令嬢が屋敷を訪れた時のことだ。以前なら、彼女と閣下は二人きりで密談を交わし、ゲームヒロインを陥れるための計画を練っていたはずだ。しかし、その日は悪役令嬢が閣下の執務室にいるにも関わらず、閣下は私を呼びつけた。
「紅茶を持ってこい。リリアンヌ嬢の分もだ」
閣下はそう命じた。悪役令嬢――リリアンヌは、閣下が私に直接指示を出したことに、明らかに不機嫌そうな顔をした。
私が紅茶を運び、部屋に入ると、悪役令嬢の刺すような視線が私に突き刺さった。彼女はゲームヒロイン以外にも、公爵閣下の気を引く存在には容赦しない、プライドの高い女性だ。
彼女にとって、私が閣下の関心を引いているという事実は、許しがたい屈辱なのだろう。
私は感情を消し、静かに紅茶を置いた。そして、部屋の隅で待機しようとした、その時。
「フレア、ここに座れ」
公爵閣下が、自分の傍にある椅子を指差した。悪役令嬢の顔色が変わる。私も驚愕した。使用人が、主人の傍に、しかも来客がある時に座るなど、ありえないことだ。
「しかし、閣下……」
「構わない。座れ」
有無を言わせぬ響きだった。私は戸惑いながらも、言われた通りに椅子に座った。悪役令嬢は、怒りを通り越して呆然としている。
その後、公爵閣下は悪役令嬢との会話を続けながらも、時折私に視線を向けたり、私が困っていないか気遣うような素振りを見せたりした。それは、他の誰にも気づかれないように、しかし私には明確に伝わるような、微かな仕草だった。
悪役令嬢は、結局その日はろくに話もできずに帰っていった。部屋を出て行く時、彼女は私を睨みつけ、何かを言いたげな顔をしていたが、公爵閣下の前では何も言えなかったようだ。
その日以来、悪役令嬢が屋敷を訪れる頻度は、さらに減った。そして、もし訪れたとしても、公爵閣下は私を傍に置こうとしたり、悪役令嬢の話に上の空だったりする。ゲーム本編で固く結託していたはずの二人の関係は、私の存在によって、明らかに歪み始めていた。
公爵閣下の執着は、単なる興味や好奇心では終わらなかった。そこには、独占欲のようなものが混ざり始めているように感じられた。他の人間には見せない顔を私に見せ、他の誰でもない私を選び、そして私を自分の傍に置こうとする。
この執着は、私の空気化作戦を完全に破綻させた。もはや私は、彼の視界から逃れることはできない。そして、怖いと思う反面、私に向けられる彼の特別扱いに、抗いがたい引力を感じ始めていた。
あの冷徹な公爵閣下が、私にだけ見せる意外な一面。私が困っている時にだけ向けられる、隠された優しさ。他の誰も彼を理解しようとしない中で、垣間見た彼の人間的な弱さ。そして、私を特別だと認識し、傍に置こうとする、不器用な執着。
それは、ゲーム本編の「悪役」とは全く異なる、生身の人間としての魅力だった。そして、その魅力に触れるにつれて、私の心は、ゲームのシナリオや「生存」という目的とは別の方向へと、揺れ動き始めていた。
この感情は危険だ。悪役である彼に惹かれてしまうなんて、自ら破滅へと向かっているようなものだ。分かっている。分かっているはずなのに――
夜、自室のベッドに横になりながら、私は昼間見た公爵閣下の顔を思い出していた。あの、私だけに見せた、少し困ったような、あるいは何かを期待するような、複雑な表情。
もしかしたら、断罪イベントは回避できるかもしれない。公爵閣下が悪役としての道を外れ始めている今なら。
だが、もし回避できたとして、このまま彼の執着の対象であり続けたなら、私の未来はどうなるのだろう? 彼の、甘く、そして重い独占欲に、私は耐えられるのだろうか?
