第7話 突風と植物の罠
不気味な形をした異様なまでに肥大化した植物の化け物が湿ったような声で話しかけてきた。
「こんばんは。モルガルを倒すところを見ていましたよ」
……モルガル?
あの血と牙にまみれた狼の化け物にそんな名があったのか。
いや、それより――何だこの異様な会話は。
思考を遮るように次の言葉が続いた。
「その娘を渡してください。そうすれば、貴方は自由にしてあげましょう」
妙に甘ったるい声だったが、どこか生理的な不快感を伴っていた。
ご褒美を与えるような響きでありながら提案ではなく命令としてはっきりと響いた。
瞬間、横から鋭い声が響いた。
女の子が俺と植物の化け物の会話に割り込むように強い語気で叫んだ。
「嫌よ。あんな場所には絶対に戻らないわ!」
迷いのかけらもなかった。
その一言で俺の中にあった戦略は瓦解した。
一瞬だけ頭をかすめた作戦――彼女を一度奴に渡し、自分だけ解放された後で彼女を救出するという打算は彼女の一言で完全に打ち消された。
同時に蔓がきしむ音がした。
俺のもう片足にも植物の蔓が絡みつき、締め上げられる。
宙吊りの体が完全に固定された。
「……即答かよ。もうちょっと考えても良かっただろ!一度俺を解放させた後に助けてもらうとかいう戦略は無かったの?」
「無いわ!」
彼女は食い気味に口を挟んだ。
強い目でこちらを見上げて言った。
「いい?植物は火に弱いの。それなら私の炎の魔法でイチコロよ!今なら絶対に出来るような気がする!キミはそこで見てなさい!」
それは無謀とも思える自信だった。
だが何故か言葉は真剣そのものだった。
まるでそれが現実になると信じて疑わない子どものような、だけどどこかで本能的に真実を掴み取っているようなそんな声だった。
俺は逆さまに吊るされた視点で天を見上げるように彼女を見ていた。
そして思った。
……また始まったよ。
さっき見たよ。
多分呪文を唱えても何も起こらない。
だが今回は――違った。
彼女が静かに呪文を口にした。
「燃え盛る古の炎、我が声に応え、その力を我が手に集い解き放て――」
風が吹いた。
最初は微かな揺らぎだった。
だが、彼女の周囲に集まる空気が重くなり、圧を持ち始めた。
草木がざわめき、空気がねじれるような音を立てる。
空気が震え、魔力が吸い寄せられるように彼女の手へと集まっていく。
植物の化け物はなおも彼女を攻撃せず、無防備に観察していた。
その姿勢には侮りと慢心がにじんでいた。
どうせ火花しか出ない、そう信じ切っている表情だった。
少女が両手を前に突き出した。
彼女の掌から見えない風が迸るように解き放たれる――その直後。
「ランベリ フローガ!」
その声が響いた刹那、地が唸り、空が鳴った。
轟音と共に爆発的な風が周囲を飲み込む。
俺の身体は吊られたまま左右に振り回され、空中をぶら下がるミノムシのように大きく揺れた。
……手応えはあった。
けれどその直後すべてが止まった。
風も、音も、動きも。
空気が一気に冷えたかのように静寂だけが残された。
呪文が空気に溶けてから数秒。
まるで最初から何も起こらないと誰もが知っていたかのように、ただ静けさだけがそこにあった。
「――おお、これは……何とも壮絶な……」
しばらくの間をおいて俺の口が勝手に動いていた。
「……凄いオナラですなぁ~」
俺は見てしまったのだ。
呪文の余波に押されて女の子の身体がほんのわずか宙に浮いたのを。
「うるさいわね!」
彼女は顔を赤くし、ぎゅっと拳を握りしめて怒鳴った。
「おまえ、これじゃあ火の魔法じゃなくて……」
言いかけた瞬間、彼女がじろりとこちらを睨んだ。
「それ以上言ったら先にキミからブッコロスわよ……」
「俺はちゃんと見てやったぞ?魔法を言った直後の浮いた時に、ちょっとだけ顔がドヤってたの……」
「もうやめてぇぇえええええ!!」
女の子は叫びながら地面に転がってた枯れ枝や石を拾って次から次へと俺に向けて投げつけてきた。
逆さ吊りの俺の視界にシュッという音とともにそれが飛び込んでくる。
まさかこの体勢で味方から物理攻撃が飛んで来るとは――
「いてぇっ!?」
ヒットした。
思いのほかクリーンに。
「お前!吊るされてる人間に物を投げるとか何考えてんだよ!」
「魔法失敗して辱められたうえにオナラとか言う、あんたが悪いんだからね!」
