第8話 炎と小さな本体
炎の魔法を発動できた事に女の子は顔を輝かせていた。
その手に宿る熱が彼女自身のものとして脈打ち始めるのを感じ、胸の奥が弾けそうなほどの喜びに満たされていた。
だが――その安堵と歓喜は一瞬で引き裂かれる。
鈍く重い音を伴って空気を裂くように現れたのは棘付きの鞭だった。
血を啜るような赤黒い鞭が激しい振動を伴いながら彼女めがけて襲いかかってくる。
「ブラッドウィップ!」
咄嗟に俺は倒れ込んだ体勢から右腕を突き出した。
まともに体勢を立て直す余裕などない。
叩きつけるような一撃を無理やりその腕一本で受け止めた。
乾いた音が響く。
皮膚が裂ける。
棘が食い込み、血がにじむ。
だが俺はそれ以上の勢いをどうにか殺し、炎の魔法を得たばかりの女の子を守る為に踏みとどまった。
痛みで視界がぼやけ始めた。
喉の奥に何かがこみ上げる。
それでも――
(……炎の魔法が出来るようになった今、この女の子はあの化け物の天敵だ)
俺の体が限界に達して動けなくなっていた。
戦える状態ではない。
それでもあの植物の怪物を倒すにはこの女の子の炎の魔法に頼るしかない。
もはや他に道は残されていなかった。
――あの化け物は今までは加減していた。
俺たちを弄ぶように攻撃に緩急を混ぜていた。
だけどこれからは違う。
炎の魔法が自分の敗北を意味するとわかった以上、あいつは全力で、手段を選ばずにこの子を潰しにくるだろう。
少女は動揺を抑え込むように震える指先を前に揃えて両の掌を突き出す。
その掌の奥に未熟ながらも確かに芽生えた熱が集まっていた。
彼女は次の魔法詠唱に入ろうとしていた。
「燃え盛る古の炎……」
「キエエエエェェェ!!ブラッドウィップ!」
だが当然、待ってなどくれない。
低く唸るような音とともに地を這う何かが突然加速した。
それは茂みの奥から滑り出すように現れた――蔓だ。
無数の鋭い棘がついた赤黒い触手状の異形、それはまるで生きているかのようにのたうち、曲がりくねりながら一直線に女の子へと襲いかかる。
咆哮と共に振り下ろされるそれは、詠唱中の少女を確実に仕留める軌道だった。
「くそっ……!」
反射的に体が動いた。
俺は地を蹴り、飛び込むようにして少女を抱えながらその場を転がる。
ギリギリのところで鞭は少女の身体をかすめるだけに終わる。
だが代わりに俺の肩口に凄まじい衝撃と痛みが走った。
棘が裂き、肉が引き裂かれた感覚が遅れて痛みとなって脳を貫いた。
「はぁ……っ、はぁ……っ。さすがに、これ以上は……もう、動けねえ……」
俺の息は荒れ、膝が地面についたまま震える。
視界が霞み、呼吸が熱い。
「……」
少女は黙って俺を見つめていた。
目の奥に決意と不安が入り混じっていた。
「なあ……その呪文の前置き、あの詠唱みたいなの。省略とか……できたりしないのか?」
俺がそう問うと女の子は一瞬きょとんとした後、ぽんと手のひらを叩いた。
「う~ん……できるよ!まかせて!」
「できるんかよ!!」
こんな状況でも笑いが零れるほど元気よく彼女は親指を立てて応えてきた。
その無邪気さに救われる。
そしてわずかな希望が心に灯る。
「いいか、俺の体力が少しでも戻るまででいい……。頼む、耐えてくれ」
「うん!わかったわ。私もやってみる!」
そうして俺たちは最後の賭けに出る。
俺も、少女も、化け物も――全員が理解していた。
彼女の炎の魔法はまだ制御が甘い。
炎こそ強力だが、狙いが定まらない。
だからこそ確実に焼き払うには奴に接近するしかなかった。
それを察したのか化け物の様子が変わった。
これまで喚き散らしていた声が止み、その代わりに動きの一つひとつに焦燥が滲む。
奴の下に広がる巨大な花弁――まるで異形の王座のようにねじれた花がぐらりと揺れた。
そして次の瞬間、
ふわり、と――
花から細かな鱗粉が舞い上がった。
それは一見金色の雪のように幻想的だった。
だが確実に毒が広がるようにじわじわと空気を汚染していく。
「……なっ!」
言葉にならない声が漏れた。
それが毒か、麻痺か、眠りか、あるいはその全てか。
どれであれ呼吸に乗って体内に入れば無事では済まないのは明白だった。
「……まずいな」
状況は悪化した。
これではあの女の子が距離を詰めることが難しくなる。
女の子に向かって遠距離から棘を帯びた蔓がうねりをあげて襲いかかる。
「ブラッドウィップ」