答えは出ない。ただ、一つ確かなのは、もう、彼の視線から、彼の執着から、そして彼に対するこの感情から、私は逃げられない――その予感だけが、私の心を強く締め付けていた。
*
公爵閣下の執着は、日を追うごとに、静かに、しかし確実に深まっていった。それは、他の使用人たちが気づかないような、微かな変化として現れた。
例えば、私が閣下の執務室を掃除している際、彼が部屋にいるにも関わらず、彼は私に話しかけてくるようになった。以前なら、私が作業を終えて部屋を出るまで、彼は書類から顔を上げることもなかったのに。
「その花瓶の埃は、毎日拭いているのか」
など、仕事内容に関する質問だった。しかし、それは私を試すような厳しさではなく、単に興味本位、あるいは私との会話のきっかけを探しているような響きだった。
「はい、閣下。埃はこまめに拭くよう心がけております」
私は平静を装って答える。しかし、内心では穏やかではいられない。なぜ、そんなことを聞くのだろう? 他の侍女が掃除していても、同じように尋ねるのだろうか?
またある時は、閣下用の紅茶を準備している私の傍に、彼はいつの間にか立っていた。気づかないうちに、私の真後ろに気配なく立たれるのは、心臓に悪い。
「その茶葉は、どこのものだ」
低い声が耳元で響く。
「王都の商会から取り寄せているものかと存じます、閣下。詳しくは侍女長に確認いたしますが」
「……そうか」
私の返答を聞いた後、彼はしばらく何も言わず、ただ私が紅茶を淹れる手元をじっと見つめていた。その視線に居心地の悪さを感じながらも、私は集中を切らさないように努める。
彼の視線は、紅茶を淹れるという単純作業を見ているのではなく、私の「手」そのもの、あるいはその手で行われる一連の動作を、まるで珍しい生き物を観察するかのように見ているように感じられた。
私がカップに紅茶を注ぎ終え、彼に差し出すと、彼はそのカップを受け取りながら、私の指先に一瞬、触れた。意図的だったのか、偶然だったのか。
ほんの短い触れ合いだったが、彼の指先の冷たさが、私の肌に強く記憶された。そして、あの冷たい指先が、私に触れたという事実に、言いようのない混乱と、微かな熱が私の心を駆け巡った。
公爵閣下の執着は、物理的な距離だけでなく、精神的な距離にも及び始めていた。
彼は、私が他の使用人と楽しそうに話しているのを目撃すると、不機嫌そうな顔を見せるようになった。露骨に話に割って入ってくることはないが、会話している相手の使用人に対して、後で些細な注意をしたり、面倒な仕事を言いつけたりするようになったのだ。それに気づいた使用人たちは、私と話すことを避けるようになった。
屋敷の中で、私は孤立しつつあった。しかし、それは悲しい孤立ではなかった。むしろ、公爵閣下という絶対的な存在によって、他の人間から「切り離されている」ような、奇妙な特別感に包まれていた。
彼の視線が、彼の関心が、私だけに向けられている。その事実に、恐怖を抱きながらも、私の心は満たされていくのを感じていた。
悪役令嬢リリアンヌは、公爵閣下の変化にますます焦燥感を募らせているようだった。彼女が屋敷を訪れるたびに、閣下は彼女よりも私に注意を払い、彼女が話すゲームヒロインへの嫌がらせの計画にも、もはや聞き流していると言っても過言ではないほどだった。
悪役令嬢は、苛立ちを隠そうともせず、私に直接嫌がらせをしようとしたこともあった。私が運んでいる盆にぶつかり、紅茶をこぼさせようとしたり、私の靴に石を入れておいたり。しかし、そんな彼女の幼稚な行動は、公爵閣下によって静かに阻止された。
悪役令嬢が私の靴に石を入れているのを、閣下は見ていたらしい。彼は何も言わなかったが、後で悪役令嬢が帰った後、私の前に現れ、私の靴の中を指差した。
「何か、入っているようだが」
私は驚いて靴の中を見ると、確かに小さな石が入っていた。
「……すぐに取り除きます、閣下」
「いや、私がやろう」
公爵閣下はそう言うと、跪き、自ら私の靴の中の石を取り除いた。その行動に、私は声も出なかった。あの誇り高き公爵閣下が、モブ侍女である私の靴の石を取るなど、考えられないことだ。
悪役令嬢の仕業だと気づいているのだろうか? そして、それを私に気づかせた上で、あえてこの行動を取ることで、悪役令嬢への牽制と、私への、彼なりの優しさを示しているのだろうか?