宙に揺れながら俺がジタバタと抗議し、女の子が地団駄を踏んで反論するというどこか滑稽なやり取りが続いていた。
植物の化け物はそんな俺たちのやり取りを眺めながら不気味に笑っていた。
「くっくっく……。さあ、もうよろしいでしょう。貴女にはなるべく危害を与えないようにとのご命令。私も出来れば穏便に済ませたい。さあ――行きましょうか」
それは優しさでも譲歩でもない。
ただ決められた手順をなぞるような、無機質な丁寧さだった。
女の子は唇を噛みながら、それでも逃げ道のない空間で身体を引き締めた。
細い腕を広げ、僅かに足を開き、何かの構えを真似しているようだった。
その姿は決して頼りがいのある格闘家には見えなかった。
だが、その身からははっきりと戦う意志が感じられた。
一方の俺はというと――吊るされた状態のままもがいていた。
両足を締め上げる蔓をどうにか緩めようと、靴を無理やり脱ぎ、ズボンの裾を膝で引っ掻き、身をくねらせる。
まともな力はもう残っていなかった。
だけど、今この場で何もしなければ彼女はあっけなく捕まる。
それだけは――何があっても避けたい。
――運命の瞬間が訪れた。
植物の化け物が少女に向かって一歩踏み出す。
そのわずかな間合いの変化を捉えて俺は全身の力を込めてズボンを脱ぎ捨て、勢いよく足を振り抜いた。
蔓が一瞬緩むと、踵をねじ込んでこじ開けるように身体を捻った。
全身が重力を取り戻す。
逆さ吊りから落ちる勢いを俺はそのまま回転力に変えた。
「――ハリケーン スイング キック!」
口から飛び出したのは英語三単語の即興技名。
先ほど女の子が使おうとした炎の魔法の失敗バージョン――その暴風の残響が頭に残っていたのだ。
風を起こすつもりで蹴りを振り抜く。
狙いは緑色の醜悪な顔面。
勢いそのままに俺の足は真横から化け物の顔面を捉えた。
――グニャリ。
足先に伝わる感触は思った以上に柔らかく、粘り気を帯びているかのようだった。
緑色の顔面は風船のようにゆがんでいく――まさかここまで弾力があるとは。
「英語勉強中だ、バカヤロー!」
勢いに任せて言い放ったが手応えのなさを感じていた。
確かにクリーンヒットさせた。
だが、深く刺さるような衝撃は一切なかった。
むしろ、表面を撫でただけのような虚しさだけが残る。
期待していた「決まった感」は微塵もない。
「惜しかったな。貴方は何度も罠に引っかかる」
植物の化け物――いや、こいつはただの化け物ではない。
思考し、罠を仕掛け、冷静にこちらの動きを読み切っている。
声には焦りも苛立ちもなかった。
ただ薄く笑みを含ませながらツルの先端をゆっくりと持ち上げる。
そして、鞭のようにしなったそのツルがうねるような唸りをあげて俺に襲いかかる。
避けられない――
頭が重い。
体力はすでに限界を超えている。
さっきまで逆さ吊りだったせいで頭に血が昇ったまま視界がまだ滲んでいる。
後頭部がズキズキと痛み、バランスすらままならない。
逃げ場はない。
守り抜ける体力も、もはや残っていなかった。
それでも俺は両腕を上げて無様にガードするしかなかった。
――こいつ、最初から全部計算して動いてやがる……。
攻撃も、捕縛も、挑発も、すべてが理に適っている。
こいつには感情がないのか?
それとも感情すら戦略の一部として扱えるほど賢いということなのか。
俺はツルの一撃を防ぎながら思いきってその根本を掴んだ。
もし何かの拍子に主導権を奪えるなら――と、一縷の望みにすがるように。
だがそれが罠だった。
掴んだ瞬間ツルはまるで生き物のように蠢き出し、俺の両手首に食らいつくように絡みついた。
逃れる間もなくもう片方の手首に絡みつき、さらに両足へと滑るように這い上がってくる。
その動きは異様に早かった。
蛇のようにしなやかで、それでいて確実に締め上げてくる。
「くそっ……!これも読まれていた!」
身を捩って抵抗しようとした瞬間、視界がぐるりと反転した。
俺の体は再び逆さ吊りにされた状態に戻されていた。
足先から頭までぴったりと縛られたまま。
しかも今度は――
「……池?」
俺の真下、数メートル先にはゆらりと揺れる水面が広がっていた。
だがただの水ではない。
その中を泳ぐいくつもの黒い影……見間違いようもない。
――ワニ……何でこんな所に?