空気が粘つくように淀み、蔓の先端がぬめった軌跡を残しながら加速する。
一度でも捉えられれば骨ごと圧し折られる――そんな直感的な恐怖が皮膚を刺した。
だが、彼女の瞳は微動だにしない。
両手が胸元で交差し――次の瞬間、炎を呼ぶ詠唱が空気を裂く。
「ランベリ フローガ!」
迸る火炎が轟音とともに放たれた――だがそれは狙いを外れていた。
蔓にはかすりもしない。
その炎はまるで関係のない方向へと飛んでいった。
だが、それでよかった。
狙いを外したように見えたその炎に化け物の視線は引き寄せられた。
その目は放たれた炎の行方を追っていた。
瞬間、少女の足が土を蹴る。
疾走。
彼女は素早く地面を踏みしめて走り抜ける。
視線を外させたその隙に音もなく影のように回り込む。
進行方向とはまるで逆、炎とは正反対の方向――すなわち化け物の背後へ。
その動きは鋭く正確だった。
……上手い!完全な死角に移動した。
まさに死角。
視界の外。
化け物の目は正面にしかなく、そして今、その目は真っ直ぐ炎を見据えている。
――彼女の姿は完全に失われた。
だが、彼女は有利な位置を奪っただけでは満足しなかった。
撒き散らされた鱗粉。
吸い込めば喉が焼けるように痺れ、目は潤み、動きが鈍る。
けれどそのすべてを押し切って彼女はさらに踏み込む。
またも両手を突き出し、同じ魔法の名を叫ぶ。
「ランベリ フローガ!」
灼熱が空間ごと焼き払うように吹き上がった。
濃密に漂っていた鱗粉が焼き切られ、空気が一気に澄んだような錯覚さえ起こす。
そしてそのまま一直線に本体へと火炎が襲いかかる――
「ブランブルウォール!!!」
化け物が絶叫しながら全身のツルを一斉に集めて、自らと炎の間に厚い壁を築く。
ねじれたイバラが交差し、幾重にも折り重なって立ちはだかる。
しかしそれは恐怖に追い詰められた末の衝動的な行動に過ぎなかった。
――遅い。
あまりにも遅すぎた。
目の前で巻き上がったイバラの壁は燃え上がる魔力の前にただの枯れ木も同然だった。
乾ききった鞭とツルはあっという間に紅蓮の業火に呑まれ、音もなく崩れ落ちる。
そしてその奥、守るべき本体に向けて容赦なく炎が噛みついた。
「ギャアアアアアアァァァァ――!」
叫びが木霊する。
黄色い液体を飛び散らせながら化け物は断末魔の悲鳴をあげる。
炎にのたうちながら崩れゆく異形の躯。
その中から焦げ跡ひとつない――掌ほどの緑の生物がぽとりと落ちた。
――こいつが、本体か。
炎の残光が揺らめく中で女の子の目が鋭く細められる。
次の攻撃、次の詠唱。
それが必要だと直感していた。
彼女は渾身の力で両手を構え、最後の一撃を放とうとする。
「これで終わり……ランベリ フローガ!」
再び両手を突き出す。だが――
「……えっ……?」
しかし、炎は――来なかった。
何も生まれない手のひらが宙を切る。
詠唱の声だけが虚空に吸い込まれ、掌に走るはずの熱はただの沈黙と共に消えていた。
その場に佇んだまま彼女の呼吸だけが乱れている。
――体力の限界。
それは彼女の意思とは無関係に容赦なく訪れた。
「残念だったな……!」
その声は先ほどまでの上品で丁寧な口調とはまるで違っていた。
「よくもこのラフレア様を……こんな屈辱に晒してくれたな。貴様を連れて帰るのは、やめだ……」
小さな緑の化け物――ラフレアと名乗ったそれが深く冷たい声音で言い放つ。
言葉の最後には鋭く冷たい殺意が滲んでいた。
「今ここで死ね!」
――その瞬間だった。
地面が呻くようにうねり、足元から裂け目が走る。
女の子の足元を中心に炸裂するように裂けた地面から、無数の蔓が一斉に突き出した。
それはただの植物ではなかった。
棘は鮮血のように赤黒く光り、絡み合いながら獲物の柔らかな身体を狙い定めている。
まるで大地が生き物のように女の子を飲み込もうと牙を剥いて襲いかかってくる。
「ブラッドウィップアラウンド!!」
複数方向から同時に殺すためだけに放たれる技。
――逃げ場はない。
真正面から喰らえばその身体は確実に串刺しになる。
しかし。
「……させねぇよ」
俺は動いた。
どこかで冷静に判断していた。
あの子はここまで一人で全力を尽くして戦ってくれた。
俺が立ち上がれるまで命をかけて繋いでくれた。
その時間がほんのわずかでも俺の身体を動かすだけの余裕を与えてくれた。
なら――それで十分だ。
あとは俺の番だ。