公爵閣下の表情は、あの傷ついた小鳥を見ていた時や、恋愛小説を見てしまった時のような、人間的な、しかしどこか掴みどころのないものだった。あの冷たい灰色の瞳の奥に、私に向けられる強い感情が宿っているのは明らかだった。
彼の執着は、もはや恐怖だけではない。それは、私の心を甘く痺れさせる毒のようなものだ。彼の不器用な優しさ、私だけに見せる素顔、そして私を囲い込もうとする独占欲。それらが、私の心の奥深くにまで染み込んでいくのを感じる。
ゲーム本編の断罪イベントの期日は、確実に近づいていた。しかし、公爵閣下が悪役としての行動をほとんど取らなくなった今、あの最悪のバッドエンドが訪れる可能性は、日に日に低くなっているように思えた。
それは、私にとって安堵すべきことのはずだ。巻き添えを食らう未来は回避できる。しかし、同時に、私の心は別の不安に囚われていた。
断罪を回避したとして、このまま公爵閣下の執着の対象であり続けたなら、私の未来はどうなるのだろう? ゲームシナリオにはなかった、悪役公爵の執着対象になったモブ侍女の末路は?
だが、その不安すらも、公爵閣下から向けられる甘い視線や、彼だけが私に見せる表情を思い出すたびに、薄れていくのを感じる。
この感情に、抗うことはもう難しい。私は、悪役公爵の、歪んでいながらも純粋な執着に、絡め取られてしまったのだ。そして、その執着は、私の心を恐怖だけでなく、抗いがたい幸福感でも満たし始めていた。
これは、危険な恋だ。でも、もう後戻りはできない。
*
ある日の午後、私は公爵閣下の執務室の掃除と整頓を任されていた。今日の閣下は、珍しく午前中に外出されており、私は一人で広い部屋を片付けることができた。私は粛々と作業を進める。
執務机の上を拭いていると、以前、私がちらりと目にした、小さな村の絵が、綺麗に額装されて飾られていることに気づいた。以前は伏せて置かれていたのに、今は大切そうに、しかし目立たない場所に飾られている。
私は、その絵に描かれた素朴な風景を、改めてじっと見つめた。夕陽の色、教会の尖塔、畑で働く人々。ゲームの世界では見たことのない風景だ。これは、閣下の故郷なのだろうか? しかし、公爵家は王都に広大な屋敷を構えているはずだ。
様々な推測が頭の中を巡る。その時、背後で扉が開く音がした。
「そこにいたか、フレア」
公爵閣下だった。外出から戻られたのだろう。私は慌てて雑巾を置き、一礼した。
「閣下、おかえりなさいませ。片付けはもうすぐ終わりますので」
「いや、構わない」
彼は私の傍まで歩み寄り、私の視線の先、絵が飾られている場所を見た。そして、そのまま絵に視線を向けたまま、静かに言った。
「その絵に、興味があるのか」
ドキリとした。以前、私が絵をめくって見てしまったことに気づいていたのだろうか?