急に水辺の生臭い風が鼻を刺す。
無数の目がこちらをじっと見上げていた。
空気が生臭くなり、獲物を狙う気配が漂っていた。
最悪だ……。
「う~ん、これはちょっとキツいかもしれないな。パンツを脱いだらワンチャン脱出出来るかも!」
すると即座に――
「もうそれ以上脱がなくてもいいわよ!」
横から飛んできた鋭いツッコミ。
女の子の声だった。
背中を少しだけ震わせながらもその目はまっすぐに俺を見据えていた。
体力は削られ続けている。
脳に回る酸素も限られ、思考はにぶる。
だけど次の瞬間、彼女が呟いた言葉が俺の耳に届いた。
「ねぇ、さっきは助けてくれてありがとうね」
「……ん?」
「ああいう時にすぐに私の事を助けようと動いてくれるなんて思ってなかった。キミは本当に……凄いよ」
「どうしたんだ?急に」
「私ね、いつも逃げてばかりいたの。少しでも嫌なことがあると、自分から目を背けて、何もしないで終わらせて……」
その声にはかすかに震えが混じっていた。
だが、それは怯えからくるものではなかった。
「でもね、キミを見て思ったの。こんな絶望的な状況でも諦めずに動いて、戦って、見ず知らずの私を助けてくれようとする人がいるって知って、私……」
言葉を詰まらせた彼女の目に迷いはもうなかった。
「私、変わりたい。変わらなきゃいけないって……今、強く思ったんだ」
――ああ。
その表情に俺は確信した。
彼女はもうただの「逃げてばかりの女の子」じゃない。
目の前で変わろうとしている。
「燃え盛る古の炎、我が声に応え、その力を我が手に集い解き放て」
詠唱が始まった。
低く、だが震えのない声だった。
風が巻き、彼女の周囲に赤い火の粉が舞い始める。
その中心に立つ彼女の姿はもはや別人のように引き締まっていた。
両手を前に突き出す。
狙いはねじれた蔦を操る植物の化け物――その緑色の体。
化け物の表情がわずかに引きつるのが見えた。
理解したのだ。
この子がもう「ただの少女」ではないことを。
「ランベリ フローガ!」
高らかに響く呪文と同時に彼女の両掌から解き放たれたのは――
――炎だった。
炎は轟音を引き連れて放たれ、空気を巻き込みながら力強く前へ伸びていった。
……何故か俺の方に向かって。
視界が一瞬、真っ赤に染まった。
「う"ぉおおおおおおお!?あっちぃぃぃぃぃいいい!!」
何が起きたのか理解する暇もなかった。
燃えていた。
俺が、しかも思いっきり。
「な、なんでこっち来るんだよおおおおおおお!!?」
絶叫とともに焼かれる感覚が皮膚の表面から脳まで突き抜けていく。
しかし同時に俺の手足を絡め取っていた蔦も容赦なく焼かれ、黒く焦げていった。
そして――
「お、おい!待て、やば――」
バチンと音を立てて蔦が焼き切れた瞬間、俺の身体は重力に引かれて落下する。
真下にはあの、問題の池。
その中に――
「ワニいいいいいいいィィィィ!!」
全身に火をまとった状態で俺は水面に叩きつけられた。
轟音とともに激しく水飛沫が上がり、池の中のワニたちは一斉に逃げ出した。
炎に包まれた人間が天から降ってきたのだ。
俺がワニでも逃げるわ。
水に沈み、浮かび上がり、必死にクロールで岸へと向かう。
息が切れ、頭が朦朧とし、肺は水と煙を間違えているかのようだった。
「はぁ……はぁ……!死ぬ……!マジで死ぬ……!もう吐く……」
息も絶え絶えに地面に這い上がったその横で――
「やった!やったわ!炎の魔法が成功したの!」
満面の笑みを浮かべて両手を掲げて跳ねる彼女。
さっきまで臆病だった少女はどこにもいなかった。
俺はずぶ濡れで焦げ跡だらけの服を纏い、仰向けに倒れた。
「はぁ……はぁ……そりゃ良かったな……俺はもう、限界です……」