「ハリケーン スイング キック!」
空気が震えた。
一瞬、時が逆巻いたように視界が歪み、俺の脚が風を裂いて振り抜く。
地面を蹴り飛ばすような勢いで踏み込んだ脚は風圧を纏いながら唸りを上げ、蹴りの軌道と共に螺旋を描いて爆風を発生させた。
暴風は唸り声をあげながら周囲へと膨れ上がり、棘の蔓を一瞬で吹き飛ばす。
地面から這い出てきた茎と鞭は時間が止まったかのようにぴたりと動きを失った。
「――今だ!」
脚に込めた力を逃さぬように、踏み込みと同時に身体をひねり、手を伸ばす。
風を裂いて届いた腕は正確に少女の細い肩を掴んだ。
そのまま引き寄せるようにして身体を重ねる。
直後、すぐ背後を一閃――暴れ狂う棘の蔓が二人の通っていた空間を裂きながら通過していった。
ギリギリで間に合った。
あの一瞬を逃していれば彼女の命はもうなかった。
彼女の体温が、鼓動が、腕の中で確かに感じられた。
それは紛れもなく生きている証だった。
俺は彼女の鼓動を感じながら静かに感謝を口の中で呟く。
「……ありがとう。ここまで、本当によく持ちこたえてくれた」
「……えっ?」
――だが終わらせるのは俺だ。
腕を解き、すぐにラフレアとの距離を詰める。
躊躇いも言葉もない。
ただその緑の瞳を睨み据えて一気に踏み込む。
「インフィニット デストラクション パンチ!」
研ぎ澄まされた一撃。
俺の渾身が拳に宿っていた。
拳があの緑の身体を捉えた瞬間、ラフレアの目が大きく見開かれた。
「……ァァアア――ッ!」
喉を裂くような悲鳴が短く響き、その口が何かを言おうとした瞬間にはもう遅い。
肉体が砕けるのではなかった。
むしろその身体は淡く赤い光に包まれ、音もなく変化していく。
ひとしきり輝いたあとそこにはもう化け物の姿はなかった。
ただ――指先ほどの緑色の宝石が静かに残されていた。
俺はそれを見下ろす。
その瞬間、風景が音もなく揺らぎはじめた。
辺りを覆っていた異常な光景――異様な熱帯のジャングルが徐々に崩れ、悪夢のような光景は消え去っていった。
どす黒く濁っていた葉は柔らかな緑へと変わり、地面にからみついていた蔓はひとつ、またひとつとしおれていった。
空気は明らかに変わっていた。
湿り気と瘴気のような不快な重さは消え、肌を撫でる風は冷たく澄んでいる。
遠くから虫の声。
咲き始めた草花の香りが夜気に乗って鼻をくすぐる。
辺りを包んでいた重苦しい「異常」はゆっくりと崩れ落ちていった。
やがて遠くの闇の中に――見覚えのある一本のアスファルトの道が淡く浮かび上がる。
街灯の光がぼんやりと照らしていた。
「やったぁ!私たちが勝ったんだ!」
背後から女の子の明るい声が弾けるように響く。
声が震えているのは歓喜のせいか、それとも極限まで張り詰めた緊張が解けたせいか。
「……あの道、間違いない。元いた場所だ」
俺の言葉に女の子がほっと息を吐く。
――あれは幻だった。
化け物の鱗粉かそれとも瘴気が視界を狂わせていたのだろう。
まるで別の場所に迷い込んでいたかのような錯覚。
だが、その源である怪物が砕け散った今、偽りの景色もまた役目を終えて崩れていった。
「はぁ……はぁ……他のやつらに見つかる前に、早く帰ろう。自転車ですぐに家に着くから……」
「ええ……自転車が何かは分からないけど……私、もう歩けそうにないし。任せたわ」
道を戻り、俺たちは森の入口近くに置いてた自転車を見つけ出した。
灯りの届かない林の中、微かに月明かりが反射する金属のフレームを頼りにそっと草をかき分けて取り出す。
サドルの後ろに女の子を乗せてハンドルを強く握る。
空気はまだ冷たいが、それがむしろ心地よく思えた。
そして俺は思いきりペダルを踏み込んだ。
「きゃ~っ!速いっ、速い~~っ!」
背後から少女の甲高い叫び声が響く。
まるで遊園地のジェットコースターにでも乗っているかのようなはしゃぎ方だった。
スピードに合わせて彼女の髪が夜風にたなびく。
「おい、あんまり大声出すなって!またどこかに変なのがいたら、見つかるぞ!」
「分かってマース!でも叫びたい気分なの!ひゃっほー!」
「おい!だから止めろって!」
「分かりました~!やっほーーー!」
「お~い!」
深夜の静けさを切り裂くように二人の声が暗い森道に響く。
だがそれは不思議と怖さよりもどこか痛快で自由だった。
そうして俺たちは誰もいない夜道を駆け抜けた。