「いえ、滅相もございません。ただ、美しい絵だと思いまして……」
しどろもどろになりながら答える。
公爵閣下は、珍しく、微かに口元を緩めた。それは、嘲笑でも、冷たい笑みでもない、どこか懐かしむような、切ないような、複雑な、しかし人間的な表情だった。
「美しいか。……そうかもしれないな」
彼は絵に近づき、額縁を指先でそっと撫でた。あの、私に触れた時と同じ、冷たい指先。
「これは、私が幼い頃、ほんの短い期間だが過ごした村の風景だ」
公爵閣下が、自らの過去について語り始めた。驚きで、私は息を呑んだ。彼は使用人に、ましてや私のようなモブ侍女に、個人的な話など一切しない人物だった。
「私の祖母は、この村の出だった。病弱で、すぐに死んでしまったが……時折、私を連れて、この村に戻った」
病弱なお祖母様。短い期間。死別。彼の口から語られる、断片的な過去。ゲーム本編では描かれなかった、彼の人間的な背景が、少しずつ明らかになっていく。
「ここでは、誰も私を『公爵家の嫡男』として見なかった。ただの子供として扱われた」
彼の瞳に、遠い過去の光景が映っているように見える。村人たちの、温かい眼差しだろうか。
「畑仕事を手伝い、教会で賛美歌を聞き、祖母や両親と一緒に野花を摘んだ」
その言葉一つ一つが、彼の冷徹な外見とは結びつかない。「畑仕事」「賛美歌」「野花」。彼の人生に、そんな穏やかな時間があったなんて。
「祖母が死んでからは、一度も訪れていない」
彼の声に、微かな寂しさが混じったように聞こえた。
「……この絵は、祖母の遺品の中から見つかったものだ」
そう言って、彼は絵から視線を外し、私を見た。その灰色の瞳に、先ほどまでの懐かしむ色はなく、いつもの冷たい光が戻っていた。
「……どうして、お前に見せたのか、自分でも分からんが」
彼は言葉を切り、私から少し距離を置いた。まるで、感情を見せてしまったことを後悔しているかのように。
私は、彼の語った言葉を反芻していた。短いながらも穏やかな村での日々、そして、お祖母様の遺品であるこの絵。あの冷徹な公爵閣下が、心の奥底にこんなにも人間的な、切ない過去を抱えていたなんて。
彼の「悪役」としての行動の裏には、一体何があるのだろう? この絵に描かれたような穏やかな日々から、どのようにして彼は「冷徹無比」な悪役へと変貌していったのだろうか?
彼の過去を知ったことで、彼の人物像は、私の中でさらに複雑なものとなった。単なる悪役ではない。冷たい仮面の下に、深く傷つき、何かを隠し持っている人間。そして、そんな彼が、なぜ私にだけ、その過去の断片を語ったのだろう? なぜ、私にだけ、人間的な一面を見せるのだろう?
彼の特別扱いは、彼の孤独や、隠された優しさ、そして私への信頼の証のように感じられた。そして、その事実は、私の心を、彼に対する愛おしさで満たした。
この感情は、ゲームのシナリオにも、私の生存戦略にもなかったものだ。モブ侍女が悪役公爵の過去を知り、彼に惹かれていく。これは、完全に私のオリジナルルートだ。
断罪イベントまで、あとどれくらいだろう。ゲームの進行は、公爵閣下が悪役としての行動をほとんど取らなくなったことで、明らかに停滞している。悪役令嬢は焦っているだろうが、肝心の公爵閣下が動かない。もしかしたら、本当に断罪は回避されるのかもしれない。
安堵すべきことだ。しかし、私の心は、安堵とは異なる熱に満たされていた。
このまま、公爵閣下の傍にいたい。彼の孤独に寄り添い、彼の隠された優しさに触れ続けたい。彼の、私に向けられる歪んだ執着を、愛として受け止めたい。
公爵閣下は、私が何も言わずに絵を見つめているのを、静かに待っていた。やがて、彼は私に背を向け、窓の外を見つめた。その広い背中が、どこか寂しそうに見える。
私は、彼の背中を見つめながら、心の中で呟いた。
――閣下。あなたの孤独に、寄り添わせてはいただけませんか?
声には出さない。しかし、私の心は、すでに彼へと強く引き寄せられていた。
*
公爵閣下の私への執着は、もはや隠しようがなくなっていた。それは屋敷の使用人たちの間でも、公然の秘密となりつつあった。以前は訝しげな視線を向けていた他の侍女たちも、今では好奇心と、そして諦めの眼差しを私に向けるだけだ。公爵閣下という絶対的な存在が、私を選んだ。その事実は、彼女たちにとって理解しがたい現実であり、同時に逆らうことのできない決定だったのだろう。
閣下は、私が他の者と話しているのを見かけると、分かりやすく不機嫌になる。露骨な態度ではない。しかし、その場の空気が一瞬で凍りつくような、張り詰めた静寂が生まれるのだ。そして、後で私だけを呼び出し、「……貴様は、私の許可なく他の者と親しく話しすぎだ」などと、拗ねたような口調で、しかし真剣な瞳で非難してくる。
拗ねている。あの冷徹な公爵閣下が、私相手に拗ねている。その事実に、私はおかしくて、同時に対しようのない愛おしさを感じてしまう。以前の私なら、恐れて震え上がっていたシチュエーションだろう。だが、今は違う。彼の拗ねたような口調の裏に、私を独占したいという、子供のような純粋な願望が見えるからだ。
悪役令嬢リリアンヌは、完全に公爵閣下から見放された形になった。彼女が屋敷を訪ねてきても、閣下は碌に顔を合わせようとせず、もし顔を合わせたとしても、ゲームヒロインを陥れる計画の話には一切乗らなくなった。むしろ、悪役令嬢がゲームヒロインの名前を口にするだけで、露骨に嫌な顔をする始末だ。
悪役令嬢は激怒していた。プライドの高い彼女にとって、公爵閣下の態度は耐え難い屈辱だったのだろう。彼女は私を呼び出し、罵詈雑言を浴びせ、ゲームヒロインに告げ口すると脅してきた。
(リリアンヌ様、私を脅しても無駄ですわ。ゲームのシナリオは、あなたが公爵閣下と共謀してヒロイン様を陥れ、最終的に断罪される、というものなのですから。あなたが今ここで私をどうこうしても、結末は変わりませんわよ)
などと、転生者パワーで反論できればよかったのだが、残念ながら私の度胸はモブ侍女レベルのままだった。私はただ黙って頭を下げ、彼女の言葉をやり過ごすことしかできない。
しかし、そんな悪役令嬢の行動も、公爵閣下によって阻まれた。悪役令嬢が私に手を出そうとした瞬間、彼はどこからともなく現れ、悪役令嬢の手を掴んだのだ。
「貴様、何をするつもりだ」
その声は、氷のように冷たかった。悪役令嬢は公爵閣下の声に怯み、凍り付いたように動けなくなる。
「この女は、私のものだ。許可なく触れることを許さぬ」
公爵閣下は、悪役令嬢を睨みつけながら、私の肩を抱き寄せた。その腕の中に閉じ込められ、私は驚きで息を呑む。屋敷の者たちが見ている前で、公然と私を庇い、自分のものだと主張したのだ。
悪役令嬢は、屈辱に顔を歪ませながら、何も言えずにその場を去っていった。おそらく、彼女はゲーム本編のシナリオから外れてしまった公爵閣下に見切りをつけ、別の方法でゲームヒロインを断罪しようとするだろう。
だが、私には関係ない。彼女が何をしようと、公爵閣下が悪役としての道を外れた今、断罪イベントに巻き込まれる心配はなくなったのだから。
公爵閣下は、私が悪役令嬢に脅されていたことにも、私が彼女に何も言い返せなかったことにも気づいていたのだろう。彼は私を腕の中に閉じ込めたまま、何も言わずに、ただ私の髪をそっと撫でた。
その仕草に、私は全身の力が抜けるのを感じた。彼の腕の中で、私は初めて、この上ない安心感に包まれた。かつては恐怖でしかなかった彼の執着が、今では、私を包み込む温かい檻のように感じられる。
「……怖かったか」
公爵閣下は、私の髪に顔を埋めるようにして、低い声で尋ねた。
「いえ……閣下が、助けてくださったので」
「当然だ。貴様は、私のものなのだから」
彼の声には、微かな苛立ちと、強い独占欲が混じっていた。私の言葉に安心したのか、彼は私を抱きしめる腕に、さらに力を込める。痛いほどではない。しかし、決して逃がさないという、強い意志が伝わってくる。
この時、私の心の中で、ある感情が確かな形になった。それは、彼への恐怖でも、戸惑いでもない。
冷徹と恐れられる公爵閣下。孤独な過去を抱え、不器用な優しさを隠し持つ彼が、私にだけ見せる素顔。そして、私を誰よりも大切に思い、守ろうとしてくれる、歪んでいながらも純粋な愛情。
私は、彼に恋をしていた。ゲームのシナリオも、自分の生存も関係なく、ただ、エルネスト・クロードという一人の人間として、彼に惹かれていたのだ。
かつて、断罪イベントを回避するために「助けて!」と心の中で叫んでいた私。その叫びは、今、彼の腕の中で、嬉しい悲鳴へと変化していた。
*
ゲームのクライマックスである断罪イベントが、いつ起きるのか。正確な日付は分からなかった。しかし、ゲームの進行具合や、公爵閣下と悪役令嬢リリアンヌの関係が希薄になったことから、そろそろその時期が近づいていることだけは予測できた。
私は、いつか来るその日に怯えながらも、公爵閣下が悪役としての道を外れてくれたことで、巻き添えを回避できるのではないかという期待を抱いていた。
そうして日々を過ごしていた、ある日のこと。
静かに、しかし確実な報せが屋敷に届いた。
王都の広場、悪役令嬢リリアンヌがゲームヒロインによって罪を糾弾され、断罪された、と。
公爵閣下は、その報せを聞いた時、私の傍にいた。彼は私が報せの内容に驚いているのを静かに見ていたが、やがて、私を腕の中に抱き寄せながら、満足そうに呟いた。
「これで、貴様を害する者は、もういない」
彼の声には、安堵と、そして勝利のような響きが混じっていた。彼にとっての「害する者」とは、悪役令嬢であり、そしておそらく、私を彼から引き離そうとする、ゲームの登場人物たち全てだったのだろう。
ゲームのシナリオは、完全に書き換えられた。悪役公爵は断罪を回避し、モブ侍女だった私は、彼の唯一の存在となった。
これは、ゲームにはなかった、私たちだけの新しい未来。そして、その未来は、彼の甘く、抗えない執着に満たされていた。
*
断罪イベント後、公爵閣下を取り巻く状況は一変した。彼は悪役としての行動を取らなかったことで、罪に問われなかった。悪役令嬢は一人で断罪され、社交界から追放されたと聞く。ゲームのシナリオは、私が知る限りでは完全に書き換えられたのだ。
公爵閣下は、悪役ではなくなった。しかし、彼の私への執着は、決して消えることはなかった。むしろ、隠す必要がなくなった分、より露骨に、より甘く、私の全てを包み込むようになった。
最初こそ戸惑っていた屋敷の使用人たちも、今ではそれを受け入れ、私を「奥様」のような目で見るようになった。公爵閣下は、彼らの前でも私を特別扱いすることを隠さない。
私の食事は彼の傍で準備され、私の部屋には他の侍女が入ることを許されない。私が少しでも体調を崩せば、彼は仕事を放り出して私の傍に駆けつける。
そんな彼を、私はもう怖いとは思わない。彼の執着は、私という存在を何よりも大切に思う気持ちから来るものだと知っているから。それは、彼が私だけに見せる、歪んでいながらも純粋な愛情表現なのだ。
ある夜、執務室で二人きりだった時のことだ。私は彼の飲み終えたカップを片付けていた。公爵閣下は、いつものように私をじっと見つめていた。その灰色の瞳に、吸い込まれそうなほどの熱が宿っている。
「フレア」
私の名を呼ばれるたび、心臓がキュッと締め付けられる。
「はい、閣下」
そう答える私に、彼は不満そうに眉をひそめた。
「呼び方を変えろ」
「……え?」
思わず聞き返した。
「二人きりの時は、閣下、などと呼ぶな」
彼の声は、命令するような響きを含んでいたが、その瞳の奥には、別の感情が揺らめいているのが見えた。
「では……公爵、様……?」
「違う」
彼は首を振る。
「私の名を呼べ。エルネスト、と」
エルネスト。彼のファーストネーム。私のようなモブ侍女が、あの冷徹な公爵閣下のファーストネームを、呼び捨てに、いや、呼び捨てではなくても、敬称なしで呼ぶなんて、ありえないことだ。
「しかし、そのような無礼な真似は……」
私が躊躇すると、公爵閣下は椅子から立ち上がり、私の傍に歩み寄ってきた。そして、私の頬に手を添え、顔を覗き込む。
「無礼ではない。命令だ」
彼の指先が、私の肌に触れる。ひやりとして、しかし熱を帯びている。
「他の誰にも、私の名を許さない。貴様だけに許す」
その言葉に、私は全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。他の誰にも許さない名前を、私だけに許す。これは、彼からの究極の独占であり、そして、私への愛の証だった。
「……エルネスト、様」
私は震える声で、彼の名を呼んだ。まだ「様」をつけてしまう。長年染み付いた使用人としての習慣は、そう簡単に抜けない。
公爵閣下は、私の呼び方に満足したようだったが、微かな不満も残っているようだった。
「様は不要だ。だが、まずはその呼び方でいい。……慣れろ」
彼はそう言って、私の頬を撫でてから、手を離した。そして、少し離れた場所に立つと、再び私を見つめた。
その瞳は、まるで初めて私の名前を呼んだ時と同じように、探るような、しかし確かな熱を帯びていた。
*
それから、二人きりの時は、私は勇気を出して彼のファーストネームを呼ぶようにした。最初はどうしても「エルネスト様」になってしまったが、慣れてくるにつれて、「エルネスト」と呼び捨てで呼べるようになった。
私が彼の名を呼ぶたび、公爵閣下の表情は微かに緩む。そして、満足そうに、愛おしそうに、私の名前を呼んでくれるのだ。
「フレア」
その声に、以前のような冷たさは微塵もない。ただ、私という存在への、純粋な、そして重い愛情が込められている。
彼の執着は、私の生活の全てを覆い尽くしていた。私がどこへ行こうと、何をしようと、彼の視線が私を追っているように感じる。一人で屋敷の外に出ることは許されない。他の男性と話すことなど、もってのほかだ。
しかし、私はそのことに息苦しさを感じなかった。むしろ、彼の甘い檻の中にいることに、安堵と幸福を感じていた。彼は私を守り、私を誰よりも大切にし、私が必要とする全てを与えてくれる。私は、彼の世界の中心になったのだ。
かつての私は、この悪役公爵から逃れるために、心のなかで必死に助けを求めていた。だが、今の私は、彼の甘い執着から、もう二度と逃げられないことを知っている。そして、それは、私にとって、何よりも幸せなことなのだ。
公爵閣下は、執務の合間に、あるいは私の傍に座って、静かに私を見つめていることが増えた。そして、時折、ぽつりと、あの小さな村の絵について語ることがあった。幼い頃の穏やかな日々、お祖母様のこと。王都にいるご両親のこと。彼の口から語られる過去は、彼の冷たい外見からは想像もできないほど、温かく、そして切なかった。
私は、彼の話に静かに耳を傾けた。彼の孤独に寄り添い、彼の過去を共有する。それは、私にしかできない、彼への愛の形だった。
ゲームのシナリオは終わった。悪役公爵の断罪というバッドエンドは回避された。そして、モブ侍女だった私の人生は、ゲームとは全く違う、予想もしなかった方向へと進んだ。
冷徹無比と恐れられた悪役公爵は、私だけの、世界で一番甘く、そして重い、私のエルネストになったのだ。
*
夜が更け、公爵閣下との執務室での時間が終わる。彼は私の手を引いて立ち上がった。向かう先は、執務室ではなく、彼の私室へと続く廊下だ。
部屋に入ると、柔らかな寝台が目に映る。部屋の中は静かで、温かい空気が流れていた。
彼は私を抱きしめ、深く口付けた。そのキスは、情熱的で、私の思考を全て奪い去るほど甘かった。唇が離れた後、彼の灰色の瞳が、私だけを映している。
「君は、私の光だ」
彼はそう言って、私の髪をそっと撫でた。
「君がいるだけで、この世界は輝きに満ちている。……そして、私も」
彼の指先が私の頬を滑り、顎を捉える。そのまま顔を上げさせられ、もう一度、甘く長いキスをされる。
肌を重ねる温もりが、私たち二人の絆を、より強く、より深く確かめ合うようだった。彼の腕の中で感じる安心感は、この世の何物にも代えがたい。
――エルネスト。私にとっても、あなたが、私の光です。
心の声は、彼に届いただろうか。
この甘い執着から、もう逃げられない。そして、逃げる必要なんて、どこにもないのだ。
私たちは、ゲームのシナリオにはなかった、私たちだけの新しい物語を、これから二人で紡いでいく。悪役公爵と、彼に溺愛されるモブ侍女の、甘く、そして歪んだ、けれど確かに幸福な物語を。